黒死館事件115

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小栗虫太郎の作品です。
句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(さん、ぱてる・ほも・すむ)

三、父よ、吾も人の子なり

(さくねんもんだいのゆいごんしょがはっぴょうされた そのせきじょうからいちはやくでて、)

昨年問題の遺言書が発表されたーーその席上からいち早く出て、

(さんてつがそこへたっしないいぜんに、きんこのなかから、やきすてられたぜんぶんを)

算哲がそこへ達しない以前に、金庫の中から、焼き捨てられた全文を

(うつしとったかんぱんを、とりだしたじんぶつがなければならなかった。)

映し取った乾板を、取り出した人物がなければならなかった。

(そうであるからして、そのじんぶつのなをしるしたのぶこのふうしょをにぎりしめて、のりみずが、)

そうであるからして、その人物の名を印した伸子の封書を握りしめて、法水が、

(こころのなかでそうさけんだのもとうぜんであるといえよう。しかし、ふうをきって、なかみを)

心の中でそう叫んだのも当然であると云えよう。しかし、封を切って、内容を

(いちべつしたしゅんかんに、どうしたことかかれのひとみからかがやきがうせ、ぜんしんのどちょうが)

一瞥した瞬間に、どうしたことか彼の瞳から輝きが失せ、全身の怒張が

(いっせいにゆるんでしまって、そのしへんをちからなげにたくじょうへほうりだした。けんじが)

いっせいに弛んでしまって、その紙片を力なげに卓上へ抛り出した。検事が

(びっくりしてのぞきこんでみると、それにはひとのなはなく、つぎのいっくが)

吃驚して覗き込んでみると、それには人の名はなく、次の一句が

(しるされているのみだった。)

記されているのみだった。

(むかしつーれにらうしゅれーれんありき。)

ーー昔ツーレに聴耳筒ありき。

(つーれ 。げーての ふぁうすと のなかで、ぐれーとへんがうたうみんようの)

(註)ツーレーー。ゲーテの「ファウスト」の中で、グレートヘンが唄う民謡の

(さいしょので。そのときふぁうすとからゆびわをあたえられたのがかいしょとなって、かのじょの)

最初の出。その時ファウストから指環を与えられたのが開緒となって、彼女の

(ひうんがはじまるのである。)

悲運が始まるのである。

(らうしゅれーれん 。すぺいんしゅうきょうしんもんじょにもうけられたのがさいしょ。)

聴耳筒ーー。西班牙宗教審問所に設けられたのが最初。

(うふぁえいが かいぎがおどる のなかで、めてるにっひがうえりんとんのかいわなどを)

ウファ映画「会議が踊る」の中で、メテルニッヒがウエリントンの会話などを

(ぬすみきくあれがそうである。)

盗み聴くあれがそうである。

(なるほど、らうしゅれーれんか 。そのおそろしさをしっているのは、)

「なるほど、聴耳筒かーー。その恐ろしさを知っているのは、

(ひとりのぶこのみならずさ とのりみずは、くしょうをまじえながらひとりうなずきをして、)

独り伸子のみならずさ」と法水は、苦笑を交えながら独り頷きをして、

(じじつもじじつ、ふぁうすとはかせのおんぎょうらうしゅれーれんたるや、ときとばしょとにろんなく、)

「事実も事実、ファウスト博士の隠形聴耳筒たるや、時と場所とに論なく、

など

(ぼくらのかいわをさいだいもらさずききとってしまうのだからね。だから、とうぜん)

僕等の会話を細大洩らさず聴き取ってしまうのだからね。だから、当然

(うかつなことでもしようものなら、のぶこがぐれーとへんのうんめいにおちいるのは)

迂闊なことでもしようものなら、伸子がグレートヘンの運命に陥るのは

(わかりきったはなしなんだよ。かならずなにかのかたちで、あのあっきのみみがいんけんなせいさいほうほうを)

判りきった話なんだよ。必ず何かの形で、あの悪鬼の耳が陰険な制裁方法を

(とらずにおくもんか まず、それはいいとしてだ・・・・・・。ところで、)

採らずにおくもんか」「まず、それはいいとしてだ。ところで、

(くどいようだけど、きみがいまさいげんしたしんいしんもんかいのこうけいだがね とそのこえに)

くどいようだけど、君がいま再現した神意審問会の光景だがね」とその声に

(のりみずがみあげると、けんじのかおにうたがいぶかそうなしわがうごいていた。きみは、)

法水が見上げると、検事の顔に疑い深そうな皺が動いていた。「君は、

(だんねべるぐふじんをせかんだ・さいたーだといって、しかもおどろくべきことには、はんにんが)

