「こころ」1-52 夏目漱石

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(上)先生と私
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1 どんぐり 5333 B++ 5.8 91.4% 396.9 2336 219 45 2024/11/04
2 もっちゃん先生 4947 B 5.3 93.4% 439.8 2339 163 45 2024/12/05

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問題文

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(わたくしはそのばんせんせいのうちへごちそうにまねかれていった。)

私はその晩先生の家へ御馳走に招かれて行った。

(これはもしそつぎょうしたらそのひのばんさんはよそでくわずに、せんせいのしょくたくで)

これはもし卒業したらその日の晩餐はよそで喰わずに、先生の食卓で

(すますというまえからのやくそくであった。)

済ますという前からの約束であった。

(しょくたくはやくそくどおりざしきのえんちかくにすえられてあった。)

食卓は約束通り座敷の縁近くに据えられてあった。

(もようのおりだされたあついのりのこわいてーぶるくろーすがうつくしくかつきよらかに)

模様の織り出された厚い糊の硬い卓布が美しくかつ清らかに

(でんとうのひかりをいかえしていた。)

電燈の光を射返していた。

(せんせいのうちでめしをくうと、きっとこのせいようりょうりてんにみるような)

先生のうちで飯を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような

(しろいりんねるのうえに、はしやちゃわんがおかれた。)

白いリンネルの上に、箸や茶碗が置かれた。

(そうしてそれがかならずせんたくしたてのまっしろなものにかぎられていた。)

そうしてそれが必ず選択したての真白なものに限られていた。

(「からやかふすとおなじことさ。よごれたのをもちいるくらいなら、いっそはじめから)

「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層始めから

(いろのついたものをつかうがいい。しろければじゅんぱくでなくっちゃ」)

色の着いたものを使うが好い。白ければ純白でなくっちゃ」

(こういわれてみると、なるほどせんせいはけっぺきであった。)

こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。

(しょさいなどもじつにきちりとかたづいていた。)

書斎なども実に整然と片付いていた。

(むとんじゃなわたくしには、せんえいのそういうとくしょくがおりおりいちじるしくめにとどまった。)

無頓着な私には、船影のそういう特色が折々著しく眼に留まった。

(「せんせいはかんしょうですね」とかつておくさんにつげたとき、)

「先生は癇性ですね」とかつて奥さんに告げた時、

(おくさんは「でもきものなどは、それほどきにしないようですよ」と)

奥さんは「でも着物などは、それほど気にしないようですよ」と

(こたえたことがあった。)

答えた事があった。

(それをそばにきいていたせんせいは、)

それを傍に聞いていた先生は、

(「ほんとうをいうと、わたしはせいしんてきにかんしょうなんです。それでしじゅうくるしいんです。)

「本当をいうと、私は精神的に癇性なんです。それで始終苦しいんです。

(かんがえるとじつにばかばかしいしょうぶんだ」)

考えると実に馬鹿馬鹿しい性分だ」

など

(といってわらった。)

といって笑った。

(せいしんてきにかんしょうといういみは、ぞくにいうしんけいしつといういみか、)

精神的に癇性という意味は、俗にいう神経質という意味か、

(またはりんりてきにけっぺきだといういみか、わたくしにはわからなかった。)

または倫理的に潔癖だという意味か、私には解らなかった。。

(おくさんにもよくつうじないらしかった。)

奥さんにも能く通じないらしかった。

(そのばんわたくしはせんせいとむかいあわせに、れいのしろいたくふのまえにすわった。)

その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布の前に坐った。

(おくさんはふたりをさゆうにおいて、ひとりにわのほうをしょうめんにしてせきをしめた。)

奥さんは二人を左右に置いて、独り庭の方を正面にして席を占めた。

(「おめでとう」といって、せんせいがわたくしのためにさかずきをあげてくれた。)

「お目出とう」といって、先生が私のために盃を上げてくれた。

(わたくしはこのさかずきにたいしてそれほどうれしいきをおこさなかった。)

私はこの盃に対してそれほど嬉しい気を起さなかった。

(むろんわたくしじしんのこころがこのことばにはんきょうするように、とびたつうれしさを)

無論私自身の心がこの言葉に反響するように、飛び立つ嬉しさを

(もっていなかったのが、ひとつのげんいんであった。)

もっていなかったのが、一つの源因であった。

(けれどもせんせいのいいほうもけっしてわたくしのうれしさをそそるうきうきしたちょうしをおびて)

けれども先生のいい方も決して私の嬉しさを唆る浮々した調子を帯びて

(いなかった。せんせいはわらってさかずきをあげた。わたくしはそのわらいのうちに、)

いなかった。先生は笑って盃を上げた。私はその笑いのうちに、

(ちっともいじのわるいあいろにーをみとめなかった。)

些とも意地の悪いアイロニーを認めなかった。

(どうじにめでたいというしんじょうもくみとることができなかった。)

同時に目出たいという真情も汲み取る事ができなかった。

(せんせいのわらいは、)

先生の笑いは、

(「せけんはこんなばあいによくおめでとうといいたがるものですね」)

「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」

(とわたくしにものがたっていた。)

と私に物語っていた。

(おくさんはわたくしに「けっこうね。さぞおとうさんやおかあさんはおよろこびでしょう」)

奥さんは私に「結構ね。さぞお父さんやお母さんはお喜びでしょう」

(といってくれた。わたくしはとつぜんびょうきのちちのことをかんがえた。)

といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。

(はやくあのそつぎょうしょうしょをもっていってみせてやろうとおもった。)

早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。

(「せんせいのそつぎょうしょうしょはどうしました」とわたくしがきいた。)

「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。

(「どうしたかね。ーーまだどこかにしまってあったかね」)

「どうしたかね。ーーまだどこかにしまってあったかね」

(とせんせいがおくさんにきいた。)

と先生が奥さんに聞いた。

(「ええ、たしかしまってあるはずですが」)

「ええ、たしかしまってあるはずですが」

(そつぎょうしょうしょのありどころはふたりともよくしらなかった。)

卒業証書の在処は二人ともよく知らなかった。

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