カインの末裔 10/11

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有島武郎

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問題文

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(しかしかんがえてみるといろいろなこんなんがかれのまえにはよこたわっていた。しょくりょうはひとふゆ)

しかし考えて見ると色々な困難が彼れの前には横わっていた。食料は一冬

(ことかかぬだけはあっても、かねはあわれなほどよりたくわえがなかった。うまはけいばいらい)

事かかぬだけはあっても、金は哀れなほどより貯えがなかった。馬は競馬以来

(はいぶつになっていた。ふゆのあいだかせぎにでれば、そのるすにきのよわいつまがこやから)

廃物になっていた。冬の間稼ぎに出れば、その留守に気の弱い妻が小屋から

(おいたてをくうのはしれきっていた。といってこやにいのこればいぐいをしているほか)

追立てを喰うのは知れ切っていた。といって小屋に居残れば居食いをしている外

(はないのだ。らいねんのたねさえくめんのしようのないのはいまからしれきっていた。)

はないのだ。来年の種子さえ工面のしようのないのは今から知れ切っていた。

(たきびにあたって、きかなくなったうまのまえあしをじっとみつめながらもかんがえ)

焚火にあたって、きかなくなった馬の前脚をじっと見つめながらも考え

(こんだままくらすようなひがいくにちもつづいた。)

こんだまま暮すような日が幾日も続いた。

(さとうをはじめかれのけいべつしきっているじょうないのこさくしゃどもは、おめおめとこさくりょうを)

佐藤をはじめ彼れの軽蔑し切っている場内の小作者どもは、おめおめと小作料を

(しぼりとられ、しょうにんにおもいまえがりをしているにもかかわらず、とにかくさしたくったくも)

搾取られ、商人に重い前借をしているにもかかわらず、とにかくさした屈托も

(しないでふゆをむかえていた。そうとうのゆきがこいのできないようなこやはひとつも)

しないで冬を迎えていた。相当の雪囲いの出来ないような小屋は一つも

(なかった。まずしいなりにつどってさけものみあえば、たすけあいもした。にんえもんには)

なかった。貧しいなりに集って酒も飲み合えば、助け合いもした。仁右衛門には

(にんげんがよってたかってかれひとりをてきにまわしているようにみえた。)

人間がよってたかって彼れ一人を敵にまわしているように見えた。

(ふゆはえんりょなくすすんでいった。みわたすおおぞらがまずゆきにうめられたようにどこから)

冬は遠慮なく進んで行った。見渡す大空が先ず雪に埋められたように何所から

(どこまでまっしろになった。そこからゆきはこんこんとしてとめどなくふってきた。)

何所まで真白になった。そこから雪は滾々としてとめ度なく降って来た。

(にんげんのあわれなはいざんのあとをものがたるはたけも、かちほこったしぜんのりょうどであるしんりんも)

人間の哀れな敗残の跡を物語る畑も、勝ちほこった自然の領土である森林も

(ひとしなみにゆきのしたにうもれていった。いちやのうちにいっしゃくもにしゃくもつもりかさなるひが)

等しなみに雪の下に埋れて行った。一夜の中に一尺も二尺も積り重なる日が

(あった。こやとこだちだけがそらとちとのあいだにあってきたないしみだった。)

あった。小屋と木立だけが空と地との間にあって汚ない斑点だった。

(にんえもんはあるひひざまではいるゆきのなかをこいでじむしょにでかけていった。)

仁右衛門はある日膝まで這入る雪の中をこいで事務所に出かけて行った。

(いくらでもいいからうまをかってくれろとたのんでみた。ちょうばはあざわらって)

いくらでもいいから馬を買ってくれろと頼んで見た。帳場はあざ笑って

(あしのたたないうまは、かねをくうきかいみたいなものだといった。そしてしっぺがえしに)

脚の立たない馬は、金を喰う機械見たいなものだといった。そして竹箆返しに

など

(あとがまができたからこやをたちのけとせまった。ぐずぐずしているといままでのような)

跡釜が出来たから小屋を立退けと逼った。愚図愚図していると今までのような

(にえきらないことはしておかない、このむらのじゅんさでまにあわなければくっちゃんから)

煮え切らない事はして置かない、この村の巡査でまにあわなければ倶知安から

(でもたのんでしょぶんするからそうおもえともいった。にんえもんはちょうばにものをいわれると)

でも頼んで処分するからそう思えともいった。仁右衛門は帳場に物をいわれると

(みょうにむかっぱらがたった。はなをあかしてくれるからみておれといいすててこや)

妙に向腹が立った。鼻をあかしてくれるから見ておれといい捨てて小屋

(にかえった。)

に帰った。

(かねをくうきかいーーそれにちがいなかった。にんえもんはふびんさからいままでうまを)

金を喰う機械ーーそれに違いなかった。仁右衛門は不愍さから今まで馬を

(いかしておいたのをこうかいした。かれはゆきのなかにうまをひっぱりだした。おいぼれた)

