江戸川乱歩 芋虫 -5-
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問題文
(ゆめのまにはんとしばかりすぎさってしまった。じょうかんやどうりょうのぐんじんたちがつきそって、)
夢のまに半年ばかり過ぎ去ってしまった。上官や同僚の軍人たちがつき添って、
(すながのいきたむくろがいえにはこばれると、ほとんどどうじぐらいに、)
須永の生きたむくろが家に運ばれると、ほとんど同時ぐらいに、
(かれのししのだいしょうとして、こうごきゅうのきんしくんしょうがさずけられた。ときこがふぐしゃの)
彼の四肢の代償として、功五級の金鵄勲章が授けられた。時子が不具者の
(かいほうになみだをながしているとき、よのなかはがいせんいわいでおおさわぎをやっていた。)
介抱に涙を流している時、世の中は凱旋祝いで大騒ぎをやっていた。
(かのじょのところへも、しんせきやちじんやちょうないのひとびとから、めいよ、めいよということばが、)
彼女のところへも、親戚や知人や町内の人々から、名誉、名誉という言葉が、
(あめのようにふりこんできた。)
雨のように降り込んできた。
(まもなく、わずかのねんきんではくらしのおぼつかなかったかのじょたちは、)
間もなく、わずかの年金では暮らしのおぼつかなかった彼女たちは、
(せんちでのじょうちょうかんであったわしおしょうしょうのこういにあまえて、そのていないのはなれざしきを)
戦地での上長官であった鷲尾少将の好意にあまえて、その邸内の離れ座敷を
(むちんでかしてもらってすむことになった。いなかにひっこんだせいも)
無賃で貸してもらって住むことになった。田舎にひっこんだせいも
(あったけれど、そのころから、かのじょたちのせいかつはがらりとさびしいものに)
あったけれど、その頃から、彼女たちの生活はガラリと淋しいものに
(なってしまった。がいせんさわぎのねつがさめて、せけんもさびしくなっていた。)
なってしまった。凱旋騒ぎの熱がさめて、世間も淋しくなっていた。
(もうだれもいぜんのようにはかのじょたちをみまわなくなった。つきひがたつにつれて、)
もう誰も以前のようには彼女たちを見舞わなくなった。月日がたつにつれて、
(せんしょうのこうふんもしずまり、それにつれて、せんそうのこうろうしゃたちへのかんしゃのじょうも)
戦捷の興奮もしずまり、それにつれて、戦争の功労者たちへの感謝の情も
(うすらいでいった。すながちゅういのことなど、もうだれもくちにするものはなかった。)
うすらいで行った。須永中尉のことなど、もう誰も口にするものはなかった。
(おっとのしんせきたちも、ふぐしゃをきみわるがってか、ぶっしつてきなえんじょをおそれてか、)
夫の親戚たちも、不具者を気味悪がってか、物質的な援助を恐れてか、
(ほとんど、かのじょのいえにあしぶみしなくなった。かのじょのがわにも、りょうしんはなく、)
ほとんど、彼女の家に足踏みしなくなった。彼女のがわにも、両親はなく、
(きょうだいたちはみなはくじょうものであった。あわれなふぐしゃとそのていせつなつまは、)
兄妹たちは皆薄情者であった。哀れな不具者とその貞節な妻は、
(せけんからきりはなされたように、いなかのいっけんやでぽっつりとせいぞんしていた。)
世間から切り離されたように、田舎の一軒家でポッツリと生存していた。
(そこのにかいのろくじょうは、ふたりにとってゆいいつのせかいであった。しかも、そのひとりは)
そこの二階の六畳は、二人にとって唯一の世界であった。しかも、その一人は
(みみもきこえず、くちもきけず、たちいもまったくふじゆうなつちにんぎょうのような)
耳も聞こえず、口もきけず、起ち居もまったく不自由な土人形のような
(にんげんであったのだ。)
人間であったのだ。
(はいじんは、べつせかいのじんるいがとつぜんこのよにほうりだされたように、)
