カインの末裔 9/11

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有島武郎

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問題文

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(ーーそのときとつぜんさじきのしたであそんでいたまつかわじょうしゅのこどもがよたよたとらちのなかへ)

ーーその時突然桟敷の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと埒の中へ

(はいった。それをみたかさいのむすめはわれをわすれてかけこんだ。「あぶねえ」ーー)

這入った。それを見た笠井の娘は我れを忘れて駈け込んだ。「危ねえ」ーー

(かんしゅうはいちどにかたずをのんだ。そのときせんとうにいたうまはむすめのはでなきものにおどろいた)

観衆は一度に固唾を飲んだ。その時先頭にいた馬は娘の華手な着物に驚いた

(のか、さっときれてにんえもんのうまのまえにでた。とおもうひまもなくにんえもんはくうちゅうに)

のか、さっときれて仁右衛門の馬の前に出た。と思う暇もなく仁右衛門は空中に

(とびあがって、やがてたたきつけられるようにじめんにころがっていた。かれはきじょうにも)

飛び上って、やがて敲きつけられるように地面に転がっていた。彼れは気丈にも

(ころがりながらすっくとおきあがった。すぐかれのうまのところにとんでいった。うまはまだ)

転がりながらすっくと起き上った。直ぐ彼れの馬の所に飛んで行った。馬はまだ

(おきていなかった。あとあしではんどうをとっておきそうにしては、まえあしをおってたおれて)

起きていなかった。後趾で反動を取って起きそうにしては、前脚を折って倒れて

(しまった。くんれんのないけんぶつにんはうしおのようににんえもんとうまとのまわりにおしよせた。)

しまった。訓練のない見物人は潮のように仁右衛門と馬とのまわりに押寄せた。

(にんえもんのうまはまえあしをにそくともおってしまっていた。にんえもんはぼんやりしたまま、)

仁右衛門の馬は前脚を二足とも折ってしまっていた。仁右衛門は惘然したまま、

(ふしぎそうなかおをしておしよせたひとなみをみまもってたってるほかはなかった。)

不思議相な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる外はなかった。

(じゅういのこころえもあるていてつやのかおをぐんしゅうのなかにみだしてようやくしょうきにかえった)

獣医の心得もある蹄鉄屋の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った

(にんえもんは、うまのしまつをたのんですごすごとけいばじょうをでた。かれはじぶんでなにが)

仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が

(なんだかちっともわからなかった。かれはむゆうびょうしゃのようにひとのあいだをおしわけてあるいて)

何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて

(いった。じむしょのかどまでくるとなんということなしにいきなりみちのこいしをふたつみっつ)

行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり路の小石を二つ三つ

(つかんでいりぐちのがらすどにたたきつけた。さんまいほどのがらすはみじんにくだけてとび)

掴んで入口の硝子戸にたたきつけた。三枚ほどの硝子は微塵にくだけて飛び

(ちった。かれはそのおとをきいた。それはしかしみみをおさえてきくようにとおくのほうで)

散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で

(きこえた。かれはゆうゆうとしてまたそこをあゆみさった。)

聞こえた。彼れは悠々としてまたそこを歩み去った。

(かれがきがついたときには、どっちをどうあるいたのか、こんぶだけのしたをながれる)

彼れが気がついた時には、何方をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れる

(しりべしがわのかしのまるいしにこしかけてぼんやりかわづらをながめていた。かれのめのまえを)

シリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり河面を眺めていた。彼れの眼の前を

(とうめいなみずがあとからあとからおなじようなかもんをえがいてはけしえがいてはけしてながれて)

透明な水が跡から跡から同じような渦紋を描いては消し描いては消して流れて

など

(いた。かれはじっとそのたわむれをみつめながら、とおいかこのきおくでもおうように)

いた。彼れはじっとその戯れを見詰めながら、遠い過去の記憶でも追うように

(きょうのできごとをあたまのなかでおもいうかべていた。すべてのことがたにんごとのようにじゅんじょよく)

今日の出来事を頭の中で思い浮べていた。凡ての事が他人事のように順序よく

(てにとるようにきおくによみがえった。しかしじぶんがほうりだされるところまでくるときおくの)

手に取るように記憶に甦った。しかし自分が放り出される所まで来ると記憶の

(いとはぷっつりきれてしまった。かれはそこのところをいくどもむかんしんにくりかえした。)

