黒死館事件38

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小栗虫太郎の作品です。
句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(つぎのやくぶつしつはかいじょうのうらにわがわにあって、かつてはさんてつのじっけんしつに)

次の薬物室は階上の裏庭側にあって、かつては算哲の実験室に

(あてられるはずだった。くうしつをあいだにはさみ、みぎてに、しんいしんもんかいがおこなわれたへやと)

当てられるはずだった。空室を間に挟み、右手に、神意審問会が行われた室と

(つづいていた。しかし、そこにはやくぶつとくゆうのしんとうてきないしゅうがただよっているのみで、)

続いていた。しかし、そこには薬物特有の浸透的な異臭が漂っているのみで、

(そこのゆかには、しょうめいしようのないすりっぱのあとがじゅうおうにしるされ、それいがいには、)

そこの床には、証明しようのないスリッパの跡が縦横に印され、それ以外には、

(そですれひとつのこされていなかった。したがって、かれらにのこされたしごとというのは、)

袖摺れ一つ残されていなかった。したがって、彼等に残された仕事というのは、

(じゅうにあまるやくひんだなのれつとくすりばことをしらべて、くすりびんのうごかされたあとと、ないぶの)

十にあまる薬品棚の列と薬筐とを調べて、薬瓶の動かされた跡と、内部の

(げんりょうをみきわめるにすぎなかった。けれども、いっぽうごぶあまりもつみかさなっている)

減量を見究めるにすぎなかった。けれども、一方五分あまりも積み重なっている

(ほこりのそうが、かえって、そのちょうさをよういにしんこうさせてくれた。さいしょめにとまったのは)

埃の層が、かえって、その調査を容易に進行させてくれた。最初眼に止ったのは

(びんせんのはずれたしゃんにっく・ぽったしうむであった。うんよし、では、)

壜栓の外れた青酸加里であった。「うんよし、では、

(そのつぎ......とのりみずはいちいちかきとめていったが、つづいてあげられた)

その次......」と法水は一々書き止めていったが、続いて挙げられた

(みっつのやくめいをきくと、かれはいようにめをまたたき、かいぎてきないろをうかべた。なぜなら、)

三つの薬名を聴くと、彼は異様に目を瞬き、懐疑的な色を泛べた。何故なら、

(りゅうさんまぐねしうむによーどふぉるむとほうすいくろらーる、それぞれに、きわめて)

硫酸マグネシウムに沃度フォルムと抱水クロラール、それぞれに、きわめて

(ありふれたふつうやくではないか、けんじもけげんそうにくびをかしげて、つぶやいた。)

ありふれた普通薬ではないか、検事も怪訝そうに首を傾げて、呟いた。

(げざい しゃりえんがせいせいりゅうさんまぐねしうむなればなり 、さっきんざい、すいみんやくだ。)

「下剤(瀉痢塩が精製硫酸マグネシウムなればなり)、殺菌剤、睡眠薬だ。

(はんにんは、このみっつでなにをしようとするんだろう?いや、すぐに)

犯人は、この三つで何をしようとするんだろう?」「いや、すぐに

(すててしまったはずだよ。ところが、のまされたのはわれわれなんだ とのりみずは)

捨ててしまったはずだよ。ところが、嚥まされたのは吾々なんだ」と法水は

(ここでもまた、かれがこのんでとらぎっしぇ・ふぉるべらいつんぐとよぶきげんをもてあそぼうとする。)

ここでもまた、彼が好んで悲劇的準備と呼ぶ奇言を弄ぼうとする。

(なにぼくらが と、くましろはたまげてさけんだ。そうさ、とくめいひひょうには、)

「なに僕等が」と、熊城は魂消て叫んだ。「そうさ、匿名批評には、

(どくさつてきこうかがあるというじゃないか のりみずはぐいとしたくちびるをかみしめたが、)

毒殺的効果があると云うじゃないか」法水はグイと下唇を噛み締めたが、

(じつにいひょうがいなかんさつをのべた。で、さいしょにりゅうさんまぐねしうむだが、)

実に意表外な観察を述べた。「で、最初に硫酸マグネシウムだが、

など

(もちろんないふくすれば、げざいにちがいない。しかし、それをもるひねにまぜて)

勿論内服すれば、下剤に違いない。しかし、それをモルヒネに混ぜて

(ちょくちょうちゅうしゃをすると、そうかいなもうろうすいみんをおこすのだ。また、つぎのよーどふぉるむには、)

直腸注射をすると、爽快な朦朧睡眠を起すのだ。また、次の沃度フォルムには、

(しみんせいのちゅうどくをおこすばあいがある。それから、ほうすいくろらーるになると、)

嗜眠性の中毒を起す場合がある。それから、抱水クロラールになると、

(ほかのやくぶつではとうていねむれないようないじょうこうしんのばあいでも、またたくまに)

