黒死館事件116

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小栗虫太郎の作品です。
句読点以外の記号は省いています。

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問題文

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(のりみずさん、しょうげんにこうりょをはらうということが、だいたいそうさかんのけんいに)

「法水さん、証言に考慮を払うということが、だいたい捜査官の権威に

(かんしますの。たしかにさっきのかたがたは、のぶこさんがうごいたきぬずれのおとを)

関しますの。確かに先刻の方々は、伸子さんが動いた衣摺の音を

(きいたのでしたわ いいえ、はーぷのぜんわくにてをかけていて、わたしは、そのまま)

聴いたのでしたわ」「いいえ、竪琴の前枠に手をかけていて、私は、そのまま

(じっといきをこらしておりました とのぶこはためらわずに、じせいのあるちょうしで)

凝っと息を凝らしておりました」と伸子は躊らわずに、自制のある調子で

(いいかえした。ですから、ながいとだけがなったというのなら、)

云い返した。「ですから、長絃だけが鳴ったと云うのなら、

(またきこえたはなしですけど・・・・・・。とにかく、あなたさまのぐうゆは、ぜんぜんじっさいとは)

また聞えた話ですけど。とにかく、貴女様の寓喩は、全然実際とは

(はんたいなのでございます そのときはたたろうが、みょうにろうせいしたようなたいどで、)

反対なのでございます」その時旗太郎が、妙に老成したような態度で、

(つめたいつくりわらいをかたほほにうかべた。さて、そのようやなせいしつを、のりみずさんに)

冷たい作り笑いを片頬に泛べた。「さて、その妖冶な性質を、法水さんに

(ぎんみしていただきたいですがね。 そもそも、あのときはーぷのほうからちかづいてきた、)

吟味して頂きたいですがね。ーーそもそも、あの時竪琴の方から近づいてきた、

(きどうというのがなにをいみするか。ところが、そのくりんぐくらんげたるやです。)

気動というのが何を意味するか。ところが、その楽音嚠喨たるやです。

(うつくしいがるど・きゅいらしえーるのこうしんではなくて、あのむふんべつしゃぞろいの、)

美しい近衛胸甲騎兵の行進ではなくて、あの無分別者ぞろいの、

(やっけをはだけてむなげをむきだして、ぷんぷんしかがおとしたちのあとを)

短上衣をはだけて胸毛を露き出して、ぷんぷん鹿が落した血の跡を

(かぎまわるといった、しゅわるつ・いえがーだったのです。いやきっと、あいつはふらいっしゅが)

嗅ぎ廻るといった、黒色猟兵だったのです。いやきっと、あいつは人肉が

(すきなんでしょうよ そうして、ついきゅうされるのぶこのたいいは、あきらかに)

嗜きなんでしょうよ」そうして、追及される伸子の体位は、明らかに

(ふりだった。そのざんにんなせんこくが、えいえんにかのじょをしばりつけてしまったかと)

不利だった。その残忍な宣告が、永遠に彼女を縛りつけてしまったかと

(おもわれたが、のりみずはちょっとねつのあるようなめをむけて、いや、たしかそれに)

思われたが、法水はちょっと熱のあるような眼を向けて、「いや、たしかそれに

(ふらいっしゅではなくふぃっしゅだったはずですがね。しかし、そのふしぎなさかなが)

人肉ではなく魚だったはずですがね。しかし、その不思議な魚が

(ちかづいてきたために、かえってくりヴぉふふじんは、あなたがたのそうぞうとは)

近づいて来たために、かえってクリヴォフ夫人は、貴女がたの想像とは

(はんたいのほうこうにたいぐんをかいししたのでしたよ とあいかわらずしばいげたっぷりな)

反対の方向に退軍を開始したのでしたよ」と相変らず芝居げたっぷりな

(たいどだったけれども、いっきょにそれが、のぶことふたりのちいをてんとうしてしまった。)

態度だったけれども、一挙にそれが、伸子と二人の地位を転倒してしまった。

など

(ところで、しゃんでりやがきえるほんのちょくぜんでしたが、そのときたしかのぶこさんは、)

「ところで、装飾灯が消えるほんの直前でしたが、その時たしか伸子さんは、

(ぜんげんにわたってぐりっさんどをひいておられましたね。すると、そのちょくごあかりが)

全絃にわたってグリッサンドを弾いておられましたね。すると、その直後灯が

(けされたしゅんかんに、おもわずはずみをくって、ぜんぶのぺだるを)

消された瞬間に、思わず機を喰って、全部のペダルを

(ふみしめてしまったのです。じつは、そのさいにおこったうなりが、ちょうど)

踏みしめてしまったのです。実は、その際に起った唸りが、ちょうど

(ふんでいったぺだるのじゅんじょどおりにおこったものですから、それが、)