糸はぷっつり切れてしまった。彼れはそこの所を幾度も無関心に繰返した。

(かさいのむすめーーかさいのむすめーーかさいのむすめがどうしたんだーーかれはじもんじとうした。)

笠井の娘ーー笠井の娘ーー笠井の娘がどうしたんだーー彼れは自問自答した。

(だんだんめがかすんできた。かさいのむすめ・・・・・・かさい・・・・・・かさいだなうまをかたわにしたのは。)

段々眼がかすんで来た。笠井の娘……笠井……笠井だな馬を片輪にしたのは。

(そうかんがえてもかさいはかれにまったくかんけいのないにんげんのようだった。そのなはかれの)

そう考えても笠井は彼れに全く関係のない人間のようだった。その名は彼れの

(かんじょうをすこしもうごかすちからにはならなかった。かれはそうしたままでふかいねむりに)

感情を少しも動かす力にはならなかった。彼れはそうしたままで深い眠りに

(おちてしまった。)

落ちてしまった。

(かれはよなかになってからひょっくりこやにかえってきた。いりぐちからぷんとせきたんさんの)

彼れは夜中になってからひょっくり小屋に帰って来た。入口からぷんと石炭酸の

(においがした。それをかぐとかれははじめてしょうきにかえってあらためてじぶんのこやを)

香がした。それを嗅ぐと彼れは始めて正気に返って改めて自分の小屋を

(ものめずらしげにながめた。そうなるとかれはゆめからさめるようにつまらないげんじつに)

物珍らしげに眺めた。そうなると彼れは夢からさめるようにつまらない現実に

(かえった。にぶったいしきのはんどうとしてこまかいことにもするどくしんけいがはたらきだした。せきたんさんの)

帰った。鈍った意識の反動として細かい事にも鋭く神経が働き出した。石炭酸の

(においはなによりもまずしんだあかんぼうをかれにおもいださした。もしつまにけがでもあったの)

香は何よりも先ず死んだ赤坊を彼れに思い出さした。もし妻に怪我でもあったの

(ではなかったかーーかれはろのきえてまっくらなこやのなかをてさぐりでつまをたずねた。)

ではなかったかーー彼れは炉の消えて真闇な小屋の中を手さぐりで妻を尋ねた。

(めをさましておきかえったつまのけはいがした。)

眼をさまして起きかえった妻の気配がした。

(「いまごろまでどこさいただ。うまはむらのしゅうがつれてかえったに。いたわしいことべ)

「今頃まで何所さいただ。馬は村の衆が連れて帰ったに。傷しい事べ

(おっびろげてはあ」)

おっびろげてはあ」

(つまはねむっていなかったようなはっきりしたこえでこういった。かれはやみに)

妻は眠っていなかったようなはっきりした声でこういった。彼れは闇に

(なれてきためでこやのかたすみをすかしてみた。うまはまえあしにおもみがかからないよう)

慣れて来た眼で小屋の片隅をすかして見た。馬は前脚に重味がかからないよう

(に、はらにむしろをあてがってむねのところをはりからつるしてあった。りょうほうのひざがしらはしろいきれ)

に、腹に蓆をあてがって胸の所を梁からつるしてあった。両方の膝頭は白い切れ

(でまいてあった。そのしろいいろがすべてくろいなかにはっきりとにんえもんのめにうつった。)

で巻いてあった。その白い色が凡て黒い中にはっきりと仁右衛門の眼に映った。

(せきたんさんのにおいはそこからただよってくるのだった。かれはひのけのないいろりのまえに、)

石炭酸の香はそこから漂って来るのだった。彼れは火の気のない囲炉裡の前に、

(わらじばきであたまをたれたままあぐらをかいた。うまもこそっともおとをさせずにだまって)

草鞋ばきで頭を垂れたまま安座をかいた。馬もこそっとも音をさせずに黙って

(いた。かのなくこえだけがくうきのささやきのようにかすかにきこえていた。)

いた。蚊のなく声だけが空気のささやきのようにかすかに聞こえていた。

(にんえもんはひざがしらでうでをくみあわせて、ねようとはしなかった。うまとかれは)

仁右衛門は膝頭で腕を組み合せて、寝ようとはしなかった。馬と彼れは

(たがいにあわれむようにみえた。)

互に憐れむように見えた。

(しかしよくじつになるとかれはまたこのだげきからはねかえっていた。かれはまえのとおりな)