生かして置いたのを後悔した。彼れは雪の中に馬を引張り出した。老いぼれた

(ようになったうまはなつかしげにしゅじんのてにはなさきをもっていった。にんえもんは)

ようになった馬はなつかしげに主人の手に鼻先きを持って行った。仁右衛門は

(みぎてにかくしてもっていたおのでみけんをくらわそうとおもっていたが、どうしても)

右手に隠して持っていた斧で眉間を喰らわそうと思っていたが、どうしても

(それができなかった。かれはまたうまをひいてこやにかえった。)

それが出来なかった。彼れはまた馬を牽いて小屋に帰った。

(そのよくじつかれはみじたくをしてはこだてにでかけた。かれはばぬしとひとけんかしてかさいの)

その翌日彼れは身仕度をして函館に出懸けた。彼れは場主と一喧嘩して笠井の

(しおおせなかったこさくりょうのけいげんをじっこうさせ、じぶんものうじょうにいつづき、こさくしゃの)

仕遂せなかった小作料の軽減を実行させ、自分も農場にいつづき、小作者の

(かんじょうをもやわらげてすこしはじぶんをいごこちよくしようとおもったのだ。かれはきしゃのなか)

感情をも柔らげて少しは自分を居心地よくしようと思ったのだ。彼れは汽車の中

(でじぶんのいいぶんをじゅうぶんにかんがえようとした。しかしれっしゃのなかのたくさんのひとのかおはもう)

で自分のいい分を十分に考えようとした。しかし列車の中の沢山の人の顔はもう

(かれのこころをふあんにした。かれはてきいをふくんだめでひとりひとりねめつけた。)

彼れの心を不安にした。彼れは敵意をふくんだ眼で一人一人睨めつけた。

(はこだてのていしゃじょうにつくとかれはもうそのたてもののこうだいもないのにきもをつぶして)

函館の停車場に着くと彼はもうその建物の宏大もないのに胆をつぶして

(しまった。ぶかっこうなにかいだてのいたやにすぎないのだけれども、そのいっぽんのはしらにも)

しまった。不恰好な二階建ての板家に過ぎないのだけれども、その一本の柱にも

(かれはおどろくべきひようをそうぞうした。かれはまたゆきのかきのけてあるひろいおうらいをみて)

彼れは驚くべき費用を想像した。彼れはまた雪のかきのけてある広い往来を見て

(おどろいた。しかしかれのほこりはそんなことにまけてはいまいとした。ややともすると)

驚いた。しかし彼れの誇りはそんな事に敗けてはいまいとした。動ともすると

(おびえてむねのなかですくみそうになるこころをはげましはげましかれはきょじんのように)

おびえて胸の中ですくみそうになる心を励まし励まし彼れは巨人のように

(いたけだかにのそりのそりとみちをあるいた。ひとびとはふりかえってしぜんからいまきりとった)

威丈高にのそりのそりと道を歩いた。人々は振返って自然から今切り取った

(ばかりのようなこのおとこをみおくった。)

ばかりのようなこの男を見送った。

(やがてかれはまつかわのやしきにはいっていった。のうじょうのじむしょからそうぞうしていたの)

やがて彼れは松川の屋敷に這入って行った。農場の事務所から想像していたの

(とははなしにならないほどちがったこうだいなていたくだった。しきだいをあがるときに、かれは)

とは話にならないほどちがった宏大な邸宅だった。敷台を上る時に、彼れは

(つまごをぬいでから、われにもなくてぬぐいをこしからぬいてあしのうらをきれいに)

つまごを脱いでから、我れにもなく手拭を腰から抜いて足の裏を綺麗に

(おしぬぐった。すんだみずのひょうめんのほかに、しぜんにはけっしてないなめらかにひかったいたのまの)

押拭った。澄んだ水の表面の外に、自然には決してない滑らかに光った板の間の

(うえを、かれはきみのわるいつめたさをかんじながら、おくにあんないされていった。)

上を、彼れは気味の悪い冷たさを感じながら、奥に案内されて行った。

(うつくしくきかざったじょちゅうがしゅじんのへやのふすまをあけると、いきのつまるようなきょうれつな)

美しく着飾った女中が主人の部屋の襖をあけると、息気のつまるような強烈な

(ふかいなにおいがかれのはなをつよくおそった。そしてへやのなかはなつのようにあつかった。)

不快な匂が彼れの鼻を強く襲った。そして部屋の中は夏のように暑かった。

(いたよりもかたいたたみのうえにはところどころにけもののかわがしきつめられていて、しょうじにちかいおおきな)

板よりも固い畳の上には所々に獣の皮が敷きつめられていて、障子に近い大きな

(しろくまのけがわのうえのもりあがるようなざぶとんのうえに、はったんのどてらをきこんだばぬし)

白熊の毛皮の上の盛上るような座蒲団の上に、はったんの褞袍を着こんだ場主

(が、おおひばちにてをかざしてあぐらをかいていた。にんえもんのすがたをみるとぎろっと)

