晩年 76

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プレイ回数803難易度(4.2) 6240打 長文 かな
太宰 治

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問題文

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(いんか)

陰 火

(にじゅうごのはる、そのひしがたのゆいしょありげながくぼうを、たくさんのきぼうしゃのなかで)

二十五の春、そのひしがたの由緒ありげな学帽を、たくさんの希望者の中で

(とくにへどもどとまごつきながらねがいでたひとりのしんにゅうせいへ、くれてやって、)

とくにへどもどとまごつきながら願い出たひとりの新入生へ、くれてやって、

(ききょうした。たかのはねのじょうもんうったかるいほろばしゃは、わかいしゅじんをのせて、ていしゃじょうから)

帰郷した。鷹の羽の定紋うった軽い幌馬車は、若い主人を乗せて、停車場から

(さんりのみちをいっさんにはしった。からころとしゃりんがなる、ばぐのはためき、ぎょしゃの)

三里のみちを一散にはしった。からころと車輪が鳴る、馬具のはためき、馭者の

(しった、ていてつのにぶいひびき、それらにまじって、ひばりのこえがいくどもきこえた。)

叱咤、蹄鉄のにぶい響、それらにまじって、ひばりの声がいくども聞えた。

(きたのくにでは、はるになってもゆきがあった。みちだけはひとすじくろくかわいていた。)

北の国では、春になっても雪があった。道だけは一筋くろく乾いていた。

(たんぼのゆきもはげかけた。ゆきをかぶったさんみゃくのなだらかなきふくも、ふらさきいろに)

田圃の雪もはげかけた。雪をかぶった山脈のなだらかな起伏も、ふらさきいろに

(なえていた。そのさんみゃくのふもと、きいろいざいもくのつまれてあるあたりに、ひくいこうじょうが)

萎えていた。その山脈の麓、黄いろい材木の積まれてあるあたりに、低い工場が

(みえはじめた。ふといえんとつからはれたそらへけむりがあおくのぼっていた。かれのいえである。)

見えはじめた。太い煙突から晴れた空へ煙が青くのぼっていた。彼の家である。

(あたらしいそつぎょうせいは、ひさしぶりのこきょうのふうけいに、ものういひとみをそっとなげたきりで)

新しい卒業生は、ひさしぶりの故郷の風景に、ものうい瞳をそっと投げたきりで

(さもさもわざとらしいちいさなあくびをした。そうして、そのとしには、)

さもさもわざとらしい小さなあくびをした。そうして、そのとしには、

(かれはおもにさんぽをしてくらした。かれのうちのへやべやをひとつひとつまわって)

彼はおもに散歩をして暮らした。彼のうちの部屋部屋をひとつひとつ廻って

(あるいて、そのおのおののへやのこうをなつかしんだ。ようしつはやくそうのしゅうきがした。)

歩いて、そのおのおのの部屋の香をなつかしんだ。洋室は薬草の臭気がした。

(ちゃのまはぎゅうにゅう。きゃくまには、なにやらはずかしいにおいが。かれは、ひょうにかいやうらにかいや、)

茶の間は牛乳。客間には、なにやら恥かしい匂いが。彼は、表二階や裏二階や、

(はなれざしきにもさまよいでた。いちまいのふすまをするするあけるたびごとに、)

離れ座敷にもさまよい出た。いちまいの襖をするするあける度毎に、

(かれのよごれたむねがかすかにときめくのであった。それぞれのにおいはきっとかれにみやこの)

彼のよごれた胸が幽かにときめくのであった。それぞれの匂いはきっと彼に都の

(ことをおもいださせたからである。かれはいえのなかだけでなく、のはらやたんぼをも)

ことを思い出させたからである。彼は家のなかだけでなく、野原や田圃をも

(ひとりでさんぽした。のはらのあかいこのはやたんぼのうきものはなはかれもけいべつして)

ひとりで散歩した。野原の赤い木の葉や田圃の浮藻の花は彼も軽蔑して

(ながめることができたけれど、みみをかすめてとおるはるのかぜと、ひくくさわいでいるあきの)

眺めることができたけれど、耳をかすめて通る春の風と、ひくく騒いでいる秋の

など

(まんもくのいなだとは、かれのきにいっていた。ねてからも、むかしよんだこがたのししゅうや)