しかし翌日になると彼れはまたこの打撃から跳ね返っていた。彼れは前の通りな

(きょうぼうなかれになっていた。かれはぷらおをうってかねにかえた。ざっこくやからは、)

狂暴な彼れになっていた。彼れはプラオを売って金に代えた。雑穀屋からは、

(からすむぎがうれたときじむしょからちょくせつにだいかをしはらうようにするからといって、むぎや)

燕麦が売れた時事務所から直接に代価を支払うようにするからといって、麦や

(だいずのまえがりをした。そしてばりきをたのんでそれをじぶんのこやにはこばしておいて、)

大豆の前借りをした。そして馬力を頼んでそれを自分の小屋に運ばして置いて、

(とばにでかけた。)

賭場に出かけた。

(けいばのひのばんにむらではいちだいじがおこった。そのばんおそくまでかさいのむすめはまつかわのところに)

競馬の日の晩に村では一大事が起った。その晩おそくまで笠井の娘は松川の所に

(かえってこなかった。こんなばんにわかいだんじょがはたけのおくやもりのなかにすがたをかくすのは)

帰って来なかった。こんな晩に若い男女が畑の奥や森の中に姿を隠すのは

(めずらしいことでもないのではじめのうちはうちすてておいたが、あまりおそくなるので、)

珍らしい事でもないので初めの中は打捨てておいたが、余りおそくなるので、

(かさいのこやをたずねさすとそこにもいなかった。かさいはおどろいてとんできた。)

笠井の小屋を尋ねさすとそこにもいなかった。笠井は驚いて飛んで来た。

(しかしひろいさんやをどうさがしようもなかった。よるのあけあけにだいそうさくが)

しかし広い山野をどう探しようもなかった。夜のあけあけに大捜索が

(おこなわれた。むすめはかわぞえのくぼちのはやしのなかにしっしんしてたおれていた。しょうきづいてから)

行われた。娘は河添の窪地の林の中に失神して倒れていた。正気づいてから

(ききただすと、おおきなおとこがむりやりにむすめをそこにつれていってざんぎゃくをきわめた)

聞きただすと、大きな男が無理やりに娘をそこに連れて行って残虐を極めた

(はずかしめかたをしたのだとわかった。かさいはひろおかのなをいってしたりがおにこくびを)

辱かしめかたをしたのだと判った。笠井は広岡の名をいってしたり顔に小首を

(かたむけた。じむしょのがらすをひろおかがこわすのをみたというものがでてきた。)

傾けた。事務所の硝子を広岡がこわすのを見たという者が出て来た。

(はんにんのそうさくはきわめてひみつに、どうじにこんないなかにしてはげんじゅうにおこなわれた。)

犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな田舎にしては厳重に行われた。

(ばぬしのまつかわはすくなからざるけんしょうまでした。しかしてがかりはかいもくつかなかった。)

場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは皆目つかなかった。

(うたがいはみょうにひろおかのほうにかかっていった。あかんぼうをころしたのはかさいだとひろおかのしじゅう)

疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終

(いうのはだれでもしっていた。ひろおかのうまをつまずかしたのはかんせつながらかさいのむすめのしわざ)

いうのは誰でも知っていた。広岡の馬を躓かしたのは間接ながら笠井の娘の仕業

(だった。ていてつやがうまをひろおかのところにつれていったのはよるのじゅうじごろだったがひろおかは)

だった。蹄鉄屋が馬を広岡の所に連れて行ったのは夜の十時頃だったが広岡は

(こやにいなかった。そのばんひろおかをむらでみかけたものはひとりもなかった。とばに)

小屋にいなかった。その晩広岡を村で見かけたものは一人もなかった。賭場に

(さえいなかった。にんえもんにふりえきないろいろなじじょうはいろいろにかぞえあげられたが、)

さえいなかった。仁右衛門に不利益な色々な事情は色々に数え上げられたが、

(ぐたいてきなしょうこはすこしもあがらないでなつがくれた。)

具体的な証拠は少しも上らないで夏がくれた。

(あきのしゅうかくじになるとまたあめがきた。かんそうができないために、せっかくみのったものまで)

秋の収穫時になるとまた雨が来た。乾燥が出来ないために、折角実ったものまで

(くさるしまつだった。こさくはわやわやとじむしょにつどってこさくりょうわりびきのたんがんをしたが)

腐る始末だった。小作はわやわやと事務所に集って小作料割引の歎願をしたが

(むえきだった。かれらはあんのじょうからすむぎうりあげだいきんのなかからげんみつにこさくりょうをこうじょ)