他の薬物ではとうてい睡れないような異常亢進の場合でも、またたく間に

(こんすいさせることができるのだよ。だから、あたらしいぎせいしゃにひつようどころの)

昏睡させることが出来るのだよ。だから、新しい犠牲者に必要どころの

(はなしじゃない。ぜんぜん、はんにんのちょうしょうへきがうんださんぶつにすぎないのだ。つまり、)

話じゃない。全然、犯人の嘲笑癖が生んだ産物にすぎないのだ。つまり、

(このみっつのものには、ぼくらのこんぱいじょうたいがふうしされているのだよ)

この三つのものには、僕等の困憊状態が諷刺されているのだよ」

(めにみえないゆうきは、このへやにもはいこんでいて、れいによりきいろいしたをだし)

眼に見えない幽鬼は、この室にも這い込んでいて、例により黄色い舌を出し

(よこてをさして、わらっているのだった。しかし、ちょうさはそのままつづけられたが、)

横手を指して、嗤っているのだった。しかし、調査はそのまま続けられたが、

(けっきょくしゅうかくはつぎのふたつにすぎなかった。そのひとつはみつだそう すなわちさんかえん のだいびんに)

結局収穫は次の二つにすぎなかった。その一つは密陀僧(即ち酸化鉛)の大壜に

(かいせんしたけいせきがあるのと、もうひとつは、さいどししゃのひみつがあらわれたことだった。)

開栓した形跡があるのと、もう一つは、再度死者の秘密が現われた事だった。

(というのは、あやうくみすごそうとするところだったが、おくまったあきびんのよこばらに、)

と云うのは、危く看過そうとするところだったが、奥まった空瓶の横腹に、

(さんてつはかせのひっせきでつぎのいちぶんがみとめられていることだった。)

算哲博士の筆蹟で次の一文が認められている事だった。

(でぃぐすびいしょざいをほのめかすも、ついにしじすることなくこのよをされり)

ディグスビイ所在を仄めかすも、遂に指示する事なくこの世を去れり――

(ようするに、さんてつがもとめていたものというのは、なにかのやくぶつであろう。しかし、)

要するに、算哲が求めていたものと云うのは、何かの薬物であろう。しかし、

(それがなんであるかということよりかも、のりみずのきょうみは、むしろこのさい、)

それが何であるかということよりかも、法水の興味は、むしろこの際、

(なんらのいみもないとおもわれるあきびんのほうにひかれていって、それにかぎりない)

なんらの意味もないと思われる空瓶の方に惹かれていって、それに限りない

(しんぴかんをおぼえるのだった。それはこうりょうたるじかんのしであろう。このなかみのない)

神秘感を覚えるのだった。それは荒涼たる時間の詩であろう。この内容のない

(がらすうつわが、たえずなにものかをきたいしながらも、むなしくすうじゅうねんをすごしてしまって、)

硝子器が、絶えず何ものかを期待しながらも、空しく数十年を過してしまって、

(しかもいまだもってみたされようとはしないのだ。つまり、さんてつと)

しかも未だもって充されようとはしないのだ。つまり、算哲と

(でぃぐすびいとのあいだに、なんとなくあいたたかうようなものがあるかに)

ディグスビイとの間に、なんとなく相闘うようなものがあるかに

(かんぜられるのだった。また、さんかえんのようなせいこうざいにはたらいていったはんにんのいしも)

感ぜられるのだった。また、酸化鉛のような製膏剤に働いていった犯人の意志も

(このばあいなぞとするよりほかにないのだった。いずれにしてもいじょうのふたつからは、)

この場合謎とするよりほかにないのだった。いずれにしても以上の二つからは、

(じけんのいんけんりょうめんにふれるじゅうだいなあんじをうけたのであったが、のりみずらさんにんは、)

事件の隠顕両面に触れる重大な暗示をうけたのであったが、法水等三人は、

(それをしょうらいにのこして、やくぶつしつをさらねばならなかった。つづいて、さくや)

それを将来に残して、薬物室を去らねばならなかった。続いて、昨夜

(しんいしんもんかいがおこなわれたへやをしらべることになったが、そこは、このやかたには)

神意審問会が行われた室を調べることになったが、そこは、この館には

(めずらしいむそうしょくのへやで、たしかにさいしょは、さんてつのじっけんしつとしてせっけいされたものに)

稀らしい無装飾の室で、確かに最初は、算哲の実験室として設計されたものに

(そういなかった。ひろさのわりあいにまどがすくなく、へやのしゅういはなまりのかべになっていて、)

相違なかった。広さの割合に窓が少なく、室の周囲は鉛の壁になっていて、

(ゆかのたたきのうえには、さくやのしゅうかいだけにつかったものとみえ、やすでのじゅうたんが)

床の混凝土の上には、昨夜の集会だけに使ったものと見え、安手の絨毯が

(しかれてあった。なお、にわにめんしたがわにはまどがひとつしかなく、それいがいには、)

