江戸川乱歩 芋虫 -2-
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問題文
(そのつくえのまえには、めりんすゆうぜんのふとんをくくりつけた、)
その机の前には、メリンス友禅の蒲団をくくりつけた、
(しんあんとっきょなんとかしきざいすというものがおいてあったが、そのうえはからっぽで、)
新案特許なんとか式坐椅子というものが置いてあったが、その上は空っぽで、
(そこからずっとはなれたたたみのうえに、いっしゅいようのぶったいがころがっていた。)
そこからずっと離れた畳の上に、一種異様の物体がころがっていた。
(そのものは、ふるびたおおしまめいせんのきものをきているにはちがいないのだが、)
その物は、古びた大島銘仙の着物を着ているにはちがいないのだが、
(それは、きているというよりも、つつまれているといったほうが、あるいはそこに)
それは、着ているというよりも、包まれているといった方が、或いはそこに
(おおしまめいせんのおおきなふろしきづつみがほうりだしてあるといったほうが)
大島銘仙の大きな風呂敷包みがほうり出してあるといった方が
(あたっているような、まことにへんてこなかんじのものであった。)
当たっているような、まことに変てこな感じのものであった。
(そして、そのふろしきづつみのすみから、にゅっとにんげんのくびがつきでていて、)
そして、その風呂敷包みの隅から、にゅっと人間の首が突き出ていて、
(それが、こめつきばったみたいに、あるいはきみょうなじどうきかいのように、とんとん、)
それが、米搗きばったみたいに、或いは奇妙な自動器械のように、トントン、
(とんとんとたたみをたたいているのだ。たたくにしたがって、おおきなふろしきづつみが、)
トントンと畳を叩いているのだ。叩くにしたがって、大きな風呂敷包みが、
(はんどうで、すこしずついちをかえているのだ。)
反動で、少しずつ位置を変えているのだ。
(「そんなにかんしゃくおこすもんじゃないわ、なんですのよ?これ?」)
「そんなに癇癪起こすもんじゃないわ、なんですのよ?これ?」
(ときこは、そういって、てでごはんをたべるまねをしてみせた。)
時子は、そう言って、手でご飯をたべるまねをして見せた。
(しかし、くちのきけないかのじょのおっとは、いちいちくびをよこにふって、またしても、)
しかし、口の利けない彼女の夫は、一々首を横に振って、またしても、
(やけにとんとん、とんとんとたたみにあたまをぶっつけている。ほうだんのはへんのために、)
やけにトントン、トントンと畳に頭をぶっつけている。砲弾の破片のために、
(かおぜんたいがみるかげもなくそこなわれていた。ひだりのみみたぶはまるでとれてしまって、)
顔全体が見る影もなくそこなわれていた。左の耳たぶはまるでとれてしまって、
(ちいさなくろいあなが、わずかにこんせきをのこしているにすぎず、おなじくひだりのこうへんから)
小さな黒い穴が、わずかに痕跡を残しているにすぎず、同じく左の口辺から
(ほおのうえをななめにめのしたのところまで、ぬいあわせたようなおおきなひっつりが)
頬の上を斜めに眼の下のところまで、縫い合わせたような大きなひっつりが
(できている。みぎのこめかみからとうぶにかけて、みにくいきずあとがはいあがっている。)
できている。右のこめかみから頭部にかけて、醜い傷痕が這い上がっている。
(のどのところがぐいとえぐったようにくぼんで、はなもくちももとのかたちをとどめてはいない。)
喉のところがグイと抉ったように窪んで、鼻も口も元の形をとどめてはいない。
(そのまるでおばけみたいながんめんのうちで、わずかにかんぜんなのは、)
そのまるでお化けみたいな顔面のうちで、わずかに完全なのは、
(しゅういのみにくさにひきかえて、こればかりはむしんのこどものそれのように、)
周囲の醜さに引きかえて、こればかりは無心の子供のそれのように、
(すずしくつぶらなりょうめであったが、それがいま、ぱちぱちといらだたしく)
涼しくつぶらな両眼であったが、それが今、パチパチといらだたしく
(またたいているのであった。)
瞬いているのであった。
(「じゃあ、はなしがあるのね。まっていらっしゃいね」)
