戯作三昧(六)

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投稿者投稿者鳴きウサギ(鹿の声)いいね1お気に入り登録
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(ろく)

(うちへかえってみると、うすぐらいげんかんのくつぬぎのうえに、みなれたばらおのせったが)

うちへ帰ってみると、うす暗い玄関の沓脱ぎの上に、見慣れたばら緒の雪駄が

(いっそくのっている。ばきんはそれをみると、すぐにそのきゃくののっぺりしたかおが、めに)

一足のっている。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののっぺりした顔が、眼に

(うかんだ。そうしてまた、じかんをつぶされるめいわくを、にがにがしくこころにおもいおこした。)

浮んだ。そうしてまた、時間をつぶされる迷惑を、苦々しく心に思い起した。

(「きょうもあさのうちはつぶされるな。」)

「今日も朝のうちはつぶされるな。」

(こうおもいながら、かれがしきだいへあがると、あわただしくでむかえたげじょのすぎが、)

こう思いながら、彼が式台へ上がると、あわただしく出迎えた下女の杉が、

(てをついたまま、したからかれのかおをみあげるようにして、)

手をついたまま、下から彼の顔を見上げるようにして、

(「いずみやさんが、おいまでおかえりをおまちでございます。」といった。)

「和泉屋さんが、お居間でお帰りをお待ちでございます。」と言った。

(かれはうなずきながら、ぬれてぬぐいをすぎのてにわたした。が、どうもすぐに)

彼はうなずきながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに

(しょさいへはとおりたくない。)

書斎へは通りたくない。

(「おひゃくは。」)

「お百は。」

(「ごぶっさんにおいでになりました。」)

「御仏参においでになりました。」

(「おみちもいっしょか。」)

「お路もいっしょか。」

(「はい。ぼっちゃんとごいっしょに。」)

「はい。坊ちゃんとごいっしょに。」

(「せがれは。」)

「伜は。」

(「やまもとさまへいらっしゃいました。」)

「山本様へいらっしゃいました。」

(かないはみな、るすである。かれはちょいと、しつぼうににたかんじをあじわった。そうして)

家内は皆、留守である。彼はちょいと、失望に似た感じを味わった。そうして

(しかたなく、げんかんのとなりにあるしょさいのふすまをあけた。)

しかたなく、玄関の隣にある書斎の襖を開けた。

(あけてみると、そこには、いろのしろい、かおのてらてらひかっている、どこかみょうに)

開けてみると、そこには、色の白い、顔のてらてら光っている、どこか妙に

(とりすましたおとこが、ほそいぎんのきせるをくわえながら、たんぜんとざしきのまんなかにひかえて)

取り澄ました男が、細い銀の煙管をくわえながら、端然と座敷のまん中に控えて

など

(いる。かれのしょさいにはいしずりをはったびょうぶとゆかにかけたこうふうこうぎくのそうふくとのほかに、)

いる。彼の書斎には石刷を貼った屏風と床にかけた紅楓黄菊の双幅とのほかに、

(そうしょくらしいそうしょくはひとつもない。かべにそうては、ごじゅうにあまるほんばこが、ただふるびた)

装飾らしい装飾は一つもない。壁に沿うては、五十に余る本箱が、ただ古びた

(きりのいろを、いちめんにさびしくならべている。しょうじのかみもはってから、ひとふゆはもうこえた)

桐の色を、一面に寂しく並べている。障子の紙も貼ってから、一冬はもう越えた

(のであろう。きりはりのてんてんとしたしろいうえには、あきのひにてらされたやればしょうの)

のであろう。切り貼りの点々とした白い上には、秋の日に照らされた破れ芭蕉の

(おおきなかげが、ばさとしてななめにうつっている。それだけにこのきゃくのぞろりとした)

大きな影が、婆娑として斜めに映っている。それだけにこの客のぞろりとした

(ふくそうが、いっそうまたしゅういとつりあわない。)

服装が、いっそうまた周囲と釣り合わない。

(「いや、せんせい、ようこそおかえり。」)

「いや、先生、ようこそお帰り。」

(きゃくは、ふすまがあくとともに、なめらかなちょうしでこういいながら、うやうやしく)

