カインの末裔 1/11
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問題文
(いち)
(一)
(ながいかげをちにひいて、やせうまのたづなをとりながら、かれはだまりこくってあるいた。)
長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、彼れは黙りこくって歩いた。
(おおきなきたないふろしきづつみといっしょに、たこのようにあたまばかりおおきいあかんぼうをおぶったかれ)
大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚のように頭ばかり大きい赤坊をおぶった彼れ
(のつまは、すこしちんばをひきながらさん、よんけんもはなれてそのあとからとぼとぼとついて)
の妻は、少しちんばをひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて
(いった。)
行った。
(ほっかいどうのふゆはそらまでせまっていた。えぞふじといわれるまっかりぬぷりのふもとにつづく)
北海道の冬は空まで逼っていた。蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く
(いぶりのだいそうげんを、にほんかいからうちうらわんにふきぬけるにしかぜが、うちよせるうねりのよう)
胆振の大草原を、日本海から内浦湾に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤のよう
(にあとからあとからふきはらっていった。さむいかぜだ。みあげるとはちごうめまでゆきになった)
に跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になった
(まっかりぬぷりはすこしあたまをまえにこごめてかぜにはむかいながらだまったままつったって)
マッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立って
(いた。こんぶだけのしゃめんにちいさくつどったくものかたまりをめがけてひはしずみかかっていた。)
いた。昆布岳の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。
(そうげんのうえにはいっぽんのじゅもくもはえていなかった。こころぼそいほどまっすぐなひとすじみちを、かれ)
草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直な一筋道を、彼れ
(とかれのつまだけが、よろよろとあるくにほんのたちきのようにうごいていった。)
と彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。
(ふたりはことばをわすれたひとのようにいつまでもだまってあるいた。うまがいばりをするときだけ)
二人は言葉を忘れた人のようにいつまでも黙って歩いた。馬が溺りをする時だけ
(かれはふしょうぶしょうにたちどまった。つまはそのひまにようやくおいついてせなかのにをゆすり)
彼れは不性無性に立どまった。妻はその暇にようやく追いついて背の荷をゆすり
(あげながらためいきをついた。うまがいばりをすますとふたりはまただまってあるきだした。)
上げながら溜息をついた。馬が溺りをすますと二人はまた黙って歩き出した。
(「ここらおやじ(くまのこと)がでるずら」)
「ここらおやじ(熊の事)が出るずら」
(よんりにわたるこのそうげんのうえで、たったいちどつまはこれだけのことをいった。)
四里にわたるこの草原の上で、たった一度妻はこれだけの事をいった。
(なれたものにはじこくといい、ところがらといいくまのしゅうらいをおそれるりゆうがあった。)
慣れたものには時刻といい、所柄といい熊の襲来を恐れる理由があった。
(かれはいまいましそうにくさのなかにつばをはきすてた。)
彼れはいまいましそうに草の中に唾を吐き捨てた。
(そうげんのなかのみちがだんだんふとくなってこくどうにつづくところまできたころにはひはくれて)
草原の中の道がだんだん太くなって国道に続く所まで来た頃には日は暮れて
(しまっていた。もののりんかくがまるみをおびずに、かたいままでくろずんでいくこちんと)
