江戸川乱歩 芋虫 -3-
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問題文
(まことにむざんなことであったが、かれのからだはそんなことになっても、)
まことに無残なことであったが、彼のからだはそんなことになっても、
(ふしぎとえいようがよく、かたわなりにけんこうをたもっていた、(わしおろうしょうしょうは、)
不思議と栄養がよく、かたわなりに健康を保っていた、(鷲尾老少将は、
(それをときこのしんみのかいほうのこうにきして、れいのほめことばのうちにも、)
それを時子の親身の介抱の功に帰して、例の褒め言葉のうちにも、
(そのことをくわえるのをわすれなかった)。ほかにたのしみとてはなく、)
そのことを加えるのを忘れなかった)。ほかに楽しみとてはなく、
(しょくよくのはげしいせいか、ふくぶがつやつやとはちきれそうにふくれあがって、)
食欲の烈しいせいか、腹部が艶々とはち切れそうにふくれ上がって、
(どうたいばかりのぜんしんのうちでもことにそのぶぶんがめだっていた。)
胴体ばかりの全身のうちでも殊にその部分が目立っていた。
(それはまるで、おおきなきいろのいもむしであった。あるいはときこがいつもこころのなかで)
それはまるで、大きな黄色の芋虫であった。或いは時子がいつも心の中で
(けいようしていたように、いともきっかいな、きけいなにくごまであった。それは、)
形容していたように、いとも奇怪な、畸形な肉ゴマであった。それは、
(あるばあいには、てあしのなごりのよっつのにくのかたまりを(それらのせんたんには、)
ある場合には、手足の名残の四つの肉のかたまりを(それらの尖端には、
(ちょうどてさげぶくろのように、しほうからひょうひがひきしめられて、ふかいしわをつくり、)
ちょうど手提袋のように、四方から表皮が引き締められて、深い皺を作り、
(そのちゅうしんにぽっつりと、ぶきみなちいさいくぼみができているのだが))
その中心にぽっつりと、無気味な小さい窪みができているのだが)
(そのにくのとっきぶつを、まるでいもむしのあしのように、いようにふるわせて、)
その肉の突起物を、まるで芋虫の足のように、異様に震わせて、
(でんぶをちゅうしんにして、あたまとかたとで、ほんとうにこまとおなじに、たたみのうえを)
臀部を中心にして、頭と肩とで、ほんとうにコマと同じに、畳の上を
(くるくるとまわるのであったから。)
クルクルと廻るのであったから。
(いま、ときこのためにはだかにむかれたはいじんは、それにはべつだんていこうするのではなく、)
今、時子のためにはだかにむかれた廃人は、それには別段抵抗するのではなく、
(なにごとかをよきしているもののように、じっとうわめづかいに、かれのあたまのところに)
何事かを予期しているもののように、じっと上眼使いに、彼の頭のところに
(うずくまっているときこの、えものをねらうけだもののような、いように)
うずくまっている時子の、餌物を狙うけだもののような、異様に
(ほそめられためと、ややかたくなった、きめのこまかいにじゅうあごを、ながめていた。)
細められた眼と、やや堅くなった、きめのこまかい二重顎を、眺めていた。
(ときこは、かたわものの、そのめつきのいみをよむことができた。それはいまのような)
時子は、片輪者の、その眼つきの意味を読むことができた。それは今のような
(ばあいには、かのじょがもういっぽすすめば、なくなってしまうものであったが、)
場合には、彼女がもう一歩進めば、なくなってしまうものであったが、
(たとえばかのじょがかれのそばではりしごとをしていると、かたわものがしょざいなさに、)
たとえば彼女が彼のそばで針仕事をしていると、片輪者が所在なさに、
(じっとひとつくうかんをみつめているようなとき、このめいろはいっそうふかみをくわえて、)
じっとひとつ空間を見つめているような時、この眼色はいっそう深みを加えて、
(あのくもんをあらわすのであった。)
あの苦悶を現わすのであった。
(しかくとしょっかくのほかのごかんをことごとくうしなってしまったはいじんは、)
視覚と触覚のほかの五官をことごとく失ってしまった廃人は、
(せいらいどくしょよくなどもちあわせなかったいのししむしゃであったが、それがしょうげきのために)
生来読書欲など持ち合わせなかった猪武者であったが、それが衝撃のために
(あたまがにぶくなってからは、いっそうもじとぜつえんしてしまって、いまはただ、)
頭が鈍くなってからは、いっそう文字と絶縁してしまって、今はただ、
(どうぶつとどうようにぶっしつてきなよくぼうのほかにはなんのなぐさむるところもない)
動物と同様に物質的な欲望のほかにはなんの慰むるところもない
(みのうえであった。だが、そのまるであんこくじごくのようなどろどろの)
身の上であった。だが、そのまるで暗黒地獄のようなドロドロの
(せいかつのうちにも、ふと、じょうじんであったころおしえこまれたぐんたいしきなりんりかんが、)
生活のうちにも、ふと、常人であったころ教え込まれた軍隊式な倫理観が、
(かれのにぶいあたまをもかすめとおることがあって、それと、かたわものであるがゆえに)
彼の鈍い頭をもかすめ通ることがあって、それと、片輪者であるがゆえに
(いっそうびんかんになったじょうよくとが、かれのしんちゅうでたたかい、かれのめにふしぎな)
いっそう敏感になった情欲とが、彼の心中でたたかい、彼の眼に不思議な
(くもんのかげをやどすものにちがいない。ときこはそんなふうにかいしゃくしていた。)
苦悶の影をやどすものに違いない。時子はそんなふうに解釈していた。
(ときこは、むりょくなもののめにうかぶ、おどおどしたくもんのひょうじょうをみることは、)
時子は、無力な者の眼にうかぶ、おどおどした苦悶の表情を見ることは、
(そんなにきらいではなかった。かのじょはいっぽうではひどいなきむしのくせに、)
そんなに嫌いではなかった。彼女は一方ではひどい泣き虫の癖に、
(みょうによわいものいじめのしこうをもっていたのだ。それに、このあわれなかたわものの)
妙に弱い者いじめの嗜好を持っていたのだ。それに、この哀れな片輪者の
(くもんは、かのじょのあくことのないしげきぶつでさえあった。いまもかのじょはあいてのこころもちを)
苦悶は、彼女の飽くことのない刺戟物でさえあった。今も彼女は相手の心持ちを
(いたわるどころではなく、はんたいに、のしかかるように、いじょうにびんかんになっている)
いたわるどころではなく、反対に、のしかかるように、異常に敏感になっている
(ふぐしゃのじょうよくにせまっていくのであった。)
不具者の情欲に迫って行くのであった。