晩年 75

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太宰 治

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問題文

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(わたしはうまれてはじめてじべたにたったときのことをおもいだす。あまあがりのあおぞら。)

私は生まれてはじめて地べたに立ったときのことを思い出す。雨あがりの青空。

(あまあがりのくろつち。うめのはな。あれは、きっとうらにわである。おんなのやわらかいりょうてが)

雨あがりの黒土。梅の花。あれは、きっと裏庭である。女のやわらかい両手が

(わたしのからだをそこまではこびだし、そうして、そっとわたしをじべたにたたせた。)

私のからだをそこまで運びだし、そうして、そっと私を地べたに立たせた。

(わたしはまったくへいきで、にほ、かさんぽ、あるいた。だしぬけにわたしのしかくがじべたの)

私は全く平気で、二歩、か三歩、あるいた。だしぬけに私の視覚が地べたの

(むげんのぜんぽうへひろがりをかんじとり、わたしのりょうあしのうらのしょっかくがじべたのむげんのふかさを)

無限の前方へひろがりを感じ捕り、私の両足の裏の触角が地べたの無限の深さを

(かんじとり、さっとぜんしんがこおりついて、しりもちついた。わたしはひがついたように)

感じ捕り、さっと全身が凍りついて、尻餅ついた。私は火がついたように

(なきわめいた。がまんできぬくうふくかん。これらはすべてうそである。わたしはただ、うごの)

泣き喚いた。我慢できぬ空腹感。これらはすべて嘘である。私はただ、雨後の

(あおぞらにかかっていたひとすじのほのかなにじをおぼえているだけである。)

青空にかかっていたひとすじのほのかな虹を覚えているだけである。

(もののなまえというものは、それがふさわしいなまえであるなら、よしきかずとも、)

ものの名前というものは、それがふさわしい名前であるなら、よし聞かずとも、

(ひとりでにわかってくるものだ。わたしは、わたしのひふからきいた。ぼんやりぶっしょうを)

ひとりでに判って来るものだ。私は、私の皮膚から聞いた。ぼんやり物象を

(みつめていると、そのぶっしょうのことばがわたしのはだをくすぐる。たとえば、あざみ。)

見つめていると、その物象の言葉が私の肌をくすぐる。たとえば、アザミ。

(わるいなまえは、なんのはんのうもない。いくどきいても、どうしても)

わるい名前は、なんの反応もない。いくど聞いても、どうしても

(のみこめなかったなまえもある。たとえば、ひと。)

呑みこめなかった名前もある。たとえば、ヒト。

(わたしがふたつのときのふゆに、いちどくるった。しょうまめつぶくらいのおおきさのはなびが、)

私が二つのときの冬に、いちど狂った。小豆粒くらいの大きさの花火が、

(りょうみみのおくそこでぱちぱちはぜているようなきがして、おもわずさゆうのみみをりょうてで)

両耳の奥底でぱちぱち爆ぜているような気がして、思わず左右の耳を両手で

(おおった。それきりみみがきこえずなった。とおくをながれているみずのおとだけがときどき)

覆った。それきり耳が聞えずなった。遠くを流れている水の音だけがときどき

(きこえた。なみだがでてでて、やがてめだまがちかちかいたみ、しだいにあたりのいろが)

聞えた。涙が出て出て、やがて眼玉がちかちか痛み、次第にあたりの色が

(かわっていった。わたしは、めにいろがらすのようなものでもかかったのかとおもい、)

変っていった。私は、眼に色ガラスのようなものでもかかったのかと思い、

(それをとりはずそうとして、なんどもなんどもまぶたをつまんだ。わたしはだれかの)

それをとりはずそうとして、なんどもなんども目蓋をつまんだ。私は誰かの

(ふところのなかにいて、いろりのほのおをながめていた。ほのおは、みるみるまっくろになり)

ふところの中にいて、囲炉裏の焔を眺めていた。焔は、みるみるまっくろになり

など

(うみのそこでこんぶのはやしがうごいているよなきたいなものにみえた。みどりのほのおはりぼんの)

海の底で昆布の林がうごいているよな奇態なものに見えた。緑の焔はリボンの

(ようで、きいろいほのおはきゅうでんのようであった。けれども、わたしはおしまいにぎゅうにゅうの)