満目の稲田とは、彼の気にいっていた。寝てからも、むかし読んだ小型の詩集や

(しんくのひょうしにくろいはむまあのえがかれてあるような、そんなしょもつをまくらもとにおく)

真紅の表紙に黒いハムマアの画かれてあるような、そんな書物を枕元に置く

(ことは、めったになかった。ねながらでんきすたんどをひきよせて、)

ことは、めったになかった。寝ながら電気スタンドを引き寄せて、

(りょうのてのひらをながめていた。てそうにこっていたのである。てのひらにはたくさんの)

両のてのひらを眺めていた。手相に凝っていたのである。掌にはたくさんの

(こまかいしわがたたまれていた。そのなかにさんぼんのきわだってながいしわが、ちりちりと)

こまかい皺がたたまれていた。そのなかに三本の際立って長い皺が、ちりちりと

(よこにならんではしっていた。このみっつのうすあかいくさりがかれのうんめいをしょうちょうしていると)

横に並んではしっていた。この三つのうす赤い鎖が彼の運命を象徴していると

(いうのであった。それによれば、かれはかんじょうとちのうとがはったつしていて、せいめいはみじかい)

いうのであった。それに依れば、彼は感情と智能とが発達していて、生命は短い

(ということになっていた。おそらくともにじゅうだいにしぬるというのである。)

ということになっていた。おそらくとも二十代に死ぬるというのである。

(そのあくるとし、けっこんをした。べつにはやいともおもわなかった。びじんでさえあれば、と)

その翌る年、結婚をした。べつに早いとも思わなかった。美人でさえあれば、と

(おもった。はなやかなこんれいがあげられてた。はなよめはちかくのまちのつくりざかやのむすめで)

思った。華やかな婚礼があげられてた。花嫁は近くのまちの造り酒屋の娘で

(あった。いろがあさぐろくて、なめらかなほおにはうぶげさえはえていた。あみものをとくいと)

あった。色が浅黒くて、なめらかな頬にはうぶげさえ生えていた。編物を得意と

(していた。ひとつきほどはかれもにいづまをめずらしがった。そのとしの、ふゆのさなかに)

していた。ひとつき程は彼も新妻をめずらしがった。そのとしの、冬のさなかに

(ちちはごじゅうくでしんだ。ちちのそうぎはゆきのきんいろにひかっているてんきのいいひにおこなわれた)

父は五十九で死んだ。父の葬儀は雪の金色に光っている天気のいい日に行われた

(かれははかまのももだちをとり、わらぐつをはいて、やまのうえのてらまでじゅっちょうほどのゆきみちを)

彼は袴のももだちをとり、藁靴をはいて、山のうえの寺まで十町ほどの雪道を

(ぱたぱたあるいた。ちちのひつぎはこしにのせられてかれのうしろへついてきた。)

ぱたぱた歩いた。父の棺は輿にのせられて彼のうしろへついて来た。

(そのあとにはかれのいもうとふたりがまっしろいヴえるでかおをつつんでたっていた。)

そのあとには彼の妹ふたりがまっ白いヴエルで顔をつつんで立っていた。

(ぎょうれつはながくつづいていた。ちちがしんでかれのきょうぐうはいっぺんした。ちちのちいがそっくり)

行列は長くつづいていた。父が死んで彼の境遇は一変した。父の地位がそっくり

(かれにうつった。それからめいせいも。さすがにかれはそのめいせいにすこしうわついた。)

彼に移った。それから名声も。さすがに彼はその名声にすこし浮ついた。

(こうじょうのかいかくなどをはかったのである。そうして、いちどでこりこりした。)

工場の改革などをはかったのである。そうして、いちどでこりこりした。

(てもあしもでないのだとあきらめた。しはいにんにすべてをまかせた。かれのだいになって)

手も足も出ないのだとあきらめた。支配人にすべてをまかせた。彼の代になって

(かわったのは、ようしつのそふのしょうぞうががけしのはなのあぶらえとかけかえられたことと、)

かわったのは、洋室の祖父の肖像画がけしの花の油画と掛けかえられたことと、

(まだある、くろいてつのもんのうえにふらんすふうのけんとうをぼんやりともした。すべてが、)

