黒死館事件40

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小栗虫太郎の作品です。
句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(いじょうのべたところの、そうたいでごじゅうにちかいくつあとには、しゅういのさいげきからにじみこんだ)

以上述べたところの、総体で五十に近い靴跡には、周囲の細隙から滲み込んだ

(どろみずが、そこひたひたによどんでいるだけで、いんぞうのかくどはいぜんせんめいに)

泥水が、底ひたひたに澱んでいるだけで、印像の角度は依然鮮明に

(たもたれていた。すなわち、あめにたたかれたけいせきは、ささいなものも)

保たれていた。すなわち、雨に叩かれた形跡は、些細なものも

(あらわれていないのである。してみると、くつあとがしるされたのは、さくやあめが)

現われていないのである。してみると、靴跡が印されたのは、昨夜雨が

(ふりやんだじゅういちじはんいごにそういない。しかも、そのにようのくつあとについて、ぜんごを)

降り止んだ十一時半以後に相違ない。しかも、その二様の靴跡について、前後を

(しょうめいするものがあった。というのは、かんぱんのはへんをちゅうしんに、ふたつのくつあとが)

証明するものがあった。と云うのは、乾板の破片を中心に、二つの靴跡が

(ごうりゅうしているふきんに、いっかしょおヴぁ・しゅーずのほうが、かたほうのうえをふんでいるあとが)

合流している附近に、一ヶ所套靴の方が、片方の上を踏んでいる跡が

(のこっていた。したがって、おヴぁ・しゅーずをつけたじんぶつのきたじこくが、ごむせいのながぐつと)

残っていた。したがって、套靴を付けた人物の来た時刻が、護謨製の長靴と

(おもわれるほうとどうじか、あるいはそれよりいごであることはあきらかなのである。)

思われる方と同時か、あるいはそれより以後である事は明らかなのである。

(つづいて、のりみずのちょうさがぞうえんそうこにもおよんだのはとうぜんであるが、)

続いて、法水の調査が造園倉庫にも及んだのは当然であるが、

(そのしゃれいふうのこやはゆかのないつみきづくりで、ないぶからどあひとつで)

そのシャレイ風の小屋は床のない積木造りで、内部から扉一つで

(ほんかんにつうじていた。そして、かくしゅのえんげいようぐやがいちゅうくじょのふんむきなどが、)

本館に通じていた。そして、各種の園芸用具や害虫駆除の噴霧器などが、

(ざつぜんとおかれてあった。のりみずは、ほんかんにでいりするとびらのそばで、いっそくのながぐつを)

雑然と置かれてあった。法水は、本館に出入りする扉の側で、一足の長靴を

(みつけだした。それはさきがらっぱがたにひらいていて、もものはんぶんぐらいまで)

見付けだした。それは先が喇叭形に開いていて、腿の半分ぐらいまで

(うまってしまう、ぴゅあー・らばーのえんげいくつだった。しかも、そこにふちゃくしているどろのなかで)

埋まってしまう、純護謨製の園芸靴だった。しかも、底に附着している泥の中で

(さきんのようにかがやいているのが、かんぱんのびりゅうだったのである。のみならず、)

砂金のように輝いているのが、乾板の微粒だったのである。のみならず、

(ごこくになって、そのえんげいようのながぐつは、かわなべえきすけのしょゆうひんであることがはんめいした。)

後刻になって、その園芸用の長靴は、川那部易介の所有品である事が判明した。

(そうなってみるとどくしゃしょくんは、このにようのくつあとにさまざまなぎもんを)

そうなってみると読者諸君は、この二様の靴跡に様々な疑問を

(おぼえられるであろうが、ことに、あるひとつのおどろくべきむじゅんに)

覚えられるであろうが、ことに、ある一つの驚くべき矛盾に

(きづかれたこととおもう。また、くつあとそうごのじかんてきかんけいからおしても、)

気づかれたことと思う。また、靴跡相互の時間的関係から推しても、

など

(やはんいんいんたるこくげんに、ふたりのじんぶつによってなにごとがおこなわれたのか おそらく)

夜半陰々たる刻限に、二人の人物によって何事が行われたのか――恐らく

(そのへんえいすら、うかがうことはふかのうであるにそういない。いうまでもなく)

その片影すら、窺うことは不可能であるに相違ない。云うまでもなく

(のりみずでさえも、げんけいをかいふくすることはもちろんのこと、このふんらんさくそうしたなぞのはなには)

法水でさえも、原型を回復することは勿論のこと、この紛乱錯綜した謎の華には

(ぎぎをさしはさむいちごんはんくさえのべるよちはなかったのである。しかしのりみずは、)

疑義を挾む一言半句さえ述べる余地はなかったのである。しかし法水は、

(しんじゅうなにごとかひらめいたものがあったとみえて、かんしきかいんにくつあとのぞうけいをめいじたあとに、)

心中何事か閃いたものがあったとみえて、鑑識課員に靴跡の造型を命じた後に、

(じこうどおりのちょうさをしふくにいらいした。)

次項どおりの調査を私服に依頼した。

(いち、ふきんのかれしばはなんじごろやいたか?)

