軍用鼠2 海野十三
青空文庫より引用
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問題文
(そこでうめのじゅうごは、ひだりてをのばしてかんのなかからけれーぶんをいっぽん)
そこで梅野十伍は、左手を伸ばして缶の中から紙巻煙草(ケレーブン)を一本
(ぬきだしくちにくわえた。そしておなじひだりてだけをきようにつかってまっちをすった。)
ぬきだし口に咥えた。そして同じ左手だけを器用に使ってマッチを擦った。
(しえんがもうもうと、げんこうようしのうえにたなびいた。かれはぺんをにぎったてを、あたらしいぎょうの)
紫煙が蒙々と、原稿用紙の上に棚曳いた。彼はペンを握った手を、新しい行の
(とっぷへもっていった。どうやらそろそろかれのみぎてがきげんをなおしたらしい、かれの)
トップへ持っていった。どうやらソロソロ彼の右手が機嫌を直したらしい、彼の
(あたまよりもさきに。「ーーうめだじゅうはちは、おそるおそるおおひろまにはいりこんだ。かれはよく)
頭脳よりも先に。「ーー梅田十八は、恐る恐る大広間に入りこんだ。彼はよく
(めいたんていがだいたんにもぞくのすみかにしのびこむところをしょうせつにかいたことが)
名探偵が大胆にも賊の棲家に忍びこむところを小説に書いたことが
(あったけれど、ほんとうにじつぶつのていないにしんにゅうするのはこんやがはじめてだった。そのまま)
あったけれど、本当に実物の邸内に侵入するのは今夜が始めてだった。そのまま
(つつーとあるこうとするが、こしがぐらぐらしていうことをきかなかった。)
ツツーと歩こうとするが、腰がグラグラして云うことを聞かなかった。
(やむをえずまたよつんばいになって、かねてけんとうをつけておいたおおづくえのほうに)
やむを得ずまた四つン匍いになって、かねて見当をつけて置いた大机の方に
(ちかづいた。つくえのうえをみると、なるほどあおいひょうしのちいさいほんがのっている。いっさいの)
近づいた。机の上を見ると、なるほど青い表紙の小さい本が載っている。一切の
(ひみつはそのなかにあるのだ。かれはゆうやくしてつくえにかぶりつき、とるてもおそしと)
秘密はそのなかにあるのだ。彼は勇躍して机に噛りつき、取る手も遅しと
(そのあおいほんをひらいてよみだした。「あだむがはっせんねんめのたんじょうびをむかえたるとき、)
その青い本を開いて読みだした。『アダムガ八千年目ノ誕生日ヲ迎エタルトキ、
(てんていはかれのすがたをろうばのすがたにへんぜしめられき、それとともにひとつのじんつうりきを)
天帝ハ彼ノ姿ヲ老婆ノ姿ニ変ゼシメラレキ、ソレト共ニ一ツノ神通力ヲ
(くだしたまえり、すなわちあだむのかえるたすうのねずみを、かれのほっするままにいかなる)
下シ給エリ、スナワチアダムノ飼エル多数ノ鼠ヲ、彼ノ欲スルママニ如何ナル
(ぶっぴんせいぶつにもへんぜしめうるちからをあたえたまえり、ただしそれにはひとつのじょうけんがあって)
物品生物ニモ変ゼシメ得ル力ヲ与エ給エリ、但シソレニハ一ツノ条件ガアッテ
(まいあさごぜんろくじにはかならずおきいでてじゅもんをさんどとなうることこれなり。もしもそれを)
毎朝午前六時ニハ必ズ起キ出デテ呪文ヲ三度唱ウルコト之ナリ。モシモソレヲ
(おこたったるときは、かれのじんつうりきはしゅんじにしょうめつし、ものみなきゅうたいにもどるべし、よりて)
怠ッタルトキハ、彼ノ神通力ハ瞬時ニ消滅シ、物ミナ旧態ニ復ルベシ、仍リテ
(あだむは、しいくせるたすうのねずみをへんじておおくのだんじょをつくりもろもろのぶっぴんを)
アダムハ、飼育セル多数ノ鼠ヲ変ジテ多クノ男女ヲ作リモロモロノ物品ヲ
(つくりなせり」よみおわったうめだじゅうはちは、ひじょうなるきょうふにおそわれた。いぜんから、)
作リナセリ』読み終った梅田十八は、非常なる恐怖に襲われた。以前から、
(どうもこういうきがせぬでもなかったのである。こんにちよのなかにじゅうまんする)
どうもこういう気がせぬでもなかったのである。今日世の中に充満する
