カインの末裔 2/11

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投稿者投稿者鳴きウサギ(鹿の声)いいね1お気に入り登録
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有島武郎

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問題文

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(こんのあつしをせるのまえだれであわせて、かしのかくひばちのよこざにすわったおとこがまゆをしかめ)

紺のあつしをセルの前垂れで合せて、樫の角火鉢の横座に坐った男が眉をしかめ

(ながらこうどなった。にんげんのかおーーことにどこかじぶんよりうわてなにんげんのかおをみると)

ながらこう怒鳴った。人間の顔ーー殊にどこか自分より上手な人間の顔を見ると

(かれのこころはすぐふてくされるのだった。やいばにはむかうけもののようにすてばちになってかれは)

彼れの心はすぐ不貞腐れるのだった。刃に歯向う獣のように捨鉢になって彼れは

(のさのさとずぬけておおきなごたいをどまにはこんでいった。つまはおずおずととを)

のさのさと図抜けて大きな五体を土間に運んで行った。妻はおずおずと戸を

(しめてこがいにたっていた、あかんぼうのなくのもわすれはてるほどにきをてんとうさせて。)

閉めて戸外に立っていた、赤坊の泣くのも忘れ果てるほどに気を転倒させて。

(こえをかけたのはさんじゅうぜんごの、めのするどい、くちひげのふにあいな、なががおのおとこだった。)

声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、口髭の不似合な、長顔の男だった。

(のうみんのあいだでなががおのおとこをみるのは、ぶたのなかでうまのかおをみるようなものだった。)

農民の間で長顔の男を見るのは、豚の中で馬の顔を見るようなものだった。

(かれのこころはきんちょうしながらもそのおとこのかおをめずらしげにみいらないわけにはいかな)

彼れの心は緊張しながらもその男の顔を珍らしげに見入らない訳には行かな

(かった。かれはじぎひとつしなかった。)

かった。彼れは辞儀一つしなかった。

(あかんぼうがくびりころされそうにとのそとでなきたてた。かれはそれにもきをとら)

赤坊が縊り殺されそうに戸の外で泣き立てた。彼れはそれにも気を取ら

(れていた。)

れていた。

(あがりがまちにこしをかけていたもうひとりのおとこはややしばらくかれのかおをみつめていたが、)

上框に腰をかけていたもう一人の男はやや暫らく彼れの顔を見つめていたが、

(なにわぶしがたりのようなみょうにはりのあるこえでとつぜんくちをきった。)

浪花節語りのような妙に張りのある声で突然口を切った。

(「おぬしはかわもりさんのゆかりのものじゃないんかの。どうやらかおがにとるじゃが」)

「お主は川森さんの縁のものじゃないんかの。どうやら顔が似とるじゃが」

(こんどはかれのへんじもまたずになががおのおとこのほうをむいて、)

今度は彼れの返事も待たずに長顔の男の方を向いて、

(「ちょうばさんにもかわもりからはないたはずじゃがの。ぬしがのちすじをいわたがあとにいれて)

「帳場さんにも川森から話いたはずじゃがの。主がの血筋を岩田が跡に入れて

(もらいたいいうてな」)

もらいたいいうてな」

(またかれのほうをむいて、)

また彼れの方を向いて、

(「そうじゃろがの」)

「そうじゃろがの」

(それにちがいなかった。しかしかれはそのおとこをみるとむしずがはしった。それもひゃくしょうに)

それに違いなかった。しかし彼れはその男を見ると虫唾が走った。それも百姓に

など

(めずらしいながいかおのおとこで、はげあがったひたいからひだりのはんめんにかけてやけどのあとがてらてら)

珍らしい長い顔の男で、禿げ上った額から左の半面にかけて火傷の跡がてらてら

(とひかり、したまぶたがあかくべっかんこをしていた。そしてくちびるがかみのようにうすかった。)

と光り、下瞼が赤くべっかんこをしていた。そして唇が紙のように薄かった。

(ちょうばとよばれたおとこはそのことならのみこめたというふうに、ときどきうわめでにらみにらみ、)

帳場と呼ばれた男はその事なら飲み込めたという風に、時々上眼で睨み睨み、

(いろいろなことをかれにききただした。そしてちょうばづくえのなかから、みのがみにこまごまとかつじを)

色々な事を彼れに聞き糺した。そして帳場机の中から、美濃紙に細々と活字を

(すったしょるいをだして、それにひろおかにんえもんというかれのなとうまれこきょうとをきにゅう)

刷った書類を出して、それに広岡仁右衛門という彼れの名と生れ故郷とを記入

(して、よくよんでからはんをおせといってにつうつきだした。にんえもん(これから)

して、よく読んでから判を押せといって二通つき出した。仁右衛門(これから

(かれというかわりににんえもんとよぼう)はもとよりあきめくらだったが、のうじょうでもぎょばでも)

彼れという代りに仁右衛門と呼ぼう)は固より明盲だったが、農場でも漁場でも

(こうざんでもめしをくうためにはそういうかみのはしにもうはんをおさなければならないという)

鉱山でも飯を食うためにはそういう紙の端に盲判を押さなければならないという

(ことはこころえていた。かれははらがけのどんぶりのなかをさぐりまわしてぼろぼろのかみのかたまりを)

事は心得ていた。彼れは腹がけの丼の中を探り廻わしてぼろぼろの紙の塊を

(つかみだした。そしてたけのこのかわをはぐようにいくまいものかみをはがすとまっくろになった)

