「こころ」1-32 夏目漱石

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(上)先生と私
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1 どんぐり 6143 A++ 6.6 93.3% 259.3 1716 123 33 2024/10/14

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問題文

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(わたくしはわたくしのつらまえたじじつのゆるすかぎり、おくさんをなぐさめようとした。)

私は私のつらまえた事実の許す限り、奥さんを慰めようとした。

(おくさんもまたできるだけわたくしによってなぐさめられたそうにみえた。)

奥さんもまたできるだけ私によって慰められたそうに見えた。

(それでふたりはおなじもんだいをいつまでもはなしあった。)

それで二人は同じ問題をいつまでも話し合った。

(けれどもわたくしはもともとことのおおねをつかんでいなかった。)

けれども私はもともと事の大根を攫んでいなかった。

(おくさんのふあんもじつはそこにただよううすいくもににたぎわくからでてきていた。)

奥さんの不安も実はそこに漂う薄い雲に似た疑惑から出て来ていた。

(じけんのしんそうになると、おくさんじしんにもおおくはしれていなかった。)

事件の真相になると、奥さん自身にも多くは知れていなかった。

(しれているところでもすっかりはわたくしにはなすことができなかった。)

知れているところでも悉皆は私に話す事ができなかった。

(したがってなぐさめるわたくしも、なぐさめられるおくさんも、ともになみにういて、)

したがって慰める私も、慰められる奥さんも、共に波に浮いて、

(ゆらゆらしていた。)

ゆらゆらしていた。

(ゆらゆらしながら、おくさんはどこまでもてをだして、)

ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、

(おぼつかないわたくしのはんだんにすがりつこうとした。)

覚束ない私の判断に縋り付こうとした。

(じゅうじごろになってせんせいのくつのおとがげんかんにきこえたとき、)

十時頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、

(おくさんはきゅうにいままでのすべてをわすれたように、)

奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、

(まえにすわっているわたくしをそっちのけにしてたちあがった。)

前に坐っている私をそっちのけにして立ち上がった。

(そうしてこうしをあけるせんせいをほとんどであいがしらにむかえた。)

そうして格子を開ける先生をほとんど出会い頭に迎えた。

(わたくしはとりのこされながら、あとからおくさんについていった。)

私は取り残されながら、後から奥さんに尾いて行った。

(げじょだけはうたたねでもしていたとみえて、ついにでてこなかった。)

下女だけは仮寝でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。

(せんせいはむしろきげんがよかった。しかしおくさんのちょうしはさらによかった。)

先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。

(いましがたおくさんのうつくしいめのうちにたまったなみだのひかりと、)

今しがた奥さんの美しい眼のうちに溜った涙の光と、

(それからくろいまゆげのねによせられたはちのじをきおくしていたわたくしは、)

それから黒い眉毛の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、

など

(そのへんかをいじょうなものとしてちゅういぶかくながめた。)

その変化を異常なものとして注意深く眺めた。

(もしそれがいつわりでなかったならば、(じっさいそれはいつわりとはおもえなかったが)、)

もしそれが詐りでなかったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、

(いままでのおくさんのうったえはせんちめんとをもてあそぶためにとくにわたくしをあいてにこしらえた、)

今までの奥さんの訴えは感傷を玩ぶためにとくに私を相手に拵えた、

(いたずらなにょしょうのゆうぎととれないこともなかった。)

徒らな女性の遊戯と取れない事もなかった。

(もっともそのときのおくさんをそれほどひひょうてきにみるきはおこらなかった。)

もっともその時の奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。

(わたくしはおくさんのたいどのきゅうにかがやいてきたのをみて、むしろあんしんした。)

私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。

(これならばそうしんぱいするひつようもなかったんだとかんがえなおした。)

これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。

(せんせいはわらいながら)

先生は笑いながら

(「どうもごくろうさま、どろぼうはきませんでしたか」)

「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」

(とわたくしにきいた。)

と私に聞いた。

(それから)

それから

(「こないんではりあいがぬけやしませんか」)

「来ないんで張合が抜けやしませんか」

(といった。)

といった。

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