カインの末裔 8/11
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問題文
(にんえもんはありがたいとおもっていた。)
仁右衛門は有難いと思っていた。
(「わしもこはなくしたおぼえがあるで、おぬしのこころもちはようわかる。このこをたすけ)
「わしも子は亡くした覚えがあるで、お主の心持ちはようわかる。この子を助け
(ようとおもったらなんせいっしんにてんりおうさまにたのまっしゃれ。な。がてんか。にんげんわざでは)
ようと思ったら何せ一心に天理王様に頼まっしゃれ。な。合点か。人間業では
(およばぬことじゃでな」)
及ばぬ事じゃでな」
(かさいはそういってしたりがおをした。にんえもんのつまはなきながらてをあわせた。)
笠井はそういってしたり顔をした。仁右衛門の妻は泣きながら手を合せた。
(あかんぼうはつづけさまにちをくだした。そしてこやのなかがまっくらになったひのくれぐれに、)
赤坊は続けさまに血を下した。そして小屋の中が真暗になった日のくれぐれに、
(なにものにかたすけをもとめるおとなのようなひょうじょうをめにあらわして、あてどもなくそこらを)
何物にか助けを求める成人のような表情を眼に現わして、あてどもなくそこらを
(みまわしていたが、しだいしだいにいきがたえてしまった。)
見廻していたが、次第次第に息が絶えてしまった。
(あかんぼうがしんでからそんいはじゅんさにつれられてようやくやってきた。こうでんがわりのかみづつみを)
赤坊が死んでから村医は巡査に伴れられて漸くやって来た。香奠代りの紙包を
(もってちょうばもきた。ちょうちんというみなれないものがこやのなかをでたりはいったり)
持って帳場も来た。提灯という見慣れないものが小屋の中を出たり這入ったり
(した。にんえもんふうふのかぎつけないせきたんさんのにおいはふたりをこやからおいだして)
した。仁右衛門夫婦の嗅ぎつけない石炭酸の香は二人を小屋から追出して
(しまった。ふたりはかわもりにつきそわれてにしにまわったつきのひかりのしたにしょんぼりたった。)
しまった。二人は川森に付添われて西に廻った月の光の下にしょんぼり立った。
(せわにきたひとたちはひとりさりふたりさり、やがてかわもりもかさいもさってしまった。)
世話に来た人たちは一人去り二人去り、やがて川森も笠井も去ってしまった。
(みずをうったようなよるのすずしさとしずかさとのなかにかすかなむしのねがしていた。)
水を打ったような夜の涼しさと静かさとの中にかすかな虫の音がしていた。
(にんえもんはなんということなしにつまがしゃくにさわってたまらなかった。つまはまたなんと)
仁右衛門は何という事なしに妻が癪にさわってたまらなかった。妻はまた何と
(いうことなしにおっとがにくまれてならなかった。つまはばりきのそばにうずくまり、)
いう事なしに良人が憎まれてならなかった。妻は馬力の傍にうずくまり、
(にんえもんはあてもなくつばをはきちらしながらこやのまえをいったりかえったりした。)
仁右衛門はあてもなく唾を吐き散らしながら小屋の前を行ったり帰ったりした。
(よそののうかでこのきょうじがあったらすくなくともとなりきんじょからに、さんにんのものがより)
よその農家でこの凶事があったら少くとも隣近所から二、三人の者が寄り
(あって、かってだしたさけでものみちらしながら、なにかとはなしでもしてよるをふかすの)
合って、買って出した酒でも飲みちらしながら、何かと話でもして夜を更かすの
(だろう。にんえもんのところではかわもりさえいのこっていないのだ。つまはそれをこころから)
だろう。仁右衛門の所では川森さえ居残っていないのだ。妻はそれを心から
(さびしくおもってしくしくとないていた。もののさんじかんもふたりはそうしたままで)
淋しく思ってしくしくと泣いていた。物の三時間も二人はそうしたままで
(なにもせずにぼんやりこやのまえでつきのひかりにあわれなすがたをさらしていた。)
何もせずにぼんやり小屋の前で月の光にあわれな姿をさらしていた。
(やがてにんえもんはなにをおもいだしたのかのそのそとこやのなかにはいっていった。)
やがて仁右衛門は何を思い出したのかのそのそと小屋の中に這入って行った。
(つまはめにかどをたててくびだけうしろにまわしてほらあなのようなこやのいりぐちをみかえった。)
妻は眼に角を立てて首だけ後ろに廻わして洞穴のような小屋の入口を見返った。
(しばらくするとにんえもんはあかんぼうをしょって、いっちょうのくわをみぎてにさげてこやから)