ダンネベルグ夫人を第二視力者だと云って、しかも驚くべきことには、犯人が

(そのげんかくをよきしていたとけつろんしている。けれども、そういうような、せいしんの)

その幻覚を予期していたと結論している。けれども、そういうような、精神の

(ちょうけいじじょうてきなけいしきが  だ。かりにもし、かるがるとよそくされえるものだと)

超形而上的な型式がーーだ。仮りにもし、軽々と予測され得るものだと

(いうのなら、きみのろんしはとうていあいまいいがいにはないな。けっしてしんおうだとは)

云うのなら、君の論旨はとうてい曖昧以外にはないな。けっして深奥だとは

(いえない のりみずはちょっとみぶるいをしてひにくなたんそくをしたが、けんじをまじまじと)

云えない」法水はちょっと身振をして皮肉な嘆息をしたが、検事をまじまじと

(みつめはじめて、どうして、ぼくはひるしゅじゃあるまいし・・・・・・。)

見詰めはじめて、「どうして、僕はヒルシュじゃあるまいし。

(だんねべるぐふじんをそれほどしんぴてきなえいゆうめいた たとえば)

ダンネベルグ夫人をそれほど神秘的な英雄めいたーー例えば

(すうぇーでんぼるぐやおるれあんのおとめみたいな、ぱらのいあ・はるつぃなとりあ・くろーにかだと)

スウェーデンボルグやオルレアンの少女みたいな、慢性幻覚性偏執症だと

(いうわけじゃないのだよ。ただ、ふじんのあるきのうがかどにはったつしているので、)

云うわけじゃないのだよ。ただ、夫人のある機能が過度に発達しているので、

(ときたまそういうとくせいが、ゆうきてきなしげきにあうと、かんかくのうえにぎこうてきなちゅうしょうが)

時偶そういう特性が、有機的な刺戟に遇うと、感覚の上に技巧的な抽象が

(つくられてしまう。つまり、ばくぜんとぶんりさんざいしているものを、ひとつのげんじつとして)

作られてしまう。つまり、漠然と分離散在しているものを、一つの現実として

(はあくしてしまうのだ。それにはぜくらくん、ふろいどはげんかくというものに、)

把握してしまうのだ。それに支倉君、フロイドは幻覚というものに、

(よくあつされたるがんぼうのしょうちょうてきびょうしゃ というかせつをたてている。)

抑圧されたる願望の象徴的描写ーーという仮説を立てている。

(もちろんふじんのばあいでは、それがさんてつのきんだんにたいするきょうふ つまりいうと、)

勿論夫人の場合では、それが算哲の禁断に対する恐怖ーーつまり云うと、

(れヴぇずとのおかしてはならぬれんあいかんけいにきげんをはっしていたのだ。それだから、)

レヴェズとの冒してはならぬ恋愛関係に起源を発していたのだ。それだから、

(はんにんがふじんのげんかくをよきしえるじょうけんとしては、とうぜんそのあいだのいきさつを)

犯人が夫人の幻覚を予期し得る条件としては、当然その間の経緯を

(じゅくちしていなければならない。また、ひいてはそれがいちあんをあみださせて、)

熟知していなければならない。また、ひいてはそれが一案を編み出させて、

(したいろうそくにくりすたる・げーじんぐをおこすような、びみょうなとりっくをほどこした。それで、ふじんを)

屍体蝋燭に水晶体凝視を起すような、微妙な詭計を施した。それで、夫人を

(かるいじこさいみんにさそったのだったよ。ところがはぜくらくん、そのせんせいじょうたいというかんねんが)

軽い自己催眠に誘ったのだったよ。ところが支倉君、その潜勢状態という観念が

(ぼくにえいこうをあたえてくれた・・・・・・そうするどくことばをたちきって、それからもくもくと)

僕に栄光を与えてくれた」そう鋭く言葉を截ち切って、それから黙々と

(かんがえはじめたが、そのうちいくつかのたばこをかえるあいだに、のりみずはひとつのかんねんを)

考えはじめたが、そのうち幾つかの莨を換える間に、法水は一つの観念を

(とらええたらしかった。かれは、はたたろう・せれなふじん・のぶこのさんにんを)

捉え得たらしかった。彼は、旗太郎・セレナ夫人・伸子の三人を

(しきゅうよぶようにめいじてから、ふたたびれいはいどうにおりていった。)

至急喚ぶように命じてから、再び礼拝堂に降りて行った。

(ひとけのないがらんとしたれいはいどうのないぶには、いかにもわびしげないんうつな)