一、附近の枯芝は何時頃焼いたか?

(いち、うらにわがわぜんぶのよろいとびらにふちゃくしているつららのちょうさ。)

一、裏庭側全部の鎧扉に附着している氷柱の調査。

(いち、やばんについて、うらにわにおけるさくやじゅういいじはんいごのじょうきょうちょうしゅ。)

一、夜番について、裏庭における昨夜十一時半以後の状況聴取。

(それからほどなく、やみのなかをてんのようなあかいひがうごいていったというのは、)

それからほどなく、闇の中を点のような赭い灯が動いていったと云うのは、

(のりみずらがあみがんどうをかりて、やさいえんのこうほうにあるぼちにおもむいたからだった。)

法水等が網龕灯を借りて、野菜園の後方にある墓地に赴いたからだった。

(そのころはゆきがほんぶりになっていて、れっぷうはやぐらろうをしょうのようにうならせ、)

その頃は雪が本降りになっていて、烈風は櫓楼を簫のように唸らせ、

(それがせんぷうとまいてふきおろしてくると、いったんじめんにたたきつけられたせっぺんが)

それが旋風と巻いて吹き下してくると、いったん地面に叩き付けられた雪片が

(ふたたびまいあがってきて、たださえほのぐらいあかりのゆくてをさえぎるのだった。やがて、せいそうな)

再び舞い上ってきて、たださえ仄暗い灯の行手を遮るのだった。やがて、凄愴な

(しぜんりょくにおののいているとちのじゅりんがあらわれ、そのあいだに、にほんのかんちゅうもんのはしらがみえた。)

自然力に戦いている橡の樹林が現われ、その間に、二本の棺駐門の柱が見えた。

(そこまでくると、ずじょうのかくのなかから、はぎしりのようなかねをつるしたかんのきしりが)

そこまで来ると、頭上の格の中から、歯ぎしりのような鐘を吊した鐶の軋りが

(きこえ、しんどうのないかねをたたくくらっぱーのおとが、くるったとりのようないんさんなさけびごえを)

聞え、振動のない鐘を叩く錘舌の音が、狂った鳥のような陰惨な叫声を

(はっしている。ぼちはそこからはじまっていて、こじゃりみちのつきあたりが、)

発している。墓地はそこから始まっていて、小砂利道の突当りが、

(でぃぐすびいのせっけいしたぼこうだった。ぼこうのしゅういは、よはねとわし、るかとゆうよこうし)

ディグスビイの設計した墓宕だった。墓宕の周囲は、約翰と鷲、路加と有翼犢

(というような、じゅうにしとのちょうじゅうをかんむりぼりにしたてっさくにかこまれ、そのちゅうおうには、)

と云うような、十二師徒の鳥獣を冠彫にした鉄柵に囲まれ、その中央には、

(きょだいなせきかんとしかおもわれないはふりかんがよこたわっていた。さて、ここで)

巨大な石棺としか思われない葬龕が横たわっていた。さて、ここで

(はかさくのないぶをしょうじゅつしなければならない。だいたいにおいて、)

墓柵の内部を詳述しなければならない。だいたいにおいて、

(さんがーるじいん すいすこんすたんすこはんにろくせいきごろあいるらんどそうのけんせつしたるじいん や)

聖ガール寺院(瑞西コンスタンス湖畔に六世紀頃愛蘭土僧の建設したる寺院)や

(みなみうえいるずのぺんぶろーくあべいなどにもげんにざんそんしている、ろじしきかたふぁるこを)

南ウエイルズのペンブローク寺などにも現に残存している、露地式葬龕を

(もしたものであったが、それには、いちじるしいいしょくがあらわれていた。)

模したものであったが、それには、いちじるしい異色が現われていた。

(というのは、ぼちじゅとして、てんけいてきな、ななかまどやびわのたぐいがなく、いちじく、)

と云うのは、墓地樹として、典型的な、ななかまどや枇杷の類がなく、無花果、

(いとすぎ・くるみ・ねむのき・あおき・はたんきょう・いぼたのきのななほんが、)

糸杉・胡桃・合歓樹・桃葉珊瑚・巴旦杏・水蝋木犀の七本が、

(べつずのようないちではいちされていた。またそれらのじゅもくにとりかこまれたちゅうおうの)