暫らくすると仁右衛門は赤坊を背負って、一丁の鍬を右手に提げて小屋から
(でてきた。)
出て来た。
(「ついてこう」)
「ついて来う」
(そういってかれはすたすたとこくどうのほうにでていった。かんたんななきごえでどうぶつとどうぶつと)
そういって彼れはすたすたと国道の方に出て行った。簡単な啼声で動物と動物と
(がたがいをりかいしあうように、つまはにんえもんのしようとすることがのみこめたらしく、)
が互を理解し合うように、妻は仁右衛門のしようとする事が呑み込めたらしく、
(のっそりとたちあがってそのあとにしたがった。そしてめそめそとなきつづけていた。)
のっそりと立上ってその跡に随った。そしてめそめそと泣き続けていた。
(ふうふがいきついたのはこくどうをじゅっちょうもくっちゃんのほうにきたひだりてのおかのうえにあるむらの)
夫婦が行き着いたのは国道を十町も倶知安の方に来た左手の岡の上にある村の
(きょうどうぼちだった。そこのうえからはまつかわのうじょうをいちめんにみわたして、るべしべ、)
共同墓地だった。そこの上からは松川農場を一面に見渡して、ルベシベ、
(にせこあんのれんざんもかわむかいのこんぶだけもてにとるようだった。なつのよるのとうめいなくうき)
ニセコアンの連山も川向いの昆布岳も手に取るようだった。夏の夜の透明な空気
(はあおみわたって、つきのひかりがりんのようにすべてのひかるもののうえにやどっていた。)
は青み亘って、月の光が燐のように凡ての光るものの上に宿っていた。
(かのぐんがわんわんうなってふたりにおそいかかった。)
蚊の群がわんわんうなって二人に襲いかかった。
(にんえもんはしたいをせおったまま、ちいさなぼひょうやせきとうのたちつらなったあいだのあきちにあなを)
仁右衛門は死体を背負ったまま、小さな墓標や石塔の立列った間の空地に穴を
(ほりだした。くわのつちにくいこむおとだけがけしきにすこしもちょうわしないにぶいおとを)
掘りだした。鍬の土に喰い込む音だけが景色に少しも調和しない鈍い音を
(たてた。つまはしゃがんだままでときどきほおにくるかをたたきころしながらないていた。)
立てた。妻はしゃがんだままで時々頬に来る蚊をたたき殺しながら泣いていた。
(さんしゃくほどのあなをほりおわるとにんえもんはくわのてをやすめてひたいのあせをてのこうで)
三尺ほどの穴を掘り終ると仁右衛門は鍬の手を休めて額の汗を手の甲で
(おしぬぐった。なつのよるはしずかだった。そのときとつぜんおそろしいかんがえがかれのとむねをついて)
押拭った。夏の夜は静かだった。その時突然恐ろしい考が彼れの吐胸を突いて
(うかんだ。かれはそのかんがえにじぶんながらおどろいたようにあきれてめをみはっていたが、)
浮んだ。彼れはその考に自分ながら驚いたように呆れて眼を見張っていたが、
(やがておおごえをたててがんどうのごとくなきおめきはじめた。そのこえはみにくくものすごかった。)
やがて大声を立てて頑童の如く泣きおめき始めた。その声は醜く物凄かった。
(つまはきょっとんとして、かおじゅうをなみだにしながらおそろしげにおっとをみまもった。)
妻はきょっとんとして、顔中を涙にしながら恐ろしげに良人を見守った。
(「かさいのしこくざるめが、にがこところしただ。ころしただあ」)
「笠井の四国猿めが、嬰子事殺しただ。殺しただあ」
(かれはみにくいなきごえのなかからそうさけんだ。)
彼れは醜い泣声の中からそう叫んだ。
(よくじつかれはまたあまのたばをばりきにつもうとした。そこにははでなもすりんの)
翌日彼れはまた亜麻の束を馬力に積もうとした。そこには華手なモスリンの
(はぎれがらんうんのなかにあらわれたにじのようにしっとりあさつゆにしめったままきたないばりき)
端切れが乱雲の中に現われた虹のようにしっとり朝露にしめったまま穢ない馬力
(のうえにしまいわすられていた。)
の上にしまい忘られていた。
(ろく)
(六)
(きょうぼうなにんえもんはあかんぼうをなくしてからてがつけられないほどきょうぼうになった。)
狂暴な仁右衛門は赤坊を亡くしてから手がつけられないほど狂暴になった。
(そのきょうぼうをつのらせるようにはげしいせいかがきた。はるさきのながあめをつぐなうようにあめは)
その狂暴を募らせるように烈しい盛夏が来た。春先きの長雨を償うように雨は
(いってきもふらなかった。あきにしゅうかくすべきさくもつはうらばがかたっぱしからきいろにかわった。)
一滴も降らなかった。秋に収穫すべき作物は裏葉が片っぱしから黄色に変った。