しまっていた。物の輪郭が円味を帯びずに、堅いままで黒ずんで行くこちんと
(したさむいばんしゅうのよるがきた。)
した寒い晩秋の夜が来た。
(きものはうすかった。そしてふたりはうえきっていた。つまはきにしてときどきあかんぼうをみた。)
着物は薄かった。そして二人は餓え切っていた。妻は気にして時々赤坊を見た。
(いきているのかしんでいるのか、とにかくあかんぼうはいびきもたてないでくびを)
生きているのか死んでいるのか、とにかく赤坊はいびきも立てないで首を
(みぎのかたにがくりとたれたままだまっていた。)
右の肩にがくりと垂れたまま黙っていた。
(こくどうのうえにはさすがにひとかげがひとりふたりうごいていた。たいていはしがいちにでていっぱい)
国道の上にはさすがに人影が一人二人動いていた。大抵は市街地に出て一杯
(のんでいたのらしく、ゆきちがいにしたたかさけのにおいをおくってよこすものもあった。)
飲んでいたのらしく、行違いにしたたか酒の香を送ってよこすものもあった。
(かれはさけのにおいをかぐときゅうにえぐられるようなかわきとしょくよくとをおぼえて、すれちがった)
彼れは酒の香をかぐと急にえぐられるような渇きと食欲とを覚えて、すれ違った
(おとこをみおくったりしたが、いまいましさにはきすてようとするつばはもう)
男を見送ったりしたが、いまいましさに吐き捨てようとする唾はもう
(でてこなかった。のりのようにねばったものがくちびるのあわせめをとじつけていた。)
出て来なかった。糊のように粘ったものが唇の合せ目をとじ付けていた。
(ないちならばこうしんづかかいしじぞうでもあるはずのところに、まっくろになったいちじょうもありそうな)
内地ならば庚申塚か石地蔵でもあるはずの所に、真黒になった一丈もありそうな
(ひょうじぐいがななめになってたっていた。そこまでくるとひざかなをやくにおいがかすかに)
標示杭が斜めになって立っていた。そこまで来ると干魚をやく香がかすかに
(かれのはなをうったとおもった。かれははじめてたちどまった。やせうまもあるいたしせいを)
彼れの鼻をうったと思った。彼れははじめて立停った。痩馬も歩いた姿勢を
(そのままにのそりとうごかなくなった。たてがみとしりっぽだけがかぜにしたがってなびいた。)
そのままにのそりと動かなくなった。鬣と尻尾だけが風に従ってなびいた。
(「なんていうだのうじょうは」)
「何んていうだ農場は」
(せたけのずぬけてたかいかれはつまをみおろすようにしてこうつぶやいた。)
背丈けの図抜けて高い彼れは妻を見おろすようにしてこうつぶやいた。
(「まつかわのうじょうたらいうだが」)
「松川農場たらいうだが」
(「たらいうだ?こけ」)
「たらいうだ? 白痴」
(かれはつまとことばをかわしたのがしゃくにさわった。そしてうまのはなをぐんとたづなで)
彼れは妻と言葉を交わしたのが癪にさわった。そして馬の鼻をぐんと手綱で
(しごいてまたあるきだした。くらくなったたにをへだててすこしこっちよりもたかいくらいのへいち)
しごいてまた歩き出した。暗らくなった谷を距てて少し此方よりも高い位の平地
(に、わすれたようにあいだをおいてともされたしがいちのかすかなほかげは、ひとけのないところ)
に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな灯影は、人気のない所
(よりもかえってしぜんをさびしくみせた。かれはそのひをみるともういっしゅのおびえを)
よりもかえって自然を淋しく見せた。彼れはその灯を見るともう一種のおびえを
(おぼえた。ひとのけはいをかぎつけるとかれはなんとかみづくろいをしないでは)
覚えた。人の気配をかぎつけると彼れは何んとか身づくろいをしないでは
(いられなかった。しぜんさがそのしゅんかんにうしなわれた。それをいしきすることがかれを)
いられなかった。自然さがその瞬間に失われた。それを意識する事が彼れを
(いやがうえにもぶっちょうづらにした。「てきがめのまえにきたぞ。ばかなつらをして)
いやが上にも仏頂面にした。「敵が眼の前に来たぞ。馬鹿な面をして
(いやがって、しりこだまでもひっこぬかれるな」とでもいいそうなかおをつまのほうに)
いやがって、尻子玉でもひっこぬかれるな」とでもいいそうな顔を妻の方に
(むけておいて、あるきながらおびをしめなおした。おっとのかおつきにはきもつかないほど)
向けて置いて、歩きながら帯をしめ直した。良人の顔付きには気も着かないほど