「じゃあ、話があるのね。待っていらっしゃいね」
(かのじょはつくえのひきだしからざっきちょうとえんぴつをとりだし、えんぴつをかたわもののゆがんだくちに)
彼女は机の引き出しから雑記帳と鉛筆を取り出し、鉛筆を片輪者のゆがんだ口に
(くわえさせ、そのそばへざっきちょうをもっていった。かのじょのおっとはくちをきくことも)
くわえさせ、そのそばへ雑記帳を持って行った。彼女の夫は口を利くことも
(できなければ、ふでをもつてあしもなかったからである。)
できなければ、筆を持つ手足もなかったからである。
(「おれがいやになったか」)
「オレガイヤニナッタカ」
(はいじんはちょうどだいどうのいんがものがするように、にょうぼうのさしだすざっきちょうのうえに、)
廃人はちょうど大道の因果者がするように、女房の差し出す雑記帳の上に、
(くちでもじをかいた。ながいあいだかかって、ひじょうにわかりにくいかたかなをならべた。)
口で文字を書いた。長いあいだかかって、非常に判りにくい片仮名を並べた。
(「ほほほほほ、またやいているのね。そうじゃない。そうじゃない」)
「ホホホホホ、またやいているのね。そうじゃない。そうじゃない」
(かのじょはわらいながらつよくくびをふってみせた。)
彼女は笑いながら強く首を振って見せた。
(だがはいじんは、またせっかちにあたまをたたみにぶっつけはじめたので、)
だが廃人は、またせっかちに頭を畳にぶっつけはじめたので、
(ときこはかれのいをさっして、もういちどざっきちょうをあいてのくちのところへもっていった。)
時子は彼の意を察して、もう一度雑記帳を相手の口の所へ持って行った。
(すると、えんぴつがおぼつかなくうごいて、)
すると、鉛筆がおぼつかなく動いて、
(「どこにいた」)
「ドコニイタ」
(としるされた。それをみるやいなや、ときこはじゃけんにはいじんのくちからえんぴつを)
としるされた。それを見るやいなや、時子は邪慳に廃人の口から鉛筆を
(ひったくって、ちょうめんのよはくへ「わしおさんのところ」とかいて、)
引ったくって、帳面の余白へ「鷲尾サンノトコロ」と書いて、
(あいてのめのさきへ、おしつけるようにした。)
相手の眼の先へ、押しつけるようにした。
(「わかっているじゃないの。ほかにいくところがあるもんですか」)
「わかっているじゃないの。ほかに行くところがあるもんですか」
(はいじんはさらにざっきちょうをようきゅうして)
廃人はさらに雑記帳を要求して
(「さんじかん」)
「三ジカン」
(とかいた。)
と書いた。
(「さんじかんもひとりぼっちでまっていたというの。わるかったわね」かのじょは)
「三時間も独りぼっちで待っていたというの。わるかったわね」彼女は
(そこですまぬようなひょうじょうになっておじぎをしてみせ、「もういかない。)
そこですまぬような表情になってお辞儀をして見せ、「もう行かない。
(もういかない」といいながらてをふってみせた。)
もう行かない」といいながら手を振って見せた。
(ふろしきづつみのようなすながはいちゅういは、むろんまだいいたりぬようすであったが、)
風呂敷包みのような須永廃中尉は、むろんまだ言い足りぬ様子であったが、
(くちがきのげいとうがめんどうくさくなったとみえて、ぐったりとあたまをうごかさなくなった。)
口書きの芸当が面倒くさくなったとみえて、ぐったりと頭を動かさなくなった。
(そのかわりに、おおきなりょうめに、あらゆるいみをこめて、まじまじと)
そのかわりに、大きな両眼に、あらゆる意味をこめて、まじまじと
(ときこのかおをみつめているのだ。)
時子の顔を見つめているのだ。
(ときこはこういうばあい、おっとのきげんをなおすゆいいつのほうほうをわきまえていた。)
時子はこういう場合、夫の機嫌をなおす唯一の方法をわきまえていた。
(ことばがつうじないのだから、こまかいいいわけをすることはできなかったし、)
言葉が通じないのだから、細かいいいわけをすることはできなかったし、
(ことばのほかではもっともゆうべんにしんちゅうをかたっているはずの、びみょうなめのいろなどは、)
言葉のほかではもっとも雄弁に心中を語っているはずの、微妙な眼の色などは、