(にんげんのうち、だーうぃんのしんかろんにしたがって、さるをせんぞとするものもあるかも)
人間のうち、ダーウィンの進化論に従って、猿を先祖とする者もあるかも
(しれないが、なかにはまたこのようばあだむういっちのにっきちょうにあるごとく)
しれないが、中にはまたこの妖婆アダムウイッチの日記帳にあるごとく
(それがねずみからかくらげからかしらないが、とにかくほかのどうぶつからへんじてにんげんに)
それが鼠からか水母からか知らないが、とにかく他の動物から変じて人間に
(なっているというなかまもすくなくはないだろうことをよそうしていた。かぜんかれは)
なっているという仲間も少くはないだろうことを予想していた。果然彼は
(さるからしんかしたこうきゅうのにんげんにあらずして、いちじにんげんにばけたねずみだかも)
猿から進化した恒久の人間にあらずして、一時人間に化けた鼠だかも
(しれないのである。そういえば、かれはべつにはっきりしたりゆうがないのにも)
知れないのである。そういえば、彼は別にハッキリした理由がないのにも
(かかわらず、よくはってあるくしゅうかんがあった。それからまた、いつぞやかがみのなかに)
拘らず、よく匍って歩く習慣があった。それからまた、いつぞや鏡の中に
(じぶんのかおをながめたとき、りょうのめだまがいかにもきょときょとしているぐあいや、)
自分の顔を眺めたとき、両の眼玉がいかにもキョトキョトしている具合や、
(こうふんがなんとなくとがってみえ、くちびるのきれめのうえにはねずみのようなあらいひげが)
口吻がなんとなく尖って見え、唇の切れ目の上には鼠のような粗い髯が
(はえているところがねずみくさいとかんじたことがあった。いまやそのひみつが)
生えているところが鼠くさいと感じたことがあった。今やその秘密が
(とけたのである。ーー」というところで、うめのじゅうごはあとをかきつづけるのが)
解けたのである。ーー」というところで、梅野十伍は後を書きつづけるのが
(ばかばかしくなって、ぺんをおいた。かれはこのんでみすてりーがかったたんていしょうせつを)
莫迦莫迦しくなって、ペンを置いた。彼は好んでミステリーがかった探偵小説を
(かいてかっさいをはくし、あとから「みすてりーたんていしょうせつろん」などをかいてとくいになった)
書いて喝采を博し、後から「ミステリー探偵小説論」などを書いて得意になった
(ものであったが、これではどうもものになりそうもない。かれはひのきえてしまった)
ものであったが、これではどうも物になりそうもない。彼は火の消えてしまった
(たばこにまたまっちのひをつけてひとくちすった。そのときかれがちょっとかんしんを)
煙草にまたマッチの火を点けて一口吸った。そのとき彼がちょっと関心を
(もったことがあった。それはいまかいたげんこうのなかに、「ーーいつぞやかがみのなかに)
持ったことがあった。それはいま書いた原稿の中に、「ーーいつぞや鏡の中に
(じぶんのかおをながめたとき、りょうのめだまがいかにもきょときょとしているぐあいや、)
自分の顔を眺めたとき、両の眼玉がいかにもキョトキョトしている具合や、
(こうふんがなんとなくとがってみえ、くちびるのきれめのうえにはねずみのようなあらいひげが)
口吻がなんとなく尖って見え、唇の切れ目の上には鼠のような粗い髯が
(はえているところがねずみくさい!」とかいたが、かれはなぜこんなことを)
生えているところが鼠くさい!」と書いたが、彼はなぜこんなことを
(かんがえついたのだろうとふしんをうった。さっきねずみがてんじょううらであばれはじめたのを、)
考えついたのだろうと不審をうった。さっき鼠が天井裏で暴れはじめたのを、
(ときにとってのふくのかみとして、ねずみのはなしなどをげんこうにかきだしたけんはよくわかる。)
時にとっての福の神として、鼠の話などを原稿に書きだした件はよく分る。
(しかしそのねずみのはなしを、そんなふうにしゅじんこうのかおがねずみににているというはなしにまで)
しかしその鼠の話を、そんな風に主人公の顔が鼠に似ているという話にまで