ようで、黄色い焔は宮殿のようであった。けれども、私はおしまいに牛乳の

(ようなじゅんぱくなほのおをみたとき、ほとんどわれをぼうきゃくした。「おや、このこはまた)

ような純白な焔を見たとき、ほとんど我を忘却した。「おや、この子はまた

(おしっこ。おしっこをたれるたんびに、このこはわなわなとふるえる。」)

おしっこ。おしっこをたれるたんびに、この子はわなわなとふるえる。」

(だれかがそうつぶやいたのをおぼえている。わたしは、こそばゆくなりむねがふくれた。)

誰かがそう呟いたのを覚えている。私は、こそばゆくなり胸がふくれた。

(それはきっとていおうのよろこびをかんじたのだ。「ぼくはたしかだ。だれもしらない。」)

それはきっと帝王のよろこびを感じたのだ。「僕はたしかだ。誰も知らない。」

(けいべつではなかった。おなじようなことが、にどあった。わたしはときたまがんぐと)

軽蔑ではなかった。おなじようなことが、二度あった。私はときたま玩具と

(ことばをかわした。こがらしがつよくふいているよふけであった。わたしは、まくらもとの)

言葉を交した。木枯しがつよく吹いている夜更けであった。私は、枕元の

(だるまにたずねた。「だるま、さむくないか。」だるまはこたえた。「さむくない。」)

だるまに尋ねた。「だるま、寒くないか。」だるまは答えた。「寒くない。」

(わたしはかさねてたずねた。「ほんとうにさむくないか。」だるまはこたえた。)

私はかさねて尋ねた。「ほんとうに寒くないか。」だるまは答えた。

(「さむくない。」「ほんとうに。」「さむくない。」そばにねているだれかがわたしたちを)

「寒くない。」「ほんとうに。」「寒くない。」傍に寝ている誰かが私たちを

(みてわらった。「このこはだるまがおすきなようだ。いつまでもだまってだるまを)

見て笑った。「この子はだるまがお好きなようだ。いつまでも黙ってだるまを

(みている。」おとなたちがみな、ねしずまってしまうと、いえじゅうをしごじゅうのねずみが)

見ている。」おとなたちが皆、寝しずまってしまうと、家じゅうを四五十の鼠が

(かけめぐるのをわたしはしっている。たまには、しごひきのあおだいしょうがたたみのうえを)

駆けめぐるのを私は知っている。たまには、四五匹の青大将が畳のうえを

(はいまわる。おとなたちは、びおんをたててねむっているので、このこうけいをしらない)

這いまわる。おとなたちは、鼻音をたてて眠っているので、この光景を知らない

(ねずみやあおだいしょうがねどこのなかにまではいっていくのであるが、おとなたちはしらない)

鼠や青大将が寝床のなかにまではいって行くのであるが、おとなたちは知らない

(わたしはよる、いつもまったくめをさましている。ひるま、みんなのみているまえで、すこしねむる)

私は夜、いつも全く眼をさましている。昼間、みんなの見ている前で、少し眠る

(わたしはだれにもしられずにくるい、やがてだれにもしられずになおっていた。)

私は誰にも知られずに狂い、やがて誰にも知られずに直っていた。

(それよりもまだちいさかったころのこと。むぎばたけのむぎのほのうねりをみるたびごとに)

それよりもまだ小さかった頃のこと。麦畑の麦の穂のうねりを見るたびごとに

(おもいだす。わたしはむぎばたけのそこのにひきのうまをみつめていた。あかいうまとくろいうま。)

思い出す。私は麦畑の底の二匹の馬を見つめていた。赤い馬と黒い馬。

(たしかにつとめていた。わたしはちからをかんじたので、そのにひきのうまがわたしをみぢかにほうちして)

たしかに努めていた。私は力を感じたので、その二匹の馬が私を身近に放置して

(きっぱりともんだいがいにしているぶれいにたいし、ふまんをおぼえるよゆうさえなかった。)

きっぱりと問題外にしている無礼に対し、不満を覚える余裕さえなかった。

(もういっぴきのあかいうまをみた。あるいはおなじうまであったかもしれぬ。はりしごとを)

