黒死館事件47
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問題文
(ああ、それではあの とくりヴぉふふじんは、みょうにおくしたようないいかたをして、)
「ああ、それではあの」とクリヴォフ夫人は、妙に臆したような云い方をして、
(でも、よくまあ、のぶこさんがまちがえて、あさのあんせむをにどくりかえしたのを)
「でも、よくマア、伸子さんが間違えて、朝の讃詠を二度繰り返したのを
(ごぞんじですわね。じつは、けさあのかたはいちど、だびでのしへんきゅうじゅういちばんの)
御存じですわね。実は、今朝あの方は一度、ダビデの詩篇九十一番の
(あのあんせむをひいたのですが、ひるのれきえむのあとには、ひよあられよゆきよきりよ)
あの讃詠を弾いたのですが、昼の鎮魂楽の後には、火よ霰よ雪よ霧よ――
(をひくはずだったのです いや、ぼくはれいはいどうのなかのことをいって)
を弾くはずだったのです」「いや、僕は礼拝堂の内部の事を云って
(いるのですよ とのりみずはれいこくにつきはなした。じつは、このことをしりたいのです。)
いるのですよ」と法水は冷酷に突き放した。「実は、この事を知りたいのです。
(あのとき、どっほ・ろーぜん・じんです・うぉばい・かいん・りーど・めーる・ふれてっと)
あの時、確かそこにあるは薔薇なり、その附近には鳥の声は絶えて響かず――
(でしたからね それでは、ろーぜん・ヴぁいらうふをたいたことですか れヴぇずしもみょうに)
でしたからね」「それでは、薔薇乳香を焚いた事ですか」レヴェズ氏も妙に
(ぎこちないちょうしで、さぐるようにあいてをみやりながら、あれはおりがさんが、)
ギコちない調子で、探るように相手を見やりながら、「あれはオリガさんが、
(こうはんよほどすぎてからいちじえんそうをちゅうししてたいたのですが、しかし、これでもう)
後半よほど過ぎてから一時演奏を中止して焚いたのですが、しかし、これでもう
(こっけいなはらげいはやめていただきましょう。わしどもはあなたから、にんぎょうのしょちについて)
滑稽な腹芸はやめて頂きましょう。儂どもは貴方から、人形の処置について
(うかがえばよいのですから とにかくあしたまでかんがえさせてください のりみずは)
伺えばよいのですから」「とにかく明日まで考えさせて下さい」法水は
(きっぱりいいきった。しかし、つまるところぼくらは、じんしんようごの)
キッパリ云い切った。「しかし、つまるところ僕等は、人身擁護の
(きかいなんですからね。ごえいというてんでは、あのまほうはかせにゆびいっぽん)
機械なんですからね。護衛という点では、あの魔法博士に指一本
(ささせやしませんよ のりみずがそういいおわるとどうじに、くりヴぉふふじんは)
差させやしませんよ」法水がそう云い終ると同時に、クリヴォフ夫人は
(ふんまんのやりばをろこつにどうさにあらわして、せわしくふたりをうながしたちあがった。)
憤懣の遣り場を露骨に動作に現わして、性急しく二人を促し立ち上った。
(そして、のりみずをにくにくしげにみくだしてひつうなごきをはきすてるのだった。)
そして、法水を憎々しげに見下して悲痛な語気を吐き捨てるのだった。
(やむをえません。どうせあなたがたは、このぎゃくさつしをとうけいてきなすうじとしか)
「やむを得ません。どうせ貴方がたは、この虐殺史を統計的な数字としか
(おかんがえにならないのですからね。いいえ、けっきょくわたしたちのうんめいは、)
お考えにならないのですからね。いいえ、結局私達の運命は、
(あるびきょうとか、うぇとりやんかぐんみんのそれにことならないかも)
アルビ教徒(註一)か、ウェトリヤンカ郡民(註二)のそれに異ならないかも
(しれません。ですけど、もしたいさくができるものなら・・・・・・ああ、それが)
しれません。ですけど、もし対策が出来るものなら……ああ、それが
(できるのでしたら、こんごは、わたしたちだけですることにいたしますわ)
出来るのでしたら、今後は、私達だけですることにいたしますわ」