(もっていったについては、なにかわけがなくてはならぬ。およそわけのないけっかは)
持っていったについては、何かワケがなくてはならぬ。凡そワケのない結果は
(ないのである。そのもちーふはいかなるすじみちをとおってはっせいしたのであろう。)
ないのである。そのモチーフは如何なる筋道を通って発生したのであろう。
(ひょっとすると、これはうめのじゅうごじしんはじかくしないのにかれのかおがねずみににていて、)
ひょっとすると、これは梅野十伍自身は自覚しないのに彼の顔が鼠に似ていて、
(それでそのせんざいいしきがかれにこんなぷろっとをつくらせたのではなかろうか。)
それでその潜在意識が彼にこんな筋(プロット)を作らせたのではなかろうか。
(そうなるとかれはきゅうにきがかりになってきた。そのぎわくをはっきりさせなければ)
そうなると彼は急に気がかりになってきた。その疑惑をハッキリさせなければ
(きもちがわるかった。かれはとけいがもうごぜんさんじになっているのにきがつかないで)
気持が悪かった。彼は時計がもう午前三時になっているのに気がつかないで
(かたわらのたなからてぶんこをおろした。そのなかにはまるいおおきなおうめんきょうが、むきだしの)
側らの棚から手文庫を下ろした。その中には円い大きな凹面鏡が、むきだしの
(ままはいっているのである。かれはそれにかおをうつしてみるきで、てぶんこのふたに)
まま入っているのである。彼はそれに顔を写してみる気で、手文庫の蓋に
(てをかけたがーーちょっとまて!あかるいすたんどのしたとはいえ、このしんやに)
手をかけたがーーちょっと待て!明るいスタンドの下とは云え、この深夜に
(ただひとりおきていて、じぶんのかおをおうめんきょうにうつしてみて、それでまちがいは)
唯一人起きていて、自分の顔を凹面鏡に写してみて、それで間違いは
(ないであろうか。もしそのかがみのそこに、かれのてらてらしたあからがおがうつりだせば)
ないであろうか。もしその鏡の底に、彼のテラテラした赭ら顔が写り出せば
(いいが、まんいちまかりとおって、そのかがみのそこにかおいちめんけむくじゃらのおおきなねずみのかおが)
いいが、万一まかり通って、その鏡の底に顔一面毛むくじゃらの大きな鼠の顔が
(うつっていたとしたら、これはいったいどうなるのだろうか。そうおもうと、きゅうに)
うつっていたとしたら、これは一体どうなるのだろうか。そう思うと、急に
(かれのてはぶるぶるとふるえはじめた。てぶんこのふたがかたかたとなりだした。)
彼の手はブルブルと慄えはじめた。手文庫の蓋がカタカタと鳴りだした。
(かれのせすじを、こおりのやいばのようにつめたいものがすーっととおりすぎた。かれはあけようと)
彼の背筋を、氷の刃のように冷いものがスーッと通りすぎた。彼は開けようと
(おもったてぶんこのふたを、こんどはあけまいとしていっしょうけんめいにおさえつけた。それでも)
思った手文庫の蓋を、今度は開けまいとして一生懸命に抑えつけた。それでも
(じりじりときょうふは、かれのりょううでをはいあがってくるのであった。かれはもうすっかり)
ジリジリと恐怖は、彼の両腕を匍いあがってくるのであった。彼はもうすっかり
(おびえてしまって、とうとうよこてのまどをぽーんとあけると、かがみをてぶんこごとそうがいに)
怯えてしまって、とうとう横手の窓をポーンと明けると、鏡を手文庫ごと窓外に
(ほうりだした。やみのなかにひさめにそぼぬれていたくまざさががさっと、にんげんをけさがけに)
放りだした。闇の中に冷雨にそぼぬれていた熊笹がガサッと、人間を袈裟がけに
(きったようなぶきみなおとをたてた。かれはあわててまどをしめてかーてんを)
切ったような無気味な音を立てた。彼は慌てて窓を締めてカーテンを
(すばやくひいた。つくえのまえのとけいはごぜんさんじをだいぶまわっていた。かれはまたたばこを)
素早く引いた。机の前の時計は午前三時を大分廻っていた。彼はまた煙草を
(くちにくわえ、こんどはげんこうようしのうえにほおづえをついてかんがえこんだ。)
口に咥え、今度は原稿用紙の上に頬杖をついて考えこんだ。