廃人は、別世界の人類が突然この世にほうり出されたように、
(まるでちがってしまったせいかつようしきにめんくらっているらしく、けんこうを)
まるで違ってしまった生活様式に面くらっているらしく、健康を
(かいふくしてからでも、しばらくのあいだは、ぼんやりしたままみうごきもせず)
回復してからでも、しばらくのあいだは、ボンヤリしたまま身動きもせず
(ぎょうがしていた。そしてときをかまわず、うとうととねむっていた。)
仰臥していた。そして時をかまわず、ウトウトと睡っていた。
(ときこのおもいつきで、えんぴつのくちがきによるかいわをとりかわすようになったとき、)
時子の思いつきで、鉛筆の口書きによる会話を取りかわすようになった時、
(まずだいいちに、はいじんがそこにかいたことばは「しんぶん」「くんしょう」の)
先ず第一に、廃人がそこに書いた言葉は「シンブン」「クンショウ」の
(ふたつであった。「しんぶん」というのは、かれのぶくんをおおきくかきたてた)
二つであった。「シンブン」というのは、彼の武勲を大きく書き立てた
(せんそうとうじのしんぶんきじのきりぬきのことで、「くんしょう」というのは)
戦争当時の新聞記事の切抜きのことで、「クンショウ」というのは
(いうまでもなくれいのきんしくんしょうのことであった。かれがいしきをとりもどしたとき、)
言うまでもなく例の金鵄勲章のことであった。彼が意識を取り戻した時、
(わしおしょうしょうがだいいちばんにかれのめのさきにつきつけたものは、そのふたしなであったが、)
鷲尾少将が第一番に彼の眼の先につきつけたものは、その二た品であったが、
(はいじんはそれをよくおぼえていたのだ。)
廃人はそれをよく覚えていたのだ。
(はいじんはたびたびおなじことばをかいて、そのふたしなをようきゅうし、ときこがそれを)
廃人はたびたび同じ言葉を書いて、その二た品を要求し、時子がそれを
(かれのまえでもっていてやると、いつまでもいつまでも、ながめつくしていた。)
彼の前で持っていてやると、いつまでもいつまでも、眺めつくしていた。
(かれがしんぶんきじをくりかえしよむときなどは、ときこはてのしびれてくるのを)
彼が新聞記事を繰り返し読む時などは、時子は手のしびれてくるのを
(がまんしながら、なんだかばかばかしいようなきもちで、おっとの)
我慢しながら、なんだかばかばかしいような気持で、夫の
(さもまんぞくそうなめつきをながめていた。)
さも満足そうな眼つきを眺めていた。
(だが、かのじょが「めいよ」をけいべつしはじめたよりはずいぶんおくれてでは)
だが、彼女が「名誉」を軽蔑しはじめたよりはずいぶん遅れてでは
(あったけれど、はいじんもまた「めいよ」にあきあきしてしまったようにみえた。)
あったけれど、廃人もまた「名誉」に飽き飽きしてしまったように見えた。
(かれはもういぜんみたいに、かのふたしなをようきゅうしなくなった。)
彼はもう以前みたいに、かの二た品を要求しなくなった。
(そして、あとにのこったものは、ふぐしゃなるがゆえにびょうてきにはげしい、にくたいじょうの)
そして、あとに残ったものは、不具者なるが故に病的に烈しい、肉体上の
(よくぼうばかりであった。かれはかいふくきのいちょうびょうかんじゃみたいに、がつがつと)
欲望ばかりであった。彼は回復期の胃腸病患者みたいに、ガツガツと
(しょくもつをようきゅうし、ときをえらばずかのじょのにくたいをようきゅうした。ときこがそれに)
食物を要求し、時を選ばず彼女の肉体を要求した。時子がそれに
(おうじないときには、かれはいだいなるにくごまとなってきちがいのように)
応じない時には、彼は偉大なる肉ゴマとなって気ちがいのように
(たたみのうえをはいまわった。)
畳の上を這いまわった。
(ときこはさいしょのあいだ、それがなんだかそらおそろしく、いとわしかったが、やがて、)