まだある、黒い鉄の門のうえに仏蘭西風の軒焔をぼんやり灯した。すべてが、

(もとのままであった。へんかはそとからやってきた。ちちにわかれてにねんめのなつのこと)

もとのままであった。変化は外からやって来た。父にわかれて二年目の夏のこと

(であった。そのまちのぎんこうのようすがおかしくなったのである。もしものときには)

であった。そのまちの銀行の様子がおかしくなったのである。もしものときには

(かれのいえもはさんせねばいけなかった。きゅうさいのみちがどうやらついた。)

彼の家も破産せねばいけなかった。救済のみちがどうやらついた。

(しかし、しはいにんはこうじょうのせいりをもくろんだのである。そのことがしようにんたちを)

しかし、支配人は工場の整理をもくろんだのである。そのことが使用人たちを

(おこらせた。かれには、ながいあいだきにかけていたことがあんがいはやくきてしまった)

怒らせた。彼には、永いあいだ気にかけていたことが案外はやく来てしまった

(ようなここちがした。やつらのようきゅうをいれさせてやれ、とかれはわびしいよりむしろ)

ような心地がした。奴等の要求をいれさせてやれ、と彼はわびしいよりむしろ

(はらだたしいきもちでしはいにんにいいつけた。もとめられたものはあたえる。それいじょうは)

腹立たしい気持ちで支配人に言いつけた。求められたものは与える。それ以上は

(あたえない。それでいいだろう?とかれはじしんのこころにたずねた。しょうきぼのせいりが)

与えない。それでいいだろう?と彼は自身のこころに尋ねた。小規模の整理が

(つつましくおこなわれた。そのころからてらをすきはじめた。てらは、すぐうらのやまのうえで)

つつましく行われた。その頃から寺を好き始めた。寺は、すぐ裏の山のうえで

(とたんのやねをひからせていた。かれはそこのじゅうしょくとしたしくした。じゅうしょくはやせほそって)

トタンの屋根を光らせていた。彼はそこの住職と親しくした。住職は痩せ細って

(おいぼれていた。けれどもみぎのみみたぶがちぎれていてくろいあとをのこしているので、)

老いぼれていた。けれども右の耳朶がちぎれていて黒い痕をのこしているので、

(ときどきはきょうあくなかおにもみえた。なつのあついまさかりでも、かれはながいいしだんを)

ときどきは兇悪な顔にも見えた。夏の暑いまさかりでも、彼は長い石段を

(てくてくのぼっててらへかようのである。くりのえんさきにはなつくさがたかくしげっていて)

てくてくのぼって寺へかようのである。庫裡の縁先には夏草が高くしげっていて

(けいとうのはながよっついつつさいていた。じゅうしょくはたいていひるねをしているのであった。 )

鶏頭の花が四つ五つ咲いていた。住職はたいてい昼寝をしているのであった。

(かれはそのえんさきからもしもしとこえをかけた。ときどきとかげがえんのしたからあおいおを)

彼はその縁先からもしもしと声をかけた。時々とかげが縁の下から青い尾を

(ふってでてきた。かれはきょうもんのいみについてじゅうしょくにとうのであった。)

振って出て来た。彼はきょうもんの意味に就いて住職に問うのであった。

(じゅうしょくはちっともしらなかった。じゅうしょくはまごついてから、あはははとこえをたてて)

住職はちっとも知らなかった。住職はまごついてから、あはははと声を立てて

(わらうのである。かれもほろにがくわらってみせた。それでよかった。ときたまじゅうしょくへ)

笑うのである。彼もほろにがく笑ってみせた。それでよかった。ときたま住職へ

(かいだんをしょもうした。じゅうしょくは、かすれたこえでにじゅういくつのかいだんをつぎつぎとかたって)

怪談を所望した。住職は、かすれた声で二十いくつの怪談をつぎつぎと語って

(きかせた。このてらにもかいだんがあるだろう、とついきゅうしたら、じゅうしょくは、とんとない、と)

聞せた。この寺にも怪談があるだろう、と追及したら、住職は、とんとない、と

(こたえた。それからいちねんすぎて、かれのははがしんだ。かれのはははちちのしご、かれに)

答えた。それから一年すぎて、彼の母が死んだ。彼の母は父の死後、彼に

(えんりょばかりしていた。あまりおどおどして、いのちをちぢめたのである。ははのしと)