(ちゅう いち あるびきょうと みなみふらんす、あるびにおこりししんしゅうきょう、)
(註)(一)アルビ教徒――南フランス、アルビに起りし新宗教、
(まにきょうのえいきょうをうけて、しんやくせいしょのすべてをひていしたるによって、)
摩尼教の影響をうけて、新約聖書のすべてを否定したるによって、
(ほうおういんのせんとさんせいのしゅしょうによるしんじゅうじぐんのために、1209ねんより)
法王インノセント三世の主唱による新十字軍のために、一二〇九年より
(1229ねんまでやくよんじゅうななまんにんのししゃをしょうずるにいたれり。)
一二二九年まで約四十七万人の死者を生ずるにいたれり。
(に うぇとりやんかぐんみん 1878ねんろしありょうあすとらかんのぺすとしょうけつき)
(二)ウェトリヤンカ郡民――一八七八年露領アストラカンの黒死病猖獗期
(において、うぇとりやんかぐんをほうへいをゆうするほういせんにてふうさし、くうほうはっしゃならびに)
において、ウェトリヤンカ郡を砲兵を有する包囲線にて封鎖し、空砲発射並びに
(じゅうさつにていかくせしめ、ぐんみんはのがれえず、ほとんどぺすとのためにたおれたり。)
銃殺にて威嚇せしめ、郡民は逃れ得ず、ほとんど黒死病のために斃れたり。
(いやどうして とのりみずはすかさずひにくにおうしゅうした。ですがくりヴぉふふじん、)
「いやどうして」と法水はすかさず皮肉に応酬した。「ですがクリヴォフ夫人、
(たしかせんとあむぶろじおだったでしょうか、しはあくにんにもまたゆうりなり)
たしか聖アムブロジオだったでしょうか、死は悪人にもまた有利なり――
(といいましたからな くさりをわすれられたせんとばーなーどどっくが、ものがなしげになきながら)
と云いましたからな」鎖を忘れられた聖バーナード犬が、物悲しげに啼きながら
(せれなふじんのあとをおうていったのがさいごで、さんにんがさってしまうと、いれちがいに)
セレナ夫人の跡を追うて行ったのが最後で、三人が去ってしまうと、入れ違いに
(ひとりのしふくがさっきめいじておいたうらにわのちょうさをかんりょうしてきた。そして、ちょうさしょを)
一人の私服が先刻命じておいた裏庭の調査を完了して来た。そして、調査書を
(のりみずにわたしてから、よろいどおしは、やはりあのいっぽんだけでした。それから、ほんちょうの)
法水に渡してから、「鎧通は、やはりあの一本だけでした。それから、本庁の
(おとぼねいしには、おもうしつけどおりにわたしておきましたが とふくめいすると、)
乙骨医師には、御申し付けどおりに渡しておきましたが」と復命すると、
(それにのりみずは、せんとうにあるじゅうにきゅうのえんげまどをさつえいするようにめいじてから、)
それに法水は、尖塔にある十二宮の円華窓を撮影するように命じてから、
(そのしふくをさらしめた。くましろはとうわくげなかおで、かすかにたんそくした。ああまたどあと)
その私服を去らしめた。熊城は当惑げな顔で、微かに嘆息した。「ああまた扉と
(かぎか、はんにんはまじないやかじょうまえやか、いったいどっちなんだい。まさかに)
鍵か、犯人は呪い屋か錠前屋か、いったいどっちなんだい。まさかに
(じょん・でいはかせのいんけんとびらが、そうざらにあるというわけじゃあるまい)
ジョン・デイ博士の隠顕扉が、そうザラにあるという訳じゃあるまい」
(おどろいたね のりみずはひにくなびしょうをなげた。あんなもののどこに、そうさくてきな)
「驚いたね」法水は皮肉な微笑を投げた。「あんなもののどこに、創作的な
(ぎこうがあってたまるもんか。そりゃ、このやかたからいっぽでもそとへでれば、)
技巧があってたまるもんか。そりゃ、この館から一歩でも外へ出れば、
(むろんおどろくべきぎもんにちがいないさ。けれども、さっききみはしょこのなかで、はんざいげんしょうがくの)
無論驚くべき疑問に違いないさ。けれども、先刻君は書庫の中で、犯罪現象学の
(すばらしいびぶひおぐらふぃーをみたはずだっけね。つまり、そのとびらをとざさせなかった)