踏んでいったペダルの順序どおりに起ったものですから、それが、

(せまってくるきどうのようにきこえたのですよ。つまり、いんのまだのこっているうちに)

迫って来る気動のように聞えたのですよ。つまり、韻のまだ残っているうちに

(ぺだるをふむと、はーぷにはうなりがおこる。 あなたがたは、)

ペダルを踏むと、竪琴には唸りが起る。ーー貴方がたは、

(あのあくごしっぷのおかげで、そんなじめいのりを、ぼくからこうしゃくされなければ)

あの悪ゴシップのおかげで、そんな自明の理を、僕から講釈されなければ

(ならんのですよ とひょういつなたいどがきえてしまって、のりみずはがぜんげんしゅくなちょうしに)

ならんのですよ」と瓢逸な態度が消えてしまって、法水は俄然厳粛な調子に

(かわった。ところが、そうなると、くりヴぉふじけんのきょくめんが)

変った。「ところが、そうなると、クリヴォフ事件の局面が

(ぜんぜんぎゃくてんしてしまうのです。もし、ふじんがそのおとをきいたとすれば、とうぜん)

全然逆転してしまうのです。もし、夫人がその音を聴いたとすれば、当然

(あなたがたふたりのほうにあとずさりしてゆくでしょうからね。そこではたたろうさん、そのとき)

貴方がた二人の方に後退りしてゆくでしょうからね。そこで旗太郎さん、その時

(きゅーにかわってあなたのてににぎられたものがあったはずです。いや、むしろちょくせつに)

弓に代って貴方の手に握られたものがあったはずです。いや、むしろ直截に

(いいましょう。だいたいしゃんでりやがふたたびついたときに、ひだりききであるべきあなたがなぜ、)

云いましょう。だいたい装飾灯が再び点いた時に、左利であるべき貴方が何故、

(きゅーをみぎにヴぁいおりんをひだりにもっていたのですか とのりみずのせいそうなきりょくから、)

弓を右に提琴を左に持っていたのですか」と法水の凄愴な気力から、

(ほとばしりおちてきたものにあっせられて、はたたろうはまったくかせきしたように)

迸り落ちてきたものに圧せられて、旗太郎はまったく化石したように

(かたくなってしまった。それは、おそらくかれにとって、それまではそうぞうもつかぬほど)

硬くなってしまった。それは、恐らく彼にとって、それまでは想像もつかぬほど

(いがいなものであったにそういない。のりみずは、あいてをもてあそぶようなたいどで、)

意外なものであったに相違ない。法水は、相手を弄ぶような態度で、

(ゆったりくちをあいた。ところで、はたたろうさん、ぽーらんどのことわざに、ヴぁいおりにすとはひいて)

ゆったり口を開いた。「ところで、旗太郎さん、波蘭の諺に、提琴奏者は引いて

(ころす というのがあるのをごぞんじですか。じじつ、ろむぶろーぞが)

ころすーーと云うのがあるのを御存じですか。事実、ロムブローゾが

(しょうさんしたというらいぶまいるの のうさいおよびてんさいのはったつ をみると、そのなかに、)

称讃したというライブマイルの『能才及び天才の発達』を見ると、その中に、

(ゆびがまひしてきたしゅーまんやしょぱん、それからかいていばんでは、ヴぁいおりにすとの)

指が痲痺してきたシューマンやショパン、それから改訂版では、提琴家の

(くのうなどがあげられていて、なおかつおんがくかのぜんせいめいたる、)

苦悩などが挙げられていて、なおかつ音楽家の全生命たる、

(こっかんきん ゆびのきんにく にもげんきゅうしているのです。それによるとらいぶまいるは、)

骨間筋(指の筋肉)にも言及しているのです。それによるとライブマイルは、

(きゅうげきなりきどうがそのすじにけいれんをおこさせる とといています。しかし、もちろんそれは)

急激な力働がその筋に痙攣を起させるーーと説いています。しかし、勿論それは

(このばあいけつろんとしてかくじつなものではありません。けれども、あなたが)

この場合結論として確実なものではありません。けれども、貴方が

(えんそうかであるかぎりは、とうていそのかんせいをむしすることはできまいと)

演奏家である限りは、とうていその慣性を無視することは出来まいと

(おもわれるのです。たぶんあのあとには、ひだりてのふたつのゆびで、ゆみをもつのが)

思われるのです。たぶんあの後には、左手の二つの指で、弓を持つのが

(ふかのうだったのではありませんか す、すると、もうそれだけですか)

不可能だったのではありませんか」「す、すると、もうそれだけですかーー

(あなたのてぃしゅりゅっけんというのは?つくえのあしをがたつかせて、いやにみみざわりな・・・・・・)

