晩年 56
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問題文
(それが、いまのさんだいめのたなこのために、すっかりまいなすにされてしまった。)
それが、いまの三代目の店子のために、すっかりマイナスにされてしまった。
(いまごろはあのやねのしたで、ねどこにもぐりこみながらゆっくりほーぷを)
いまごろはあの屋根のしたで、寝床にもぐりこみながらゆっくりホープを
(くゆらしているにちがいない。そうだ。ほーぷをすうのだ。かねのないわけはない)
くゆらしているにちがいない。そうだ。ホープを吸うのだ。金のないわけはない
(それでもやちんをはらわないのである。はじめからいけなかった。たそがれに、)
それでも屋賃を払わないのである。はじめからいけなかった。黄昏に、
(きのしたとなのってぼくのいえへやってきたのであるが、げんかんのたたきにつったったまま)
木下と名乗って僕の家へやって来たのであるが、玄関のたたきにつったったまま
(しょどうをおしえている、おたくのしゃくやにすまわせていただきたい、というようなそれだけの)
書道を教えている、お宅の借家に住まわせて頂きたい、というようなそれだけの
(いみのことをみょうにひとなつこくからんでくるようなくちょうでいった。)
意味のことを妙にひとなつこく榒んで来るような口調で言った。
(やせていてせのきわめてひくい、ほそおもてのせいねんであった。かたからそでぐちにかけての)
痩せていて背のきわめてひくい、細面の青年であった。肩から袖口にかけての
(おりめがきちんとたっているまあたらしいくるめがすりのあわせをきていたのである。)
折目がきちんと立っているま新しい久留米絣の袷を着ていたのである。
(たしかにせいねんにみえた。あとでしったが、よんじゅうにさいだという。ぼくよりじゅうもうえで)
たしかに青年に見えた。後で知ったが、四十二歳だという。僕より十もうえで
(ある。そういえば、あのおとこのくちのまわりやめのしたに、たるんだしわが)
ある。そう言えば、あの男の口の周りや眼のしたに、たるんだ皺が
(たくさんあって、せいねんではなさそうにもみえるのであるが、それでも、)
たくさんあって、青年ではなさそうにも見えるのであるが、それでも、
(よんじゅうにさいはうそであろうとおもう。いや、それくらいのうそは、あのおとこにしてはなにも)
四十二歳は嘘であろうと思う。いや、それくらいの嘘は、あの男にしては何も
(めずらしくないのである。はじめぼくのいえへきたときから、もうすでにおおうそを)
珍しくないのである。はじめ僕の家へ来たときから、もうすでに大嘘を
(ついている。ぼくはかれのもうしでにたいして、おきにいったならば、とこたえた。)
吐いている。僕は彼の申し出にたいして、お気にいったならば、と答えた。
(ぼくは、たなこのみもとについてこれまで、あまりふかいせんさくをしなかった。)
僕は、店子の身元についてこれまで、あまり深い詮索をしなかった。
(しつれいなことだとおもっている。しききんのことについてかれはこんなことをいった。)
失礼なことだと思っている。敷金のことについて彼はこんなことを言った。
(「しききんはふたつですか?そうですか。いいえ、しつれいですけれど、それでは)
「敷金は二つですか?そうですか。いいえ、失礼ですけれど、それでは
(ごじゅうえんだけおさめさせていただきます。いいえ、わたくしども、もっていましたところで)
五十円だけ納めさせていただきます。いいえ、私ども、持っていましたところで
(つかってしまいます。あの、ちょきんのようなものですものな。ほほ。みんちょうすぐに)
使ってしまいます。あの、貯金のようなものですものな。ほほ。明朝すぐに
(ひっこししますよ。しききんはそのおり、ごあいさつかたがたもってあがりましょうね。)
引越しますよ。敷金はそのおり、ごあいさつかたがた持ってあがりましょうね。
(いけないでしょうかしら?」こんなぐあいである。いけないとはいえないだろう)
いけないでしょうかしら?」こんな工合いである。いけないとは言えないだろう
(それにぼくは、ひとのことばをそのままにしんずるしゅぎである。だまされたなら、)
それに僕は、ひとの言葉をそのままに信ずる主義である。だまされたなら、
(それはだましたほうがわるいのだ。ぼくは、かまいません、あすでもあさってでもと)
それはだましたほうが悪いのだ。僕は、かまいません、あすでもあさってでもと
(こたえた。おとこは、あまえるようにほほえみながらていねいにおじぎをして、しずかに)
答えた。男は、甘えるように微笑みながらていねいにお辞儀をして、しずかに
(かえっていった。のこされためいしには、じゅうしょはなくただきのしたせいせんとだけひょうじで)
帰っていった。残された名刺には、住所はなくただ木下青扇とだけ平字で
(いんさつされ、そのもじのみぎかたには、じゆうてんさいりゅうしょどうきょうじゅとぺんでこぎたなく)
印刷され、その文字の右肩には、自由天才流書道教授とペンで小汚く
(かきそえられていた。ぼくはたいなくしっしょうした。あくるあさ、せいせんふうふはたくさんの)
書き添えられていた。僕は他意なく失笑した。翌る朝、青扇夫婦はたくさんの
(しょたいどうぐをとらっくでにどもはこばせてひっこしてきたのであるが、ごじゅうえんのしききんは)
世帯道具をトラックで二度も運ばせて引越して来たのであるが、五十円の敷金は
