「こころ」1-57 夏目漱石

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(上)先生と私
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問題文

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(わたくしはあいさつをしてこうしのそとへあしをふみだした。)

私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。

(げんかんともんのあいだにあるこんもりしたもくせいのひとかぶが、わたくしのゆくてをふさぐように、)

玄関と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐように、

(やいんのうちにえだをはっていた。)

夜陰のうちに枝を張っていた。

(わたくしはに、さんほうごきだしながら、くろずんだはにおおわれているそのこずえをみて、)

私は二、三歩動き出しながら、黒ずんだ葉に被われているその梢を見て、

(きたるべきあきのはなとこうをおもいうかべた。)

来たるべき秋の花と香を想い浮かべた。

(わたくしはせんせいのうちとこのもくせいとを、いぜんからこころのうちで、)

私は先生の宅とこの木犀とを、以前から心のうちで、

(はなすことのできないもののように、いっしょにきおくしていた。)

離す事のできないもののように、いっしょに記憶していた。

(わたくしがぐうぜんそのきのまえにたって、ふたたびこのうちのげんかんをまたぐべきつぎのあきに)

私が偶然その樹の前に立って、再びこの宅の玄関を跨ぐべき次の秋に

(おもいをはせたとき、いままでこうしのあいだからさしていたげんかんのでんとうがふっときえた。)

思いを馳せた時、今まで格子の間から射していた玄関の電燈がふっと消えた。

(せんせいふうふはそれぎりおくへはいったらしかった。)

先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。

(わたくしはひとりくらいおもてへでた。)

私は一人暗い表へ出た。

(わたくしはすぐげしゅくへはもどらなかった。)

私はすぐ下宿へは戻らなかった。

(くにへかえるまえにととのえるかいものもあったし、ごちそうをつめたいぶくろにくつろぎを)

国へ帰る前に調える買物もあったし、ご馳走を詰めた胃袋にくつろぎを

(あたえるひつようもあったので、ただにぎやかなまちのほうへあるいていった。)

与える必要もあったので、ただ賑やかな町の方へ歩いて行った。

(まちはまだよいのくちであった。ようじもなさそうななんにょがぞろぞろうごくなかに、)

町はまだ宵の口であった。用事もなさそうな男女がぞろぞろ動く中に、

(わたくしはきょうわたくしといっしょにそつぎょうしたなにがしにあった。)

私は今日私といっしょに卒業したなにがしに会った。

(かれはわたくしをむりやりにあるばーへつれこんだ。)

彼は私を無理やりにある酒場へ連れ込んだ。

(わたくしはそこでびーるのあわのようなかれのきえんをきかされた。)

私はそこで麦酒の泡のような彼の気焔を聞かされた。

(わたくしのげしゅくへかえったのはじゅうにじすぎであった。)

私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。

(わたくしはそのよくじつもあつさをおかして、たのまれものをかいあつめてあるいた。)

私はその翌日も暑さを冒して、頼まれものを買い集めて歩いた。

など

(てがみでちゅうもんをうけたときはなんでもないようにかんがえていたのが、)

手紙で注文を受けた時は何でもないように考えていたのが、

(いざとなるとたいへんおっくうにかんぜられた。)

いざとなると大変億劫に感ぜられた。

(わたくしはでんしゃのなかであせをふきながら、ひとのじかんとてすうにきのどくというがいねんを)

私は電車の中で汗を拭きながら、他の時間と手数に気の毒という概念を

(まるでもっていないいなかものをにくらしくおもった。)

まるでもっていない田舎者を憎らしく思った。

(わたくしはこのひとなつをむいにすごすきはなかった。)

私はこの一夏を無為に過ごす気はなかった。

(くにへかえってからのにっていというようなものをあらかじめつくっておいたので、)

国へ帰ってからの日程というようなものをあらかじめ作っておいたので、

(それをりこうするにひつようなしょもつもてにいれなければならなかった。)

それを履行するに必要な書物も手に入れなければならなかった。

(わたくしははんにちをまるぜんのにかいでつぶすかくごでいた。)

私は半日を丸善の二階で潰す覚悟でいた。

(わたくしはじぶんにかんけいのふかいぶもんのしょせきだなのまえにたって、)

私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、

(すみからすみまでいっさつずつてんけんしていった。)

隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。

(かいもののうちでいちばんわたくしをこまらせたのはおんなのはんえりであった。)

買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟であった。

(こぞうにいうと、いくらでもだしてはくれるが、さてどれをえらんでいいのか、)

小僧にいうと、いくらでも出してはくれるが、さてどれを選んでいいのか、

(かうだんになっては、ただまようだけであった。そのうえあたいがきわめてふていであった。)

買う段になっては、ただ迷うだけであった。その上価が極めて不定であった。

(やすかろうとおもってきくと、ひじょうにたかかったり、たかかろうとかんがえて、)

安かろうと思って聞くと、非常に高かったり、高かろうと考えて、

(きかずにいると、かえってたいへんやすかったりした。あるいはいくらくらべてみても、)

聞かずにいると、かえって大変安かったりした。あるいはいくら比べて見ても、

(どこからかかくのさいがでるのかけんとうのつかないものもあった。)

どこから価格の差違が出るのか見当の付かないものもあった。

(わたくしはまったくよわらせられた。)

私は全く弱らせられた。

(そうしてこころのうちで、なぜせんせいのおくさんをわずらわさなかったかをくいた。)

そうして心のうちで、なぜ先生の奥さんを煩わさなかったかを悔いた。

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