別図のような位置で配置されていた。またそれ等の樹木に取り囲まれた中央の

(はふりかんは、うむぶりやのなきおとこをうきぼりにしたやげんいしのだいざまではともかくとして、)

葬龕は、ウムブリヤの泣儒を浮彫にした薬研石の台座まではともかくとして、

(そのうえにのせられたしろだいりせきのかんおおいになると、はじめていようなこうそうが)

その上に載せられた白大理石の棺蓋になると、はじめて異様な構想が

(あらわれてくるのだった。でんとうてきなぎしゅうとしては、そのうえが、もんしょうあるいはひとぞうか)

現われてくるのだった。伝統的な儀習としては、その上が、紋章あるいは人像か

(たんじゅんなじゅうじかがつうれいだが、それには、おんがくをでんとうとするふりやぎのひょうしょうとしての)

単純な十字架が通例だが、それには、音楽を伝統とする降矢木の標章としての

(ぷさるてりうむがすじぼりにされ、そのうえに、たんてつせいのぎりしやじゅうじかとはりつけやそが)

三角琴が筋彫にされ、その上に、鍛鉄製の希臘十字架と磔刑耶蘇が

(のせられてあった。しかも、そのやそもまたいぎょうなもので、くびをややひだりにかたむけて)

載せられてあった。しかも、その耶蘇もまた異形なもので、首をやや左に傾けて

(りょうてのゆびをぎゃくにそらせてうわむきにひねりあげ、そろえたつまさきを、さもくつうを)

両手の指を逆に反らせて上向きに捻り上げ、そろえた足尖を、さも苦痛を

(こらえているかのよう、うちわへきょくどにそらせているところは・・・・・・さらに、あばらが)

耐えているかのよう、内輪へ極度に反らせているところは……さらに、肋骨が

(すいてみえて、いかにもひんけつてきなひかたいそうといい・・・・・・そのすべてが)

透いて見えて、いかにも貧血的な非化体相と云い……そのすべてが

(はふりとうじだいのものにこくじしてはいる、がかえってそれよりも、ひすてりーかんじゃの)

葬宕時代のものに酷似してはいる、がかえってそれよりも、ヒステリー患者の

(きゅうじょうこうちょくでもみるようで いかにもそういった、せいしんびょうりてきなかんじに)

弓状硬直でも見るようで――いかにもそう云った、精神病理的な感じに

(あっとうされるのだった。ひととおりかんさつをおえると、のりみずはねつびょうかんじゃのような)

圧倒されるのだった。ひととおり観察を終えると、法水は熱病患者のような

(めをしてけんじをかえりみた。ねえはぜくらくん、きゃむべるにいわせると、じゅうしょうの)

眼をして検事を顧みた。「ねえ支倉君、キャムベルに云わせると、重症の

(しつごしょうかんじゃでも、ひとをのろうことばはさいごまでのこっているというじゃないか。また、)

失語症患者でも、人を呪う言葉は最後まで残っていると云うじゃないか。また、

(すべてにんげんがちからつきて、はんぜいするきりょくをうしなってしまったときには、そのげきじょうを)

すべて人間が力尽きて、反噬する気力を失ってしまった時には、その激情を

(かんかいするものは、おくるちすむすいがいにはないというがね。あきらかに、)

緩解するものは、精霊主義以外にはないと云うがね。明らかに、

(これはじゅそだよ。なにより、でぃぐすびいはうえるしゅなんだぜ。いまだに、)

これは呪詛だよ。なにより、ディグスビイは威人なんだぜ。未だに、

(あくまきょうばるだすのいふうがのこっていて、みゅいやだっはくろっすふうのいきょうしゅみに)

悪魔教バルダスの遺風が残っていて、ミュイヤダッハ十字架風の異教趣味に

(とうすいするものがあるといわれる あのうえいるずうまれなんだ いったいきみは、)

陶酔する者があると云われる――あのウエイルズ生れなんだ」「いったい君は、

(なにをいいたいんだ とけんじは、うすきみわるくなったようにさけんだ。じつははぜくらくん、)

何を云いたいんだ」と検事は、薄気味悪くなったように叫んだ。「実は支倉君、

(このかたふぁるこはなみたいていのものではないのだ。ぼずら しかいのなんぽう のこうやにあって、)

この葬龕は並大抵のものではないのだ。ボズラ(死海の南方)の荒野にあって、

(ひるははいえながしゅごし、よるになると、まじんこうかをわめきだすとつたえられる)

昼は鬣狗が守護し、夜になると、魔神降下を喚き出すと伝えられる――

(しえおーるのしるしなんだよ とのりみずはよこなぐりにまつげのゆきをはらって、いった。)

死霊集会の標なんだよ」と法水は横なぐりに睫毛の雪を払って、云った。

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