時子は最初のあいだ、それがなんだか空恐ろしく、いとわしかったが、やがて、
(つきひがたつにしたがって、かのじょもまた、じょじょににくよくのがきとなりはてていった。)
月日がたつにしたがって、彼女もまた、徐々に肉欲の餓鬼となりはてて行った。
(のなかのいっけんやにとじこめられ、ゆくすえになんののぞみもうしなった、ほとんどむちと)
野中の一軒家にとじこめられ、行末になんの望みも失った、ほとんど無智と
(いってもよかったふたりのだんじょにとっては、それがせいかつのすべてであった。)
言ってもよかった二人の男女にとっては、それが生活のすべてであった。
(どうぶつえんのおりのなかでいっしょうをくらすにひきのけだもののように。)
動物園の檻の中で一生を暮らす二匹のけだもののように。
(そんなふうであったから、ときこがかのじょのおっとを、おもうがままにじゆうじざいに)
そんなふうであったから、時子が彼女の夫を、思うがままに自由自在に
(もてあそぶことのできる、いっこのおおきながんぐとみなすにいたったのは、)
もてあそぶことのできる、一個の大きな玩具と見なすに至ったのは、
(まことにとうぜんであった。また、ふぐしゃのはじしらずなこういにかんかされたかのじょが)
まことに当然であった。また、不具者の恥知らずな行為に感化された彼女が
(じょうじんにくらべてさえじょうぶじょうぶしていたかのじょが、いまではふぐしゃをこまらせるほども、)
常人に比べてさえ丈夫々々していた彼女が、今では不具者を困らせるほども、
(あくなきものとなりはてたのも、しごくあたりまえのことであった。)
飽くなきものとなり果てたのも、至極当たり前のことであった。
(かのじょはときどききちがいになるのではないかとおもった。じぶんのどこに、こんな)
彼女は時々気ちがいになるのではないかと思った。自分のどこに、こんな
(いまわしいかんじょうがひそんでいたのかと、あきれはてて)
いまわしい感情がひそんでいたのかと、あきれ果てて
(みぶるいすることがあった。)
身ぶるいすることがあった。
(ものもいえないし、こちらのことばもきこえない、じぶんではじゆうにうごくことさえ)
物もいえないし、こちらの言葉も聞こえない、自分では自由に動くことさえ
(できない、このくしくあわれないっこのどうぐが、けっしてきやつちでできたもの)
できない、この奇しく哀れな一個の道具が、決して木や土でできたもの
(ではなく、きどあいらくをもったいきものであるというてんが、かぎりなき)
ではなく、喜怒哀楽を持った生きものであるという点が、限りなき
(みりょくとなった。そのうえ、たったひとつのひょうげんきかんであるつぶらなりょうめが、)
魅力となった。その上、たったひとつの表現器官であるつぶらな両眼が、
(かのじょのあくなきようきゅうにたいして、あるときはさもかなしげに、あるときはさも)
彼女の飽くなき要求に対して、或る時はさも悲しげに、或る時はさも
(はらだたしげにものをいう。しかも、いくらかなしくとも、なみだをながすほかには、)
腹立たしげに物をいう。しかも、いくら悲しくとも、涙を流すほかには、
(なんのすべもなく、いくらはらだたしくとも、かのじょをいかくするわんりょくもなく、)
なんのすべもなく、いくら腹立たしくとも、彼女を威嚇する腕力もなく、
(ついにはかのじょのあっとうてきなゆうわくにたえかねて、かれもまたいじょうなびょうてきこうふんに)
ついには彼女の圧倒的な誘惑に耐えかねて、彼もまた異常な病的興奮に
(おちいってしまうのだが、このまったくむりょくないきものを、あいてのいに)
おちいってしまうのだが、このまったく無力な生きものを、相手の意に
(さからってせめさいなむことが、かのじょにとっては、もうこのうえもない)
さからって責めさいなむことが、彼女にとっては、もうこの上もない
(ゆえつとさえなっていたのである。)
愉悦とさえなっていたのである。