貴方の降霊術と云うのは?机の脚をがたつかせて、厭に耳障りな......」

(とあのぶきみなそうじゅくじは、まんめんにひっつれたようなぞうおをもやせて、やっと)

とあの不気味な早熟児は、満面に引っ痙れたような憎悪を燃やせて、やっと

(かすれでたようなこえをだした。しかし、のりみずはさらにきゅうついをやすめず、)

嗄すれ出たような声を出した。しかし、法水はさらに急追を休めず、

(いやどうして、それこそじゃすと・みりゅう・しすてむ なんですよ。それから、あなたは)

「いやどうして、それこそ正確な中庸な体系ーーなんですよ。それから、貴方は

(にんぎょうのなを、いつぞやだんねべるぐふじんにかかせましたっけね)

人形の名を、いつぞやダンネベルグ夫人に書かせましたっけね」

(とおどろくべきことばをはなって、そのおおみえが、いちざをこうふんのぜっちょうに)

と驚くべき言葉を放って、その大見得が、一座を昂奮の絶頂に

(せりあげてしまった。じつは、さっきしんいしんもんかいのじょうけいをさいげんしてみたのですが、)

せり上げてしまった。「実は、先刻神意審問会の情景を再現してみたのですが、

(そのばではしなく、だんねべるぐふじんが、おどろくべきせかんど・さいたーであり、かのじょに)

その場ではしなく、ダンネベルグ夫人が、驚くべき第二視力者であり、彼女に

(ひすてりーせいげんしりょくがそなわっていたのをしることができました。そうなると、)

比斯呈利性幻視力が具わっていたのを知ることが出来ました。そうなると、

(とうぜんほっさがたったばあい、あのかたのまひしたほうのてには、)

当然発作が起った場合、あの方の痲痺した方の手には、

(じどうしゅき しんりがくしゃじゃねーのじっけんにたんをはっしたもので、しらぬまに)

自働手記(心理学者ジャネーの実験に端を発したもので、知らぬ間に

(ふでをもたせたもののしびれたてを、きづかぬようににぎって、りょうさんかいぶんじをかかせると)

筆を持たせた者の痺れた手を、気付かぬように握って、両三回文字を書かせると

(そのにぎったてをはなしたあとでも、そのとおりのもじをじぶんのひっせきでしたためる)

その握った手を離した後でも、その通りの文字を自分の筆跡でしたためる

(という、いっしゅのへんたいしんりげんしょう。 がかのうになるではありませんか。いや、)

と云う、一種の変態心理現象。)が可能になるではありませんか。いや、

(のぶこさんのへやのどあぎわにあった、かぎざきのあとをみても、ふじんのみぎてが、あのとき)

伸子さんの室の扉際にあった、鉤裂の跡を見ても、夫人の右手が、あの時

(まひしていたことがわかるんですよ。しかし、あのばあいは、それがもういちだん)

痲痺していたことが判るんですよ。しかし、あの場合は、それがもう一段

(とんぼがえりをうって、さらにいようなむじゅんをおこしてしまったのでした。というのは、)

蜻蛉返りを打って、さらに異様な矛盾を起してしまったのでした。と云うのは、

(ききてのことなるほうのてで、しげきをあたえたばあいには、ときおりようきゅうしたもじではなく、)

利手の異なる方の手で、刺戟を与えた場合には、時折要求した文字ではなく、

(それにるいじしたものをかくということなんです。もちろんあのよるは、のぶこさんが)

それに類似したものを書くということなんです。勿論あの夜は、伸子さんが

(かびんをたおし、それといれかわりにだんねべるぐふじんがはいってきて、しかも)

花瓶を倒し、それと入れ代りにダンネベルグ夫人が入って来て、しかも

(げきふんにもえたふじんは、しんしつのかーてんのあいだから、みぎかたのみをあらわしていました。)

激奮に燃えた夫人は、寝室の帷幕の間から、右肩のみを現わしていました。

(ですから、ときやよしと、あなたはじどうしゅきをこころみたのでしたね。しかし、)

ですから、時やよしと、貴方は自働手記を試みたのでしたね。しかし、

(けっかにおいてふじんがしたためたものは、あなたがようきゅうしたそれとは)

結果において夫人が認めたものは、貴方が要求したそれとは

(ことなっていたのです とたくじょうのしへんに、のりみぶはつぎのにじをしたため、とくに)

異なっていたのです」と卓上の紙片に、法水は次の二字を認め、とくに

(そのちゅうおうのさんじをえんでかこんだ。)

その中央の三字を円で囲んだ。

(there se s ere na)

【Théré】se S【ere】na

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