が、大火鉢に手をかざして安座をかいていた。仁右衛門の姿を見るとぎろっと

(にらみつけためをそのままゆかのほうにふりむけた。にんえもんはばぬしのひとめで)

睨みつけた眼をそのまま床の方に振り向けた。仁右衛門は場主の一眼で

(どやしつけられてはいることもえせずにしりごみしていると、ばぬしのめがまたとこのま)

どやし付けられて這入る事も得せずに逡みしていると、場主の眼がまた床の間

(からこっちにかえってきそうになった。にんえもんはにどにらみつけられるのをおそれる)

からこっちに帰って来そうになった。仁右衛門は二度睨みつけられるのを恐れる

(あまりに、ぶきようなあしどりでたたみのうえににちゃっにちゃっとおとをさせながらばぬしの)

あまりに、無器用な足どりで畳の上ににちゃっにちゃっと音をさせながら場主の

(はなさきまでのそのそあるいていって、できるだけちいさくきゅうくつそうにすわりこんだ。)

鼻先きまでのそのそ歩いて行って、出来るだけ小さく窮屈そうに坐りこんだ。

(「なにしにきた」)

「何しに来た」

(そこぢからのあるこえにもういちどどやしつけられて、にんえもんはおもわずかおをあげた。)

底力のある声にもう一度どやし付けられて、仁右衛門は思わず顔を挙げた。

(ばぬしはまっくろなおおきなまきたばこのようなものをくちにくわえてあおいけむりをほがらかにふいて)

場主は真黒な大きな巻煙草のようなものを口に銜えて青い煙をほがらかに吹いて

(いた。そこからはいきづまるようなふかいなにおいがかれのはなのおくをつんつん)

いた。そこからは気息づまるような不快な匂が彼れの鼻の奥をつんつん

(しげきした。)

刺戟した。

(「こさくりょうのいちもんもおさめないで、どのつらさげてきくさった。らいねんからはたましいを)

「小作料の一文も納めないで、どの面下げて来臭った。来年からは魂を

(いれかえろ。そしてじぎのひとつもすることをおぼえてからでなおすならでなおして)

入れかえろ。そして辞儀の一つもする事を覚えてから出直すなら出直して

(こい。ばか」)

来い。馬鹿」

(そしてへやをゆするようなたかわらいがきこえた。にんえもんがじぶんでもわからないことを)

そして部屋をゆするような高笑が聞こえた。仁右衛門が自分でも分らない事を

(ねごとのようにいうのを、はじめのあいだはききなおしたり、おぎなったりしていたが、)

寝言のようにいうのを、始めの間は聞き直したり、補ったりしていたが、

(やがてばぬしはかんにんぶくろをきらしたというふうにこうどなったのだ。にんえもんは)

やがて場主は堪忍袋を切らしたという風にこう怒鳴ったのだ。仁右衛門は

(たかわらいのひとくぎりごとに、たたかれるようにあたまをすくめていたが、じぎもせず)

高笑いの一とくぎりごとに、たたかれるように頭をすくめていたが、辞儀もせず

(にむちゅうでたちあがった。かれのかおはへやのあつさのためと、のぼせあがったために)

に夢中で立上った。彼れの顔は部屋の暑さのためと、のぼせ上ったために

(ゆげをださんばかりあかくなっていた。)

湯気を出さんばかり赤くなっていた。

(にんえもんはすっかりうちくだかれてじぶんのちいさなこやにかえった。かれにはのうじょうのそらの)

仁右衛門はすっかり打摧かれて自分の小さな小屋に帰った。彼れには農場の空の

(うえまでもじぬしのがんじょうそうなおおきなてがひろがっているようにおもえた。ゆきをふくんだくも)

上までも地主の頑丈そうな大きな手が広がっているように思えた。雪を含んだ雲

(はいきぐるしいまでにかれのあたまをおさえつけた。「ばか」そのこえはややともすると)

は気息苦しいまでに彼れの頭を押えつけた。「馬鹿」その声は動ともすると

(かれのみみのなかでどなられた。なんというくらしのちがいだ。なんというにんげんのちがい)

彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違い

(だ。おやかたがにんげんならおれはにんげんじゃない。おれがにんげんならおやかたはにんげんじゃない。)

だ。親方が人間なら俺れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。

(かれはそうおもった。そしてただあきれてだまってかんがえこんでしまった。)

彼れはそう思った。そして唯呆れて黙って考えこんでしまった。

(そだがぶしぶしといぶるそのむこうざには、つまがぼろにつつまれて、かみをぼうぼうと)

粗朶がぶしぶしと燻ぶるその向座には、妻が襤褸につつまれて、髪をぼうぼうと

(みだしたまま、おろかなめとくちとをふしあなのようにあけはなしてぼんやりすわっていた。)

乱したまま、愚かな眼と口とを節孔のように開け放してぼんやり坐っていた。

(しんしんとゆきはとめどなくふりだしてきた。つまのひざのうえにはあかんぼうもいなかった。)

しんしんと雪はとめ度なく降り出して来た。妻の膝の上には赤坊もいなかった。

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