黒死館事件49

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小栗虫太郎の作品です。
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問題文

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(もちろんけうにぞくするげんしょうさ。しかし、あれをもちださなくては、どうしてのぶこが)

「勿論稀有に属する現象さ。しかし、あれを持ち出さなくては、どうして伸子が

(しっしんしよろいどおしをにぎっていたか というてんにせつめいがつくもんか。ねえおとぼねくん、)

失神し鎧通しを握っていたか――という点に説明がつくもんか。ねえ乙骨君、

(あんり・ぴえろんは、ひろうにもとづくひすてりーせいちかくだっしつのすうじゅうれいを)

アンリ・ピエロンは、疲労にもとづくヒステリー性知覚脱失の数十例を

(あげている。また、あののぶこというおんなは、けさひいてそのとき)

挙げている。また、あの伸子という女は、今朝弾いてその時

(ひくはずでなかったあんせむを、しっしんちょくぜんにさいえんしたのだったよ。だから、そのとき)

弾くはずでなかった讃詠を、失神直前に再演したのだったよ。だから、その時

(なにかのはずみではらをおしたとすれば、そのそうさでむいしきじょうたいにおちいるという、)

何かの機みで腹を押したとすれば、その操作で無意識状態に陥るという、

(しゃるこーのじっけんをしんじたくなるじゃないか すると、きみがけいついを)

シャルコーの実験を信じたくなるじゃないか」「すると、君が頸椎を

(きにしたりゆうも、そこにあるのかね とおとぼねいしはいつのまにか)

気にした理由も、そこにあるのかね」と乙骨医師はいつの間にか

(ひきいれられてしまった。そうなんだ。ことによると、じぶんがなぽれおんに)

引き入れられてしまった。「そうなんだ。事によると、自分がナポレオンに

(なるようなあうろらをみているかもしれないが、さっきからぼくは、ひとつのしんぞうてきひょうほんを)

なるような幻視を見ているかもしれないが、先刻から僕は、一つの心像的標本を

(もっているのだ。きみはこのじけんに、じーぐふりーどとけいつい のかんけいがあるとは)

持っているのだ。君はこの事件に、ジーグフリードと頸椎――の関係があるとは

(おもわないかね じーぐふりーど!?これには、さすがのおとぼねいしも)

思わないかね」「ジーグフリード!?」これには、さすがの乙骨医師も

(あぜんとなってしまった。もっとも、きのうてきにあたまのくるっているおとこは、そのひょうほんを)

唖然となってしまった。「もっとも、帰納的に頭の狂っている男は、その標本を

(ひとりぼくもしっているがね いや、けっきょくはれいしょのもんだいさ。しかしぼくは、ちせいにも)

一人僕も知っているがね」「いや、結局は比の問題さ。しかし僕は、知性にも

(まほうてきこうかがあるとしんじているよ とのりみずはじゅうけつしために、むそうのかげをただよわせて)

魔法的効果があると信じているよ」と法水は充血した眼に、夢想の影を漂わせて

(いった。ところで、きょうれつなかゆみに、でんきしげきとおなじこうかがあるのを)

云った。「ところで、強烈な擽痒感覚に、電気刺戟と同じ効果があるのを

(しっているかね。また、まひしたぶぶんのちゅうおうに、ちかくのあるばしょがのこると、)

知っているかね。また、痲痺した部分の中央に、知覚のある場所が残ると、

(そこにげきれつなかゆみがはっせいするのも、たぶんあるるっつのちょじゅつなどで)

そこに劇烈な擽痒が発生するのも、たぶんアルルッツの著述などで

(しょうちのこととおもうよ。ところがきみは、のぶこのけいついにだぼくしたようなけいせきは)

承知の事と思うよ。ところが君は、伸子の頸椎に打撲したような形跡は

(ないという。けれどもおとぼねくん、ここにたったひとつ、しっしんしたにんげんにはんのううんどうを)

ないと云う。けれども乙骨君、ここに僅った一つ、失神した人間に反応運動を

など

(おきさえるしゅだんがある。せいりじょうけっしてかたくにぎれるどうりのないしゅしのうんどうを、)

起さえる手段がある。生理上けっして固く握れる道理のない手指の運動を、

(ふしぎなしげきでかんきするほうほうがあるのだ。そうしてそれが、)

不思議な刺戟で喚起する方法があるのだ。そうしてそれが、

(じーぐふりーどぷらすこのは のこうしきであらわされるのだかね なるほど とくましろは)

ジーグフリード+木の葉――の公式で表されるのだかね」「なるほど」と熊城は

(ひにくにうなずいて、たぶんそのこのはというのが、どん・きほーてなんだろうよ)