素晴らしい書目を見たはずだっけね。つまり、その扉を鎖させなかった
(ぎこうというのが、このやかたのせいしんせいかつのいちぶをなすものなんだ。ちょうへかえってから)
技巧というのが、この館の精神生活の一部をなすものなんだ。庁へ帰ってから
(ぐろーすでもみれば、それでなにもかもわかってしまうのだよ)
グロース(註)でも見れば、それで何もかも判ってしまうのだよ」
(ちゅう のりみずがぐろーすといったのは、よしんはんじようらん ちゅうの)
(註)法水がグロースと云ったのは、「予審判事要覧」中の
(はんにんしょくぎょうてきしゅうせいのしょうで、あっぺるとの はんざいのひみつ からひいたいちれいだとおもう。)
犯人職業的習性の章で、アッペルトの「犯罪の秘密」から引いた一例だと思う。
(いぜんばとらーだったくつがたこうのいちはんにんが、あるぎんこうかのいっしつにしのびいり、そのへやと)
以前召使だった靴型工の一犯人が、ある銀行家の一室に忍び入り、その室と
(しんしつとのあいだのとびらをとざさしめないために、あらかじめかんぬきあなのなかにこうみょうにさいくした)
寝室との間の扉を鎖さしめないために、あらかじめ閂穴の中に巧妙に細工した
(さんりょうちゅうがたのもくへんをそうにゅうしておく。それがためにぎんこうかは、しゅうしんまえにかぎを)
三稜柱形の木片を插入して置く。それがために銀行家は、就寝前に鍵を
(おろそうとしてもかんぬきがうごかないので、すでにとじたものとさっかくをおこし、)
下そうとしても閂が動かないので、すでに閉じたものと錯覚を起し、
(はんにんのけいかくはまんまとせいこうせしという。)
犯人の計画はまんまと成功せしと云う。
(のりみずがあえてさいげんしようとはせず、そのままふかひてきなものとして)
法水があえて再言しようとはせず、そのまま不可避的なものとして
(ほうきしてしまったことは、へいぜいけんとうてきなかれをしるふたりによると、いじょうなきょうがくに)
放棄してしまったことは、平生検討的な彼を知る二人によると、異常な驚愕に
(ちがいないのだった。がひっきょうするところ、このじけんのふかさとしんぴを、)
違いないのだった。が畢竟するところ、この事件の深さと神秘を、
(かれがしょこにおいてはかりえたけっかであるといえよう。けんじはふたたびのりみずのすいじんてきな)
彼が書庫において測り得た結果であると云えよう。検事は再び法水の粋人的な
(じんもんたいどをなじりかかった。ぼくはれヴぇずじゃないがね。きみに)
訊問態度をなじりかかった。「僕はレヴェズじゃないがね。君に
(やってもらいたいのは、もうはんどるんぐすどらまだけなんだ。ああいうつるヴぇーるしゅみの)
やってもらいたいのは、もう動作劇だけなんだ。ああいう恋愛詩人趣味の
(うたがっせんはいいかげんにして、そろそろくりヴぉふふじんがそれとなしにほのめかした、)
唱合戦はいい加減にして、そろそろクリヴォフ夫人がそれとなしに仄めかした、
(はたたろうのゆうれいをぎんみしようじゃないか じょうだんじゃない のりみずはおどけたような)
旗太郎の幽霊を吟味しようじゃないか」「冗談じゃない」法水は道化たような
(なにげないみぶるいをしたが、そのかおにはいつものげんめつてきなゆううつがいっそうされていた。)
なにげない身振をしたが、その顔にはいつもの幻滅的な憂鬱が一掃されていた。
(どうして、ぼくのしんりひょうしゅつもさくげきはおわったけれども、あれはれきしてきなかっとうさ。)
「どうして、僕の心理表出摸索劇は終ったけれども、あれは歴史的な葛藤さ。
(ところが、ぼくがひっくんだのは、あのさんにんじゃないのだ。)
ところが、僕が引っ組んだのは、あの三人じゃないのだ。
(みゅんすたーべるひなんだ。やはり、あいつはおおばかやろうだったよ)
ミュンスターベルヒなんだ。やはり、あいつは大莫迦野郎だったよ」
(そこへ、けいしちょうかんしきいしのおとぼねこうあんがはいってきた。)
そこへ、警視庁鑑識医師の乙骨耕安が入って来た。