人気のないガランとした礼拝堂の内部には、いかにも佗しげな陰鬱な

(はいいろをしたものが、いっぱいにたちこめていて、じょうほうにみすかしもつかぬほど)

灰色をしたものが、いっぱいに立ち罩めていて、上方に見透しもつかぬほど

(ひろがっているやみが、てんじょうをいようにひくくみせた。そのなかにひかりといえば、せいだんに)

拡がっている闇が、天井を異様に低く見せた。その中に光と云えば、聖壇に

(ゆれているかすかなあかりのみで、それが、ぜんたいのくうかんをなおいっそう)

揺れている微かな灯のみで、それが、全体の空間をなおいっそう

(ちいさくおもわせた。そこからくらくなまあたたかい、まるでなにかの)

小さく思わせた。そこから暗く生暖い、まるで何かの

(たいないででもあるかのような それでいて、みょうにあかみをおびたやみが)

胎内ででもあるかのようなーーそれでいて、妙に赭みを帯びた闇が

(はじまっていた。おまけに、そのたえずはためいているきんいろのわには、)

始まっていた。おまけに、その絶えずはためいている金色の輪には、

(みつめているとめをいためるようなしれつなかんかくがあって、あたかもそれが、)

見詰めていると眼を痛めるような熾烈な感覚があって、あたかもそれが、

(のりみずのこくれつをきわめたねついとちから せいばいをこのいっきょにけっし、ふぁうすとはかせの)

法水の酷烈をきわめた熱意と力ーー成敗をこの一挙に決し、ファウスト博士の

(ずじょうに、じごくのそせきえんちゅうをふるいうごかさんばかりのけいばつ をくだそうとする、)

頭上に、地獄の礎石円柱を震い動かさんばかりの刑罰ーーを下そうとする、

(それのごとくにおもわれるのだった。やがて、ろくにんはてーぶるをかこんでざについた。)

それのごとくに思われるのだった。やがて、六人は円卓を囲んで座に着いた。

(そのよるのはたたろうは、ふだんならみごなしにうきみをやつすかれにはめずらしく、)

その夜の旗太郎は、平常なら身ごなしに浮き身をやつす彼には珍しく、

(びろうどのちょっきのみをきていて、たえずふしめになったまま、そのうすきみわるいほどの)

天鵞絨の短衣のみを着ていて、絶えず伏眼になったまま、その薄気味悪いほどの

(ひかりのある、しろいてをもてあそんでいた。そのかたわらに、のぶこのちいさいかいがいしいてが)

光のある、白い手を弄んでいた。その側に、伸子の小さい甲斐甲斐しい手がーー

(そのほしあんずのように、けんこうそうなつややかさが、いともかわいらしげに)

その乾杏のように、健康そうな艶やかさが、いとも可愛らしげに

(てりはえているのである。しかし、せれなふじんをみると、あいかわらずこいのたてにでも)

照り映えているのである。しかし、セレナ夫人を見ると、相変らず恋の楯にでも

(みるような、いかにももんしょうてきなきふじんだった。けれども、そのたがほねばりのすかーとに)

見るような、いかにも紋章的な貴婦人だった。けれども、その箍骨張りの腰衣に

(いれぼくろとでもいいたいこてんてきなうつくしさのかげには、やはり、みゃくはくのおそいじょうぜつを)

美斑とでも云いたい古典的な美しさの蔭には、やはり、脈搏の遅い饒舌を

(いみきらうような、きえてぃすとらしいしずけさがあった。が、いちざのくうきは、)

忌み嫌うような、静寂主義者らしい静けさがあった。が、一座の空気は、

(あきらかにいちまつのききをはらんでいた。それはあながち、つたこをじょがいした)

明らかに一抹の危機をはらんでいた。それはあながち、津多子を除外した

(のりみずのしんいが、なへんにあるやうたがうばかりでなく、それぞれにきくとかくさくを)

法水の真意が、奈辺にあるや疑うばかりでなく、それぞれに危懼と劃策を

(むねにつつんでいるとみえて、ちょっとのあいだだったけれども、みょうにはらのさぐりあいでも)

胸に包んでいると見えて、ちょっとの間だったけれども、妙に腹の探り合いでも

(しているかのようなちんもくがつづいた。そのうち、せれなふじんがちらとのぶこに)

しているかのような沈黙が続いた。そのうち、セレナ夫人がチラと伸子に

(ながしめをくれると、おそらくはんしゃてきにくちをついてでたものがあった。)

流眄をくれると、恐らく反射的に口を突いて出たものがあった。

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