皮肉に頷いて、「たぶんその木の葉と云うのが、ドン・キホーテなんだろうよ」

(のりみずはいったんかすかにたんそくしたが、なおもきはくをこらして、かみわざのような)

法水はいったんかすかに嘆息したが、なおも気魄を凝らして、神業のような

(のぶこのしっしんにぜつぼうてきなていこうをこころみた。まあききたまえ。おそろしくあくまてきな)

伸子の失神に絶望的な抵抗を試みた。「マア聴き給え。恐ろしく悪魔的な

(ゆーもあなんだから。えーてるをふんむじょうにしてひふにふきつけると、そのぶぶんの)

ユーモアなんだから。エーテルを噴霧状にして皮膚に吹きつけると、その部分の

(かんかくがしんとうてきにだっしつしてしまう。それをしっしんしたにんげんのぜんしんにわたって)

感覚が滲透的に脱失してしまう。それを失神した人間の全身にわたって

(おこなうのだが、てのうんどうをつかさどるだいななだいはちけいついにあたるぶぶんだけを、)

行うのだが、手の運動を司る第七第八頸椎に当る部分だけを、

(ちょうどじーぐふりーどのこのはのようにのこしておくのだ。なぜなら、しっしんちゅうは)

ちょうどジーグフリードの木の葉のように残しておくのだ。何故なら、失神中は

(ひふのしょっかくをかいておいても、ないぶのきんかくやかんせつかんかく、それに、かゆみのかんかくには)

皮膚の触覚を欠いておいても、内部の筋覚や間接感覚、それに、擽痒の感覚には

(いちばんしげきされやすいのだからね。すると、とうぜんそのばしょに、げきれつなかゆみがおこる。)

一番刺戟されやすいのだからね。すると、当然その場所に、劇烈な擽痒が起る。

(そうしてそれがでんきしげきのように、けいついしんけいのもくてきとするぶぶんをしげきして、)

そうしてそれが電気刺戟のように、頸椎神経の目的とする部分を刺戟して、

(ゆびにむいしきうんどうをおこさせるにちがいないのだ。つまりこのひとつで、のぶこが)

指に無意識運動を起させるに違いないのだ。つまりこの一つで、伸子が

(いかにしてよろいどおしをにぎったか というてんに、こんぽんのこうしきを)

いかにして鎧通しを握ったか――という点に、根本の公式を

(つかんだようなきがしたのだ。おとぼねくん、きみはこいかないはつかといったけれども、)

掴んだような気がしたのだ。乙骨君、君は故意か内発かと云ったけれども、

(ぼくは、こいかえーてるにかえるなにものかといいたいんだ。どうして、そのほんたいを)

僕は、故意かエーテルに代る何物かと云いたいんだ。どうして、その本体を

(つきつめるまでには、まだまだせんさいびみょうなぶんせきてきしんけいがひつようなんだよ)

突き詰めるまでには、まだまだ繊細微妙な分析的神経が必要なんだよ」

(とかれのひょうじょうに、みるみるさんくのかげがあらわれてゆき、うってかわってしずんだこわねで)

と彼の表情に、みるみる惨苦の影が現われてゆき、打って変って沈んだ声音で

(つぶやいた。ああ、いかにもぼくはしゃべったよ。しかし、けっきょくかいてんいすの)

呟いた。「ああ、いかにも僕は喋ったよ。しかし、結局廻転椅子の

(いちは......あのばいおんえんそうはどうなってしまうんだ?そうしてから、)

位置は......あの倍音演奏はどうなってしまうんだ?」そうしてから、

(しばらくのりみずはけむりのゆくえをながめていて、はつようじょうたいにしずめているかにみえたが、)

しばらく法水は煙の行方を眺めていて、発揚状態に鎮めているかに見えたが、

(やがておとぼねいしにむかって、わだいをてんじた。ところで、きみに)

やがて乙骨医師に向って、話題を転じた。「ところで、君に

(いらいしておいたはずだが、のぶこのじしょをとってくれただろうか)

依頼しておいたはずだが、伸子の自署をとってくれただろうか」

(だがしかしだ。これにはじゅうぶんしつもんれいだいとするかちがあるぜ。どうしてきみは、)

「だがしかしだ。これには充分質問例題とする価値があるぜ。何故君は、

(のぶこがかくせいしたしゅんかんに、じぶんのなまえをかかせたのだったね といって、)

伸子が覚醒した瞬間に、自分の名前を書かせたのだったね」と云って、

(おとぼねいしがとりだしたしへんに、がぜんさんにんのしちょうがあつめられてしまった。それには)