遠慮ばかりしていた。あまりおどおどして、命をちぢめたのである。母の死と

(ともにかれはてらをあいた。ははがしんでからはじめてきがついたことだけれども、)

ともに彼は寺を厭いた。母が死んでから始めて気がついたことだけれども、

(かれのてらさたは、ははへのほうしをいくぶんふくめていたのであった。ははにしなれてからは)

彼の寺沙汰は、母への奉仕を幾分ふくめていたのであった。母に死なれてからは

(かれはしょうかぞくのわびしさをかんじた。いもうとふたりのうち、うえのは、となりのまちのおおきい)

彼は小家族のわびしさを感じた。妹ふたりのうち、上のは、隣のまちの大きい

(かっぽうてんへとついていた。したのは、との、たいそうのさかんなあるしりつのじょがっこうへ)

割烹店へとついていた。下のは、都の、体操のさかんな或る私立の女学校へ

(かよっていて、なつふゆのきゅうかのときにききょうするだけであった。くろいせるろいどの)

通っていて、夏冬の休暇のときに帰郷するだけであった。黒いセルロイドの

(めがねをかけていた。かれらきょうだいさんにんとも、めがねをかけていたのである。)

眼鏡をかけていた。彼等きょうだい三人とも、眼鏡をかけていたのである。

(かれはてつぶちをかけていた。あねむすめはほそいきんぶちであった。かれはとなりまちへでて)

彼は鉄ぶちを掛けていた。姉娘は細い金縁であった。彼はとなりまちへ出て

(いってあそんだ。じぶんのいえのまわりではこころがけてさけもなんにものめなかった。)

行ってあそんだ。自分の家のまわりでは心がけて酒もなんにも飲めなかった。

(となりまちでささやかなしゅうぶんをいくつもつくった。やがてそれにもつかれた。)

となりまちでささやかな醜聞をいくつも作った。やがてそれにも疲れた。

(やがてそれにもつかれた。こどもがほしいとおもって。すくなくとも、こどもはつまとの)

やがてそれにも疲れた。子供がほしいと思って。少くとも、子供は妻との

(きまずさをすくえるとかんがえた。かれにはつまのからだがさかなくさくてかなわなかった)

気まずさを救えると考えた。彼には妻のからだがさかなくさくてかなわなかった

(はなについたのである。さんじゅうになって、すこしふとった。まいあさ、かおをあらうときに)

鼻に就いたのである。三十になって、少しふとった。毎朝、顔を洗うときに

(りょうてへせっけんをつけてあわをこしらえていると、てのこうがおんなみたいにつるつる)

両手へ石鹼をつけて泡をこしらえていると、手の甲が女のみたいにつるつる

(すべった。ゆびさきがたばこのやにできいろくそまっていた。あらってもあらっても)

滑った。指先が煙草のやにで黄色く染まっていた。洗っても洗っても

(おちないのだ。たばこのりょうがおおすぎたのである。いちにちにほーぷをななはこずつ)

落ちないのだ。煙草の量が多すぎたのである。一日にホープを七箱ずつ

(すっていた。そのとしのはるに、つまがおんなのこをしゅっさんした。そのにねんほどまえ、)

吸っていた。そのとしの春に、妻が女の子を出産した。その二年ほどまえ、

(つまがとのびょういんにおよそひとつきもひみつなにゅういんをしたのであった。おんなのこは、ゆりと)

妻が都の病院に凡そひとつきも秘密な入院をしたのであった。女の子は、ゆりと

(よばれた。ふたおやににないでいろがしろかった。かみがうすくて、まゆげはないのと)

呼ばれた。ふた親に似ないで色が白かった。髪がうすくて、眉毛はないのと

(おなじであった。うでとあしがきひんよくほそながかった。せいごにかげつめには、たいじゅうがごきろぐらむ、)

同じであった。腕と脚が気品よく細長かった。生後ニ箇月目には、体重が五瓩、

(しんちょうがごじゅうはっせんちほどになって、ふつうのこよりはついくがよかった。)

身長が五十八糎ほどになって、ふつうの子より発育がよかった。

(うまれてひゃくにじゅうにちにおおがかりなたんじょういわいをした。)

生れて百二十日に大がかりな誕生祝をした。

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