客は、襖があくとともに、滑らかな調子でこう言いながら、うやうやしく

(あたまをさげた。これが、とうじはっけんでんについでせひょうのたかいきんぺいばいのはんもとをひきうけて)

頭を下げた。これが、当時八犬伝に次いで世評の高い金瓶梅の版元を引き受けて

(いた、いずみやいちべえというほんやである。)

いた、和泉屋市兵衛という本屋である。

(「だいぶんにおまちなすったろう。めずらしくけさは、あさゆにいったのでね。」)

「大分にお待ちなすったろう。めずらしく今朝は、朝湯に行ったのでね。」

(ばきんは、ほんのうてきにちょいとかおをしかめながら、いつものとおり、れいぎただしく)

馬琴は、本能的にちょいと顔をしかめながら、いつもの通り、礼儀正しく

(ざについた。)

座についた。

(「へへえ、あさゆに。なるほど。」)

「へへえ、朝湯に。なるほど。」

(いちべえは、おおいにかんぷくしたようなこえをだした。いかなるさまつなじけんにも、)

市兵衛は、大いに感服したような声を出した。いかなる瑣末な事件にも、

(このおとこのごとくよういにかんぷくするにんげんは、めったにない。いや、かんぷくしたような)

この男のごとく容易に感服する人間は、滅多にない。いや、感服したような

(かおをするにんげんは、まれである。ばきんはおもむろにいっぷくすいつけながら、いつもの)

顔をする人間は、稀である。馬琴はおもむろに一服吸いつけながら、いつもの

(とおり、さっそくはなしをようだんのほうへもっていった。かれはとくに、いずみやのこのかんぷくを)

通り、さっそく話を用談の方へ持っていった。彼は特に、和泉屋のこの感服を

(このまないのである。)

好まないのである。

(「そこできょうはなにかごようかね。」)

「そこで今日は何か御用かね。」

(「へえ、なにまたひとつげんこうをちょうだいにあがりましたんで。」)

「へえ、なにまた一つ原稿を頂戴に上がりましたんで。」

(いちべえはきせるをひとつゆびのさきでくるりとまわしてみせながら、おんなのように)

市兵衛は煙管を一つ指の先でくるりとまわして見せながら、女のように

(やさしいこえをだした。このおとこはふしぎなせいかくをもっている。というのは、)

やさしい声を出した。この男は不思議な性格を持っている。というのは、

(がいめんのこういとないめんのしんいとが、たいていなばあいはいっちしない。しないどころか、)

外面の行為と内面の心意とが、たいていな場合は一致しない。しないどころか、

(いつでもせいはんたいになってあらわれる。だから、かれはおおいにきょうこうないしを)

いつでも正反対になって現われる。だから、彼は大いに強硬な意志を

(もっていると、かならずそれにはんぴれいする、いかにもやさしいこえをだした。)

持っていると、必ずそれに反比例する、いかにもやさしい声を出した。

(ばきんはこのこえをきくと、ふたたびほんのうてきにかおをしかめた。)

馬琴はこの声を聞くと、再び本能的に顔をしかめた。

(「げんこうといったって、それはむりだ。」)

「原稿と言ったって、それは無理だ。」

(「へへえ、なにかおさしつかえでもございますので。」)

「へへえ、何かおさしつかえでもございますので。」

(「さかつかえるどころじゃない。ことしはよみほんをだいぶんひきうけたので、とても)

「さかつかえるどころじゃない。今年は読本を大分引き受けたので、とても

(ごうかんのほうへはてがだせそうもない。」)

合巻の方へは手が出せそうもない。」

(「なるほどそれはごたぼうで。」)

「なるほどそれは御多忙で。」

(といったかとおもうと、いちべえはきせるではいふきをたたいたのがあいずのように、)

と言ったかと思うと、市兵衛は煙管で灰吹きを叩いたのが相図のように、

(いままでのはなしはすっかりわすれたというかおをして、とつぜんねずみこぞうじろだゆうのはなしを)

今までの話はすっかり忘れたという顔をして、突然鼠小僧次郎太夫の話を

(しゃべりだした。)

しゃべり出した。

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