(しぜんにていこうしきれないしつぼうのこえが、だまりこくったのうふのすがたからさけばれた。)
自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。
(いっこくのひまもないのうはんのまっさいちゅうにうまいちがしがいちにたった。ふだんならばひとびとはみむき)
一刻の暇もない農繁の真最中に馬市が市街地に立った。普段ならば人々は見向き
(もしないのだが、はたさくをなげてしまったのうふらは、すてばちなきぶんになって、うまの)
もしないのだが、畑作をなげてしまった農夫らは、捨鉢な気分になって、馬の
(ばいばいにでもたしょうのもうけをみようとしたから、まえげいきはおもいのほかつよかった。とうじつには)
売買にでも多少の儲を見ようとしたから、前景気は思いの外強かった。当日には
(きんそんからさえけんぶつがきたほどにぎわった。ちょうどのうじょうじむしょうらのあきちにかりごやが)
近村からさえ見物が来たほど賑わった。丁度農場事務所裏の空地に仮小屋が
(たてられて、つめまでみがきあげられたこうまがさんじゅっとうちかくあつまった。そのなかで)
建てられて、爪まで磨き上げられた耕馬が三十頭近く集まった。その中で
(にんえもんのだしたうまはことにひとのめをひいた。)
仁右衛門の出した馬は殊に人の眼を牽いた。
(そのよくじつにはけいばがあった。ばぬしまでわざわざはこだてからやってきた。やたいみせや)
その翌日には競馬があった。場主までわざわざ函館からやって来た。屋台店や
(みせものごやがかかって、さいれいにつうゆうなにおいのむしむしするあいだをきかざったむすめたちが、)
見世物小屋がかかって、祭礼に通有な香のむしむしする間を着飾った娘たちが、
(しげきのつよいいろをふりまいてあるいた。)
刺戟の強い色を振播いて歩いた。
(けいばじょうのらちのしゅういはひとがきでうまった。さん、よんけんののうじょうのしゅじんたちはけっしょうてんの)
競馬場の埒の周囲は人垣で埋った。三、四軒の農場の主人たちは決勝点の
(ところにいちだんたかくさじきをしつらえてそこからけんぶつした。まつかわじょうしゅのそばにはこどもに)
所に一段高く桟敷をしつらえてそこから見物した。松川場主の側には子供に
(つきそってかさいのむすめがすわっていた。そのむすめはに、さんねんまえからはこだてにでてまつかわのいえに)
付添って笠井の娘が坐っていた。その娘は二、三年前から函館に出て松川の家に
(ほうこうしていたのだ。ちちににてほそおもてのかのじょははこだてのせいかつにみがきをかけられて、)
奉公していたのだ。父に似て細面の彼女は函館の生活に磨きをかけられて、
(このあたりではきわだってあかぬけがしていた。けいばにくわわるわかいものはそのみょうれいなむすめのまえ)
この辺では際立って垢抜けがしていた。競馬に加わる若い者はその妙齢な娘の前
(でてがらをみせようとあらそった。ひとのめかけにめぼしをつけてなにになるとひにくを)
で手柄を見せようと争った。他人の妾に目星をつけて何になると皮肉を
(いうものもあった。)
いうものもあった。
(なにしろけいばはひじょうなけいきだった。しょうぶがつくたびにあがるかっさいのこえはかわいたくうきを)
何しろ競馬は非常な景気だった。勝負がつく度に揚る喝采の声は乾いた空気を
(つたわって、ひとびとをいえのうちにじっとさしてはおかなかった。)
伝わって、人々を家の内にじっとさしては置かなかった。
(にんえもんはそのころばくちにふけっていた。はじめのうちはわざとまけてみせるばくとのしゅだん)
仁右衛門はその頃博奕に耽っていた。始めの中はわざと負けて見せる博徒の手段
(にうまうまとのせられて、いきおいこんだのがしっぱいのもとで、ふかいりするほどそんをしたが、)
に甘々と乗せられて、勢い込んだのが失敗の基で、深入りするほど損をしたが、
(そんをするほどふかいりしないではいられなかった。あまのしゅうりはとうのむかしにけしとん)
損をするほど深入りしないではいられなかった。亜麻の収利は疾の昔にけし飛ん
(でいた。それでもうまはこんりんざいうるきがなかった。あますところはからすむぎがあるだけだった)
でいた。それでも馬は金輪際売る気がなかった。剰す所は燕麦があるだけだった
(が、これはたねまきどきからじむしょとけいやくして、じむしょからいってにりくぐんりょうまつしょうにおさめる)
が、これは播種時から事務所と契約して、事務所から一手に陸軍糧秣廠に納める