(ついにそのままになった。よこすものか。ひっこしてそのひのひるすぎ、せいせんは)
ついにそのままになった。よこすものか。引越してその日のひるすぎ、青扇は
(さいくんといっしょにぼくのいえへあいさつしにきた。かれはきいろいけいとのじゃけつをきて、)
細君と一緒に僕の家へ挨拶しに来た。彼は黄色い毛糸のジャケツを着て、
(ものものしくげえとるをつけ、おんなものらしいぬりげたをはいていた。ぼくがげんかんへ)
ものものしくゲエトルをつけ、女ものらしい塗下駄をはいていた。僕が玄関へ
(でていくとすぐに、「ああ。やっとおひっこしがおわりましたよ。こんなかっこうで)
出て行くとすぐに、「ああ。やっとお引越しがおわりましたよ。こんな格好で
(おかしいでしょう?」それからぼくのかおをのぞきこむようにしてにっと)
おかしいでしょう?」それから僕の顔をのぞきこむようにしてにっと
(わらったのである。ぼくはなんだかてれくさいきがして、たいへんですな、と)
笑ったのである。僕はなんだかてれくさい気がして、たいへんですな、と
(よいかげんなへんじをしながら、それでもびしょうをかえしてやった。)
よい加減な返事をしながら、それでも微笑をかえしてやった。
(「うちのおんなです。よろしく。」せいせんは、うしろにひっそりたたずんでいた)
「うちの女です。よろしく。」青扇は、うしろにひっそりたたずんでいた
(ややおおがらなおんなのひとを、おおげさにあごでしゃくってみせた。ぼくたちは、)
やや大柄な女のひとを、おおげさに顎でしゃくって見せた。僕たちは、
(おじぎをかわした。あさのはもようのみどりがかったあおいめいせんのあわせに、やはりめいせんらしい)
お辞儀をかわした。麻の葉模様の縁がかった青い銘仙の袷に、やはり銘仙らしい
(しぼりぞめのしゅいろのはおりをかさねていた。ぼくはまだむのしもぶくれのやわらかい)
絞り染めの朱色の羽織をかさねていた。僕はマダムのしもぶくれのやわらかい
(かおをちらとみて、ぎくっとしたのである。かおをみしっているというわけでも)
顔をちらと見て、ぎくっとしたのである。顔を見知っているというわけでも
(ないのに、それでもつよく、とむねをつかれた。いろがぬけるようにしろく、)
ないのに、それでも強く、とむねを突かれた。色が抜けるように白く、
(かたほうのまゆがきりっとあがって、それからもういっぽうのまゆはへいせいであった。)
片方の眉がきりっとあがって、それからもう一方の眉は平静であった。
(めはいくぶんほそいようであって、うすいしたくちびるをかるくかんでいた。はじめぼくは、)
眼はいくぶん細いようであって、うすい下唇をかるく噛んでいた。はじめ僕は、
(いかっているのだとおもったのである。けれどもそうでないことをすぐにしった。)
怒っているのだと思ったのである。けれどもそうでないことをすぐに知った。
(まだむはおじぎをしてから、せいせんにかくすようにしておおがたののしぶくろをそっと)
マダムはお辞儀をしてから、青扇にかくすようにして大型の熨斗袋をそっと
(げんかんのしきだいにのせ、おしるしに、とひくいがきっぱりしたごちょうでいった。)
玄関の式台にのせ、おしるしに、とひくいがきっぱりした語調で言った。
(それからもいちどゆっくりおじぎをしたのである。おじぎをするときにもやはり)
それからもいちどゆっくりお辞儀をしたのである。お辞儀をするときにもやはり
(かたほうのまゆをあげて、したくちびるをかんでいた。ぼくは、これはこのひとのふだんからの)
片方の眉をあげて、下唇を噛んでいた。僕は、これはこのひとのふだんからの
(くせなのであろうとおもった。そのまませいせんふうふはたちさったのであるが、)
癖なのであろうと思った。そのまま青扇夫婦は立ち去ったのであるが、
(ぼくはしばらくぽかんとしていた。それからむかむかふゆかいになった。)
僕はしばらくぽかんとしていた。それからむかむか不愉快になった。
(しききんのこともあるし、それよりもなによりも、なんだか、してやられたような)
敷金のこともあるし、それよりもなによりも、なんだか、してやられたような
(いらだたしさにこたえられなくなったのである。ぼくはしきだいにしゃがんで、)
いらだたしさに堪えられなくなったのである。僕は式台にしゃがんで、
(そのはずかしくおおきなのしぶくろをつあまみあげ、なかをのぞいてみたのである。)
その恥かしく大きな熨斗袋をつあまみあげ、なかを覗いてみたのである。
(おそばやのごえんきってがはいっていた。ちょっとのあいだ、ぼくにはなにもわけが)
お蕎麦屋の五円切手がはいっていた。ちょっとの間、僕には何も訳が
(わからなかった。ごえんのきってとは、ばかげたことである。ふと、ぼくはいまわしい)
わからなかった。五円の切手とは、馬鹿げたことである。ふと、僕はいまわしい
(けねんにとらわれた。ひょっとするとしききんのつもりなのではあるまいか、)
懸念にとらわれた。ひょっとすると敷金のつもりなのではあるまいか、
(そうかんがえたのである。それならこれはいますぐにでもたたきかえさなければ)
そう考えたのである。それならこれはいますぐにでもたたき返さなければ
(いけない。ぼくは、がまんできないむなくそのわるさをおぼえ、そののしぶくろをふところにし、)
いけない。僕は、我慢できない胸くその悪さを覚え、その熨斗袋を懐にし、
(せいせんふうふのあとをおっかけるようにしていえをでたのだ。)
青扇夫婦のあとを追っかけるようにして家を出たのだ。