(いくらかあたまのにぶくなったおっとにはつうようしなかった。そこで、いつもこうした)
いくらか頭の鈍くなった夫には通用しなかった。そこで、いつもこうした
(きみょうなちわげんかのすえには、おたがいにもどかしくなってしまって、)
奇妙な痴話喧嘩の末には、お互にもどかしくなってしまって、
(もっともてっとりばやいわかいのしゅだんをとることになっていた。)
もっとも手っ取り早い和解の手段をとることになっていた。
(かのじょはいきなりおっとのうえにかがみこんで、ゆがんだくちの、ぬめぬめとこうたくのある)
彼女はいきなり夫の上にかがみ込んで、ゆがんだ口の、ぬめぬめと光沢のある
(おおきなひっつりのうえに、せっぷんのあめをそそぐのであった。すると、はいじんのめに)
大きなひっつりの上に、接吻の雨をそそぐのであった。すると、廃人の眼に
(やっとあんどのいろがあらわれ、ゆがんだこうへんに、ないているかとおもわれる)
やっと安堵の色が現われ、ゆがんだ口辺に、泣いているかと思われる
(みにくいわらいがうかんだ。ときこは、いつものくせで、それをみてもかのじょのものくるわしい)
醜い笑いが浮かんだ。時子は、いつもの癖で、それを見ても彼女の物狂わしい
(せっぷんをやめなかった。それは、ひとつにはあいてのみにくさをわすれて、)
接吻をやめなかった。それは、ひとつには相手の醜さを忘れて、
(かのじょじしんをむりからあまいこうふんにいざなうためでもあったけれど、またひとつには、)
彼女自身を無理から甘い興奮に誘うためでもあったけれど、またひとつには、
(このまったくたちいのじゆうをうしなったあわれなかたわものを、かってきままに)
このまったく起ち居の自由を失った哀れな片輪者を、勝手気ままに
(いじめつけてやりたいという、ふしぎなきもちもてつだっていた。)
いじめつけてやりたいという、不思議な気持も手伝っていた。
(だが、はいじんのほうでは、かのじょのかぶんのこういにめんくらって、いきもつけぬくるしさに、)
だが、廃人の方では、彼女の過分の好意にめんくらって、息もつけぬ苦しさに、
(みをもだえ、みにくいかおをふしぎにゆがめて、くもんしている。それをみると、)
身をもだえ、醜い顔を不思議にゆがめて、苦悶している。それを見ると、
(ときこは、いつものとおり、あるかんじょうがうずうずと、みうちにわきおこってくるのを)
時子は、いつもの通り、ある感情がウズウズと、身内に湧き起こってくるのを
(かんじるのだった。)
感じるのだった。
(かのじょはきょうきのようになって、はいじんにいどみかかっていき、おおしまめいせんの)
彼女は狂気のようになって、廃人にいどみかかって行き、大島銘仙の
(ふろしきづつみを、ひきちぎるようにはぎとってしまった。すると、そのなかから、)
風呂敷包みを、引きちぎるように剥ぎとってしまった。すると、その中から、
(なんともえたいのしれぬにくかいがころがりだしてきた。)
なんともえたいの知れぬ肉塊がころがり出してきた。
(このようなすがたになって、どうしていのちをとりとめることができたかと、)
このような姿になって、どうして命をとり止めることができたかと、
(とうじいがくかいをさわがせ、しんぶんがみぞうのきだんとしてかきたてたとおり、)
当時医学界を騒がせ、新聞が未曾有の奇談として書き立てたとおり、
(すながはいちゅういのからだは、まるでてあしのもげたにんぎょうみたいに、これいじょう)
須永廃中尉のからだは、まるで手足のもげた人形みたいに、これ以上
(こわれようがないほど、むざんに、ぶきみにきずつけられていた。りょうてりょうあしは、)
毀れようがないほど、無残に、不気味に傷つけられていた。両手両足は、
(ほとんどねもとからせつだんされ、わずかにふくれあがったにくかいとなって、)
ほとんど根もとから切断され、わずかにふくれ上がった肉塊となって、
(そのこんせきをとどめているにすぎないし、そのどうたいばかりのばけもののような)
その痕跡を留めているにすぎないし、その胴体ばかりの化け物のような
(ぜんしんにも、がんめんをはじめとしてだいしょうむすうのきずあとがひかっているのだ。)
全身にも、顔面をはじめとして大小無数の傷あとが光っているのだ。