もう一匹の赤い馬を見た。あるいは同じ馬であったかも知れぬ。針仕事を

(していたようであった。しばらくしてはたちあがり、はたはたときもののまえを)

していたようであった。しばらくしては立ちあがり、はたはたと着物の前を

(たたくのだ。いとくずをはらいおとすためであったかもしれぬ。からだをくねらせてわたしの)

たたくのだ。糸屑を払い落とす為であったかも知れぬ。からだをくねらせて私の

(かたほおへぬいばりをつきさした。「ぼうや、いたいか。いたいか。」わたしにはいたかった。)

片頬へ縫針を突き刺した。「坊や、痛いか。痛いか。」私には痛かった。

(わたしのそぼがしんだのは、こうしてさまざまにゆびおりかぞえながらけいさんしてみると、)

私の祖母が死んだのは、こうして様様に指折りかぞえながら計算してみると、

(わたしのせいごはちかげつめのころのことである。このときのおもいでだけは、かすみがさんかくけいの)

私の生後八か月目のころのことである。このときの思い出だけは、霞が三角形の

(さけめをつくって、そこからはくちゅうのとうめいなそらがだいじなはだをのぞかせているように)

裂け目を作って、そこから白昼の透明な空がだいじな肌を覗かせているように

(そんなあんばいにはっきりしている。そぼはかおもからだもちいさかった。かみのかたちも)

そんな案配にはっきりしている。祖母は顔もからだも小さかった。髪のかたちも

(ちいさかった。ごまつぶほどのさくらのかべんをいっぱいにちらしたちりめんのきものをきていた。)

小さかった。胡麻粒ほどの桜の花弁を一ぱいに散らした縮緬の着物を着ていた。

(わたしはそぼにだかれ、こうりょうのさわやかなにおいによいながら、じょうくうのからすのけんかを)

私は祖母に抱かれ、香料のさわやかな匂いに酔いながら、上空の烏の喧嘩を

(ながめていた。そぼは、あなや、とさけんでわたしをたたみのうえになげとばした。)

眺めていた。祖母は、あなや、と叫んで私を畳のうえに投げ飛ばした。

(ころげおちながらわたしはそぼのかおをみつめていた。そぼはしたあごをはげしくふるわせ)

ころげ落ちながら私は祖母の顔を見つめていた。祖母は下顎をはげしくふるわせ

(にどもさんどもまっしろいはをうちならした。やがてころりとあおむきにねころがった。)

二度も三度も真白い歯を打ち鳴らした。やがてころりと仰向きに寝ころがった。

(おおぜいのひとたちはそぼのまわりにはせつどい、いっせいにすずむしみたいなほそいこえを)

おおぜいのひとたちは祖母のまわりに馳せ集い、一斉に鈴虫みたいな細い声を

(だしてなきはじめた。わたしはそぼとならんでねころがりながら、しにんのかおを)

出して泣きはじめた。私は祖母とならんで寝ころがりながら、死人の顔を

(だまってみていた。ろうたけたそぼのしろいかおの、ひたいのりょうたんからちいさいなみが)

だまって見ていた。﨟たけた祖母の白い顔の、額の両端から小さい波が

(ちりちりとおこり、かおいちめんにそのひふのなみがひろがり、みるみるそぼのかおを)

ちりちりと起り、顔一めんにその皮膚の波がひろがり、みるみる祖母の顔を

(しわだらけにしてしまった。ひとはしに、しわはにわかにいき、うごく。)

皺だらけにしてしまった。人は死に、皺はにわかに生き、うごく。

(うごきつづけた。しわのいのち。それだけのぶんしょう。そろそろとたえがたいあくしゅうが)

うごきつづけた。皺のいのち。それだけの文章。そろそろと堪えがたい悪臭が

(そぼのふところのおくからはいでた。いまもなおわたしのみみたぶをくすぐるそぼのこもりうた。)

祖母の懐の奥から這い出た。いまもなお私の耳朶をくすぐる祖母の子守歌。

(「きつねのよめいり、むこさんいない。」そのよのことばはなくもがな。(みかん))

「狐の嫁入り、婿さん居ない。」その余の言葉はなくもがな。(未完)

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