無益だった。彼らは案の定燕麦売揚代金の中から厳密に小作料を控除

(された。らいしゅんのたねはおろか、ふゆのあいだをささえるしょくりょうもまんぞくにえられないのうふが)

された。来春の種子は愚か、冬の間を支える食料も満足に得られない農夫が

(たくさんできた。)

沢山出来た。

(そのあいだにあってにんえもんだけはからすむぎのことでじむしょにはやくしたばかりでなく、)

その間にあって仁右衛門だけは燕麦の事で事務所に破約したばかりでなく、

(いちもんのこさくりょうもおさめなかった。きれいにおさめなかった。はじめのあいだちょうばはなだめつ)

一文の小作料も納めなかった。綺麗に納めなかった。始めの間帳場はなだめつ

(すかしつしていくらかでもおさめさせようとしたが、どうしてもおうじないので、)

すかしつして幾らかでも納めさせようとしたが、如何しても応じないので、

(ざいさんをさしおさえるとおどかした。にんえもんはへいきだった。おさえようといってなにを)

財産を差押えると威脅した。仁右衛門は平気だった。押えようといって何を

(おさえようぞ、こやのだいきんもまだじむしょにおさめてはなかった。かれはそれを)

押えようぞ、小屋の代金もまだ事務所に納めてはなかった。彼れはそれを

(しりぬいていた。じむしょからはさいごのしゅだんとしてたしょうのそんはしてもたいじょうさすと)

知りぬいていた。事務所からは最後の手段として多少の損はしても退場さすと

(せまってきた。しかしかれはがんとしてうごかなかった。ぺてんにかけられたざっこくやを)

迫って来た。しかし彼れは頑として動かなかった。ペテンにかけられた雑穀屋を

(はじめしょしょうにんはかしきんのがんきんはおろかりしさえださせることができなかった。)

はじめ諸商人は貸金の元金は愚か利子さえ出させる事が出来なかった。

(なな)

(七)

(「まだか」、このなはむらじゅうにきょうふをまいた。かれのかおをだすところにはひとびとはすがたを)

「まだか」、この名は村中に恐怖を播いた。彼れの顔を出す所には人々は姿を

(かくした。かわもりさえとうのむかしににんえもんのほしょうをとりけして、にんえもんにたいじょうをせまるひと)

隠した。川森さえ疾の昔に仁右衛門の保証を取消して、仁右衛門に退場を迫る人

(となっていた。しがいちでものうじょうないでもかれにゆうずうをしようというものはひとりも)

となっていた。市街地でも農場内でも彼れに融通をしようというものは一人も

(なくなった。さとうのふうふはいくどもじむしょにいってはやくひろおかをたいじょうさせて)

なくなった。佐藤の夫婦は幾度も事務所に行って早く広岡を退場させて

(くれなければじぶんたちがたいじょうするともうしでた。ちゅうざいじゅんさすらひろおかのじけんにかんけいする)

くれなければ自分たちが退場すると申出た。駐在巡査すら広岡の事件に関係する

(ことをていよくさけた。かさいのむすめをおかしたものはーーなんらのしょうこがないにも)

事を体よく避けた。笠井の娘を犯したものはーー何らの証拠がないにも

(かかわらずーーにんえもんにそういないときまってしまった。すべてむらのなかでおこった)

かかわらずーー仁右衛門に相違ないときまってしまった。凡て村の中で起った

(いかがわしいできごとはひとつのこらずにんえもんになすりつけられた。)

いかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。

(にんえもんはおしぶとくはらをすえた。かれはじぶんのゆめをまだとりけそうとは)

仁右衛門は押太とく腹を据えた。彼れは自分の夢をまだ取消そうとは

(しなかった。かれのこうかいしているものはばくちだけだった。らいねんからそれにさえ)

しなかった。彼れの後悔しているものは博奕だけだった。来年からそれにさえ

(てをださなければ、そしてことしどうようにはたらいてことしどうようのしゅだんをとりさえすれば、)

手を出さなければ、そして今年同様に働いて今年同様の手段を取りさえすれば、

(さん、よねんのあいだにひとかどまとまったかねをつくるのはなんでもないとおもった。いまに)

三、四年の間に一かど纏まった金を作るのは何でもないと思った。いまに

(みかえしてくれるからーーそうおもってかれはふゆをむかえた。)

見かえしてくれるからーーそう思って彼れは冬を迎えた。

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