(ことになっていた。そのほうがきょうそうしてしょうにんにうるのよりもわりがよかったのだ。)
事になっていた。その方が競争して商人に売るのよりも割がよかったのだ。
(しょうにんどもはこのぼいこっとをどうしてみすごしていよう。かれらはのうかのこべつほうもんを)
商人どもはこのボイコットを如何して見過していよう。彼らは農家の戸別訪問を
(してりょうまつしょうよりもこうかにひきうけるとかんゆうした。りょうまつしょうからかいいれだいきんが)
して糧秣廠よりも遙かに高価に引受けると勧誘した。糧秣廠から買入代金が
(くだってもそれはいちおうじむしょにまとまってくだるのだ。そのなかからこさくりょうだけを)
下ってもそれは一応事務所にまとまって下るのだ。その中から小作料だけを
(さしひいてこさくにんにわたすのだから、のうじょうとしてはこさくりょうをかいしゅうするうえにこれほど)
差引いて小作人に渡すのだから、農場としては小作料を回収する上にこれほど
(べんりなことはない。こさくりょうをはらうまいとけっしんしているにんえもんはばかなはなしだと)
便利な事はない。小作料を払うまいと決心している仁右衛門は馬鹿な話だと
(おもった。かれははらをきめた。そしてけいばのためにひとのちゅういがおろそかになった)
思った。彼れは腹をきめた。そして競馬のために人の注意がおろそかになった
(きかいをみすまして、しょうにんとけったくして、じむしょへまわすべきからすむぎをどんどんしょうにんに)
機会を見すまして、商人と結托して、事務所へ廻わすべき燕麦をどんどん商人に
(わたしてしまった。)
渡してしまった。
(にんえもんはこのとりひきをすましてからけいばじょうにやってきた。かれはじぶんのうまで)
仁右衛門はこの取引をすましてから競馬場にやって来た。彼れは自分の馬で
(きょうそうにくわわるはずになっていたからだ。かれははだかのりのめいじんだった。)
競走に加わるはずになっていたからだ。彼れは裸乗りの名人だった。
(じぶんのばんがくるとかれはくらもおかずにじぶんのうまにのってでていった。ひとびとは)
自分の番が来ると彼れは鞍も置かずに自分の馬に乗って出て行った。人々は
(そのうまをみるとけいいをはらうようにたがいにうなずきあってことしのせりではいちばんものだと)
その馬を見ると敬意を払うように互にうなずき合って今年の糶では一番物だと
(ほめあった。にんえもんはそういうささやきをきくといいきもちになって、いやでも)
賞め合った。仁右衛門はそういう私語を聞くといい気持ちになって、いやでも
(かってみせるぞとおもった。ろくとうのうまがすたーとにちかづいた。さっとはたがおりたとき)
勝って見せるぞと思った。六頭の馬がスタートに近づいた。さっと旗が降りた時
(にんえもんはわざとでおくれた。かれはほかのうまのあとからうちわへうちわへとよって、)
仁右衛門はわざと出おくれた。彼れは外の馬の跡から内埒へ内埒へとよって、
(すこしたづなをひきしめるようにしてかけさした。ほてったかれのかおからみみにかけて)
少し手綱を引きしめるようにして駈けさした。ほてった彼の顔から耳にかけて
(ほこりをふくんだかぜがいきのつまるほどふきかかるのをかれはこころよくおもった。やがて)
埃を含んだ風が息気のつまるほどふきかかるのを彼れは快く思った。やがて
(ばばをはちぶんめほどまわったころをはかってたづなをゆるめるとうまはおもいぞんぶんくびをのばして)
馬場を八分目ほど廻った頃を計って手綱をゆるめると馬は思い存分頸を延ばして
(ずんずんおくれたうまからぬきだした。かれがむちとあおりでうまをせめながら)
ずんずんおくれた馬から抜き出した。彼れが鞭とあおりで馬を責めながら
(さいしょからめぼしをつけていたせんとうのうまにおいせまったときにはけっしょうてんがちかかった。)
最初から目星をつけていた先頭の馬に追いせまった時には決勝点が近かった。
(かれはいらだってびしびしとむちをくれた。はじめはじぶんのうまのはながあいてのうまのしりと)
彼れはいらだってびしびしと鞭をくれた。始めは自分の馬の鼻が相手の馬の尻と
(すれすれになっていたが、やがていっぽいっぽにとうのきょりはちぢまった。きょうきのような)
すれすれになっていたが、やがて一歩一歩二頭の距離は縮まった。狂気のような
(かんこがむちゅうになったかれのみみにもあきらかにひびいてきた。もうひといきとかれはおもった。)
喚呼が夢中になった彼れの耳にも明かに響いて来た。もう一息と彼れは思った。