乙骨医師が取り出した紙片に、俄然三人の視聴が集められてしまった。それには

(かみたにではなく、ふりやぎのぶことかかれてあったからだ。のりみずはちょっと)

紙谷ではなく、降矢木伸子と書かれてあったからだ。法水はちょっと

(またたいたのみで、かれがとうじたはもんをかいせつした。いかにもおとぼねくん、ぼくはのぶこの)

瞬いたのみで、彼が投じた波紋を解説した。「いかにも乙骨君、僕は伸子の

(じちょがほしかったのだ。といって、なにもぼくはろむぶろーぞじゃ)

自著が欲しかったのだ。と云って、なにも僕はロムブローゾじゃ

(ないのだからね。うんでぃねやじるふぇをしろうとして、くれびえの ぐらふぉろじい までも)

ないのだからね。水精や風精を知ろうとして、クレビエの『筆蹟学』までも

(ひょうせつするひつようはないのだよ。じつをいうと、おうおうしっしんによって、きおくのそうしつを)

剽竊する必要はないのだよ。実を云うと、往々失神によって、記憶の喪失を

(きたすばあいがある。それなので、もしのぶこがはんにんでないばあいに、このまま)

来す場合がある。それなので、もし伸子が犯人でない場合に、このまま

(ぼうきゃくのうちにほうむられてしまうものがありゃしないかと、じつはないないでそれを)

忘却のうちに葬られてしまうものがありゃしないかと、実は内々でそれを

(おそれていたからなんだよ。ところで、ぼくのこころみは、まりあ・ぶるねるのきおく)

懼れていたからなんだよ。ところで、僕の試みは、『マリア・ブルネルの記憶』

(にゆらいしているんだ)

に由来しているんだ」

(はんす・ぐろすの よしんはんじようらん のなかに、せんざいいしきにかんするいちれいが)

(註)ハンス・グロスの「予審判事要覧」の中に、潜在意識に関する一例が

(あげられている。すなわち1893ねんさんがつ、ていばいえるん、でぃーときるへんの)

挙げられている。すなわち一八九三年三月、低バイエルン、ディートキルヘンの

(きょうしぶるねるのたくにおいて、にじがさつがいされ、ふじんとげじょはじゅうしょうをおい、)

教師ブルネルの宅において、二児が殺害され、夫人と下女は重傷を負い、

(ふじんぶるねるがけんぎしゃとしていんちされたというじけんである。ところが、ふじんは)

夫人ブルネルが嫌疑者として引致されたという事件である。ところが、夫人は

(かくせいして、じんもんちょうしょにしょめいをもとめられると、まりあ・ぶるねるとはしるさずに、)

覚醒して、訊問調書に署名を求められると、マリア・ブルネルとは記さずに、

(まりあ・ぐってんべるがーとかいたのであった。しかし、ぐってんべるがー)

マリア・グッテンベルガーと書いたのであった。しかし、グッテンベルガー

(というのは、ふじんのじっかのせいでもなく、しかもそれなりで、ふじんはきおくのかんきを)

と云うのは、夫人の実家の姓でもなく、しかもそれなりで、夫人は記憶の喚起を

(もとめられても、そのなについてはしるところがなかった。つまりそのときいらい、)

求められても、その名については知るところがなかった。つまりその時以来、

(いしきのすいじゅんかにぼっしさったのである。ところが、ちょうさがすすむと、げじょのじょうふに)

意識の水準下に没し去ったのである。ところが、調査が進むと、下女の情夫に

(そのながはっけんされて、ただちにはんにんとしてほばくさるるにいたった。すなわち、)

その名が発見されて、ただちに犯人として捕縛さるるに至った。すなわち、

(まりあ・ぐってんべるがーとかいたときは、きょうこうのさいしきべつしたはんにんのかおが、)

マリア・グッテンベルガーと書いた時は、兇行の際識別した犯人の顔が、

(とうぶのふしょうとしっしんによってそうしつされたが、ぐうぜんかくせいごのもうろうじょうたいにおいて、)

頭部の負傷と失神によって喪失されたが、偶然覚醒後の朦朧状態において、

(それがせんざいいしきとなってあらわれたのである。)

それが潜在意識となって現われたのである。

(まりあ・ぶるねる......だけでかんきしたものがあったとみえ、)

「マリア・ブルネル......」だけで喚起したものがあったと見え、

(さんにんのひょうじょうにはいっちしたものがあらわれた。のりみずは、あたらしいたばこに)

三人の表情には一致したものが現われた。法水は、新しい莨に

(くちをつけてつづけた。)

口をつけて続けた。

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