敷かれてあった。なお、庭に面した側には窓が一つしかなく、それ以外には、

(ひだりすみのへきじょうに、かんきこうのまるいあなが、ぽつりとひとつあいているにすぎなかった。)

左隅の壁上に、換気筒の丸い孔が、ポツリと一つ空いているにすぎなかった。

(そして、しゅうへきをいちめんにくろまくではりめぐらしてあるので、たださえいんきなへやが)

そして、周壁を一面に黒幕で張り繞らしてあるので、たださえ陰気な室が

(いっそううすぐらくなってしまって、そこには、どうていうごかしがたいちんうつなくうきが)

いっそう薄暗くなってしまって、そこには、どうてい動かし難い沈鬱な空気が

(ただよっているのだった。かれしなびたはんど・おヴ・ぐろーりーのいっぽんいっぽんのゆびのうえに、)

漂っているのだった。涸れ萎びた栄光の手の一本一本の指の上に、

(したいろうそくをさして、それが、ものうげなおとをたててともりはじめたときの)

死体蝋燭を差して、それが、懶気な音を立てて点りはじめた時の――

(あのものすごいげんぞうが、いまだによわいかすかなこうせんとなって、このへやのどこかに)

あの物凄い幻像が、未だに弱い微かな光線となって、この室のどこかに

(のこっているかのようにおもわれた。そのへやをいちじゅんしてから、のりみずはひだりどなりのくうしつに)

残っているかのように思われた。その室を一巡してから、法水は左隣りの空室に

(いった。そこは、さくやえきすけがしんいしんもんかいのさいちゅうにひとかげをみたという、)

行った。そこは、昨夜易介が神意審問会の最中に人影を見たと云う、

(はりだしふちのあるへやだった。そのへやは、ひろさもこうぞうもほとんどぜんしつとおなじであったが)

張出縁のある室だった。その室は、広さも構造もほとんど前室と同じであったが

(ただまどがよっつもあるので、へやのなかはひかくてきあかるかった。ゆかにはあらめの)

ただ窓が四つもあるので、室の中は比較的明るかった。床には粗目の

(ずっくのようなものがしいてあって、そのうえにふようなちょうどるいが、しろいほこりをかぶって)

ズックのようなものが敷いてあって、その上に不用な調度類が、白い埃を冠って

(うずたかくつまれてあった。のりみずはとびらのよこてにあるすいどうせんにめをとめたが、)

推高く積まれてあった。法水は扉の横手にある水道栓に眼を止めたが、

(それからは、さくやのうちにだれかみずをだしたとみえて、じゃぐちからみみずのような)

それからは、昨夜のうちに誰か水を出したと見えて、蛇口から蚯蚓のような

(つららがさん、よんほんたれさがっている。いうまでもなく、それはさくや)

氷柱が三、四本垂れ下っている。云うまでもなく、それは昨夜

(だんねべるぐふじんがしっしんすると、すぐにみずをはこんできたとかいう かみたにのぶこの)

ダンネベルグ夫人が失神すると、すぐに水を運んで来たとか云う――神谷伸子の

(こうどうをうらがきするものにすぎなかった。とにかく、もんだいははりだしふちだ とくましろは、)

行動を裏書するものにすぎなかった。「とにかく、問題は張出縁だ」と熊城は、

(みぎはずれのまどぎわにたってぶぜんとつぶやいた。そのまどのそとがわには、あかんさすのけんようで)

右外れの窓際に立って憮然と呟いた。その窓の外側には、アカンサスの拳葉で

(あらべすくがつくられている、こふうなてっさくえんがはりだされてあった。そこからは)

亜剌比亜模様が作られている、古風な鉄柵縁が張り出されてあった。そこからは

(うらにわのかきえんややさいえんをへだてて、とおくとぴありーのゆうがなかりまがきがみわたされる。)

裏庭の花卉園や野菜園を隔てて、遠く表徴樹の優雅な刈り籬が見渡される。

(くらくにごって、とうやぐらにおしかぶさるほどひくくたれさがったそらは、そのすそに、)

暗く濁って、塔櫓に押し冠さるほど低く垂れ下った空は、その裾に、

(わずかろいろのざんこうをただよわせるのみで、まがきのじょうほうにはすでにやみがせまっていた。)

わずか蝋色の残光を漂わせるのみで、籬の上方にはすでに闇が迫っていた。

(そして、ときどきあいまをへだてて、ひゅうとかぜのきしるおとがこくうですると、よろいとびらが)

そして、時々合間を隔てて、ヒュウと風の軋る音が虚空ですると、鎧扉が

(わびしげにゆれて、せっぺんがひとつふたつかけはしのうえでひしげていく。)

侘しげに揺れて、雪片が一つ二つ棧の上で潰げて行く。

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