(めをおとしたつまはくちをだらりとあけたままいっさいむとんちゃくでただうまのあとに)
眼を落した妻は口をだらりと開けたまま一切無頓着でただ馬の跡に
(ついてあるいた。)
ついて歩いた。
(kしがいちのまちはずれにはあきやがよんけんまでならんでいた。ちいさなまどはどくろのそれの)
K市街地の町端れには空屋が四軒までならんでいた。小さな窓は髑髏のそれの
(ようなまっくらなめをおうらいにむけてひらいていた。ごけんめにはひとがすんでいたが)
ような真暗な眼を往来に向けて開いていた。五軒目には人が住んでいたが
(うごめくひとかげのあいだにいろりのねそだがちょろちょろともえるのがみえるだけ)
うごめく人影の間に囲炉裡の根粗朶がちょろちょろと燃えるのが見えるだけ
(だった。ろっけんめにはていてつやがあった。あやしげなえんとうからはかぜにこきおろされた)
だった。六軒目には蹄鉄屋があった。怪しげな煙筒からは風にこきおろされた
(けむりのなかにまじってひばながとびちっていた。みせはようろのひぐちをあいたようにあかるく)
煙の中にまじって火花が飛び散っていた。店は熔炉の火口を開いたように明るく
(て、ばかばかしくだだっぴろいほっかいどうのしちけんどうろがむこうがわまではっきりとてらされて)
て、馬鹿馬鹿しくだだっ広い北海道の七間道路が向側まではっきりと照らされて
(いた。かたがわまちではあるけれども、とにかくいえなみがあるだけに、しいてむきをかえ)
いた。片側町ではあるけれども、とにかく家並があるだけに、強て方向を変え
(させられたかぜのあしがいしゅにすなをまきあげた。すなはていてつやのまえのひのひかりにてりかえ)
させられた風の脚が意趣に砂を捲き上げた。砂は蹄鉄屋の前の火の光に照りかえ
(されてもうもうとうずまくすがたをみせた。しごとばのふいごのまわりにはさんにんのおとこがはたらいていた。)
されて濛々と渦巻く姿を見せた。仕事場の鞴の囲りには三人の男が働いていた。
(かなしきにあたるかなづちのおとがたかくひびくとつかれはてたかれのうまさえがみみをたて)
鉄砧にあたる鉄槌の音が高く響くと疲れ果てた彼れの馬さえが耳を立て
(なおした。かれはこのみせさきにじぶんのうまをひっぱってくるときのことをおもった。つまは)
なおした。彼れはこの店先きに自分の馬を引張って来る時の事を思った。妻は
(すいとられるようにあたたかそうなひのいろにみとれていた。ふたりはみょうにわくわくした)
吸い取られるように暖かそうな火の色に見惚れていた。二人は妙にわくわくした
(こころもちになった。)
心持ちになった。
(ていてつやのさきはきゅうにやみがこまかくなってたいていのいえはもうとじまりをしていた。)
蹄鉄屋の先きは急に闇が濃かくなって大抵の家はもう戸じまりをしていた。
(あらものやをかねたいざかやらしいいっけんからたべもののにおいとだんじょのふざけかえっただみごえが)
荒物屋を兼ねた居酒屋らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声が
(もれるほかには、まっすぐないえなみははいそんのようにさむさのまえにちぢこまって、でんしんばしらだけ)
もれる外には、真直な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけ
(が、けうというなりをたてていた。かれとうまとつまとはまえのとおりにおしだまってあるいた。)
が、けうとい唸りを立てていた。彼れと馬と妻とは前の通りに押黙って歩いた。
(あるいてはときおりおもいだしたようにたちどまった。たちどまってはまたむいみらしく)
歩いては時折り思い出したように立停った。立停ってはまた無意味らしく
(あるきだした。)
歩き出した。
(し、ごちょうあるいたとおもうとかれらはもうまちはずれにきてしまっていた。みちがへしおら)
四、五町歩いたと思うと彼らはもう町はずれに来てしまっていた。道がへし折ら
(れたようにまがって、そのさきは、まっくらなくぼちに、きゅうなこうばいをとってくだっていた。)
れたように曲って、その先きは、真闇な窪地に、急な勾配を取って下っていた。
(かれらはそのとっかくまでいってまたたちどまった。はるかしたのほうからは、うざうざするほど)
彼らはその突角まで行ってまた立停った。遙か下の方からは、うざうざするほど
(しげりあったかつようじゅりんにかぜのはいるおとのほかに、しりべしがわのかすかなみずのおとだけが)
繁り合った濶葉樹林に風の這入る音の外に、シリベシ河のかすかな水の音だけが
(きこえていた。)
聞こえていた。
(「きいてみずに」)
「聞いて見ずに」
(つまはさむさにみをふるわしながらこううめいた。)
妻は寒さに身をふるわしながらこううめいた。
(「われきいてみべし」)
「汝聞いて見べし」
(いきなりそこにしゃごんでしまったかれのこえはちのなかからでもでてきたよう)
いきなりそこにしゃごんでしまった彼れの声は地の中からでも出て来たよう
(だった。つまはにをゆりあげてはなをすすりすすりとってかえした。いっけんのいえのとを)
だった。妻は荷をゆりあげて鼻をすすりすすり取って返した。一軒の家の戸を
(たたいて、ようやくまつかわのうじょうのありかをおしえてもらったときは、かれのすがたをみわけ)
敲いて、ようやく松川農場のありかを教えてもらった時は、彼れの姿を見分け
(かねるほどとおくにきていた。おおきなこえをだすことがなんとなくおそろしかった。)
かねるほど遠くに来ていた。大きな声を出す事が何んとなく恐ろしかった。
(おそろしいばかりではない、こえをだすちからさえなかった。そしてちんばをひきひき)
恐ろしいばかりではない、声を出す力さえなかった。そしてちんばをひきひき
(またかえってきた。)
また返って来た。
(かれらはねむくなるほどつかれはてながらまたさんちょうほどあるかねばならなかった。)
彼らは眠くなるほど疲れ果てながらまた三町ほど歩かねばならなかった。
(そこにしたみがこい、いたぶきのましかくなにかいだてがほかのいえなみをあっしてたっていた。)
そこに下見囲、板葺の真四角な二階建が外の家並を圧して立っていた。
(つまがだまったままたちどまったので、かれはそれがまつかわのうじょうのじむしょであることを)
妻が黙ったまま立留ったので、彼れはそれが松川農場の事務所である事を
(しった。ほんとうをいうとかれははじめからこのたてものがそれにちがいないとおもって)
知った。ほんとうをいうと彼れは始めからこの建物がそれにちがいないと思って
(いたが、はいるのがいやなばかりにしらんふりをしてとおりぬけてしまったのだ。)
いたが、這入るのがいやなばかりに知らんふりをして通りぬけてしまったのだ。
(もうしんたいきわまった。かれはみちのむかいがわのたちきのみきにうまをつないで、からすむぎとざっそうとを)
もう進退窮った。彼れは道の向側の立樹の幹に馬を繋いで、燕麦と雑草とを
(きりこんだあまぶくろをくらわからほどいてうまのくちにあてがった。ぼりりぼりりという)
切りこんだ亜麻袋を鞍輪からほどいて馬の口にあてがった。ぼりりぼりりという
(はぎれのいいおとがすぐきこえだした。かれとつまとはまたみちをよこぎって、じむしょの)
歯ぎれのいい音がすぐ聞こえ出した。彼れと妻とはまた道を横切って、事務所の
(いりぐちのところまできた。そこでふたりはふあんらしくかおをみあわせた。つまがぎごちなそう)
入口の所まで来た。そこで二人は不安らしく顔を見合わせた。妻がぎごちなそう
(にてをあげてかみをいじっているあいだにかれはおもいきってはんぶんがらすになっている)
に手を挙げて髪をいじっている間に彼れは思い切って半分ガラスになっている
(ひきどをあけた。かっしゃがけたたましいおとをたてててつのみぞをすべった。がたぴしすると)
引戸を開けた。滑車がけたたましい音をたてて鉄の溝を滑った。がたぴしする戸
(ばかりをあつかいなれているかれのてのちからがあまったのだ。)
ばかりをあつかい慣れている彼れの手の力があまったのだ。
(つまがぎょっとするはずみにせなかのあかんぼうもめをさましてなきだした。ちょうばにいたふたりの)
妻がぎょっとするはずみに背の赤坊も眼を覚して泣き出した。帳場にいた二人の
(おとこはとびあがらんばかりにおどろいてこちらをみた。そこにはかれとつまとがなくあかんぼうの)
男は飛び上らんばかりに驚いてこちらを見た。そこには彼れと妻とが泣く赤坊の
(しまつもせずにのそりとつったっていた。)
始末もせずにのそりと突立っていた。
(「なんだてめえたちは、とをあけっぱなしにしくさってかぜがふきこむでねえか。)
「何んだ手前たちは、戸を開けっぱなしにしくさって風が吹き込むでねえか。
(はいるのならはやくはいってこう」)
這入るのなら早く這入って来う」