つかみ出した。そして筍の皮を剥ぐように幾枚もの紙を剥がすと真黒になった

(さんもんばんがころがりでた。かれはそれにいきをふきかけてしょうしょにあなのあくほど)

三文判がころがり出た。彼れはそれに息気を吹きかけて証書に孔のあくほど

(おしつけた。そしてわたされたいちまいをはんといっしょにどんぶりのそこにしまってしまった。)

押しつけた。そして渡された一枚を判と一緒に丼の底にしまってしまった。

(これだけのことでめしのたねにありつけるのはありがたいことだった。こがいではあかんぼうが)

これだけの事で飯の種にありつけるのはありがたい事だった。戸外では赤坊が

(まだなきやんでいなかった。)

まだ泣きやんでいなかった。

(「おらぜにこいちもんももたねえからちょっぴりかりたいだが」)

「俺ら銭こ一文も持たねえからちょっぴり借りたいだが」

(あかんぼうのことをおもうと、きゅうにこぜにがほしくなって、かれがこういいだすと、ちょうばは)

赤坊の事を思うと、急に小銭がほしくなって、彼れがこういい出すと、帳場は

(あきれたようにかれのかおをみつめた、ーーこいつはばかなつらをしているくせに)

呆れたように彼れの顔を見詰めた、ーーこいつは馬鹿な面をしているくせに

(ゆだんのならないよこがみやぶりだとおもいながら。そしてじむしょではかねのかりかしはいっさい)

油断のならない横紙破りだと思いながら。そして事務所では金の借貸は一切

(しないからえんじゃになるかわもりからでもかりるがいいし、こんやはなにしろそこにいって)

しないから縁者になる川森からでも借りるがいいし、今夜は何しろ其所に行って

(とめてもらえとちゅういした。にんえもんはもうむかっぱらをたててしまっていた。)

泊めてもらえと注意した。仁右衛門はもう向腹を立ててしまっていた。

(だまりこくってでていこうとすると、そこにいあわせたおとこがいっしょにいってやるから)

黙りこくって出て行こうとすると、そこに居合わせた男が一緒に行ってやるから

(まてととめた。そういわれてみるとかれはじぶんのこやがどこにあるのかを)

待てととめた。そういわれて見ると彼れは自分の小屋が何所にあるのかを

(しらなかった。)

知らなかった。

(「それじゃちょうばさんなにぶんよろしゅうたのむがに、あんばいようおやかたのほうにもいうてな。)

「それじゃ帳場さん何分宜しゅう頼むがに、塩梅よう親方の方にもいうてな。

(ひろおかさん、それじゃいくべえかの。なんとまあややのいたましくさかぶぞい。じゃ)

広岡さん、それじゃ行くべえかの。何とまあ孩児の痛ましくさかぶぞい。じゃ

(まあおやすみ」)

まあおやすみ」

(かれはきようにこごしをかがめてふるいてさげかばんとぼうしとをとりあげた。すそをからげて)

彼れは器用に小腰をかがめて古い手提鞄と帽子とを取上げた。裾をからげて

(ほうへいのふるぐつをはいているようすはこさくにんというよりもざっこくやのさやとりだった。)

砲兵の古靴をはいている様子は小作人というよりも雑穀屋の鞘取りだった。

(とをあけてそとにでるとじむしょのぼんぼんどけいがろくじをうった。びゅうびゅうと)

戸を開けて外に出ると事務所のボンボン時計が六時を打った。びゅうびゅうと

(かぜはふきつのっていた。あかんぼうのなくのにこうじはててつまはぽつりとさびしそうに)

風は吹き募っていた。赤坊の泣くのに困じ果てて妻はぽつりと淋しそうに

(とうきびがらのゆきがこいのかげにたっていた。)

玉蜀黍殻の雪囲いの影に立っていた。

(あしばがわるいからきをつけろといいながらかのおとこはさきにたってこくどうからあぜみちに)

足場が悪いから気を付けろといいながら彼の男は先きに立って国道から畦道に

(はいっていった。)

這入って行った。

(おおなみのようなうねりをみせたしゅうかくごのはたちは、ひろくとおくこうりょうとしてひろがって)

大濤のようなうねりを見せた収穫後の畑地は、広く遠く荒涼として拡がって

(いた。めをさえぎるものははをおとしたぼうふうりんのほそながいこだちだけだった。ぎらぎらと)

いた。眼を遮るものは葉を落した防風林の細長い木立ちだけだった。ぎらぎらと

(またたくむすうのほしはそらのじをことさらさむくくらいものにしていた。にんえもんをあんないしたおとこ)

瞬く無数の星は空の地を殊更ら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男

(はかさいというこさくにんで、てんりきょうのせわにんもしているのだといってきかせ)

は笠井という小作人で、天理教の世話人もしているのだといって聞かせ

(たりした。)

たりした。

(ななちょうもはっちょうもあるいたとおもうのにあかんぼうはまだなきやまなかった。くびりころされそうな)

七町も八町も歩いたと思うのに赤坊はまだ泣きやまなかった。縊り殺されそうな

(なきごえがはんきょうもなくかぜにふきちぎられてとおくながれていった。)

泣き声が反響もなく風に吹きちぎられて遠く流れて行った。

(やがてあぜみちがふたつになるところでかさいはたちどまった。)

やがて畦道が二つになる所で笠井は立停った。

(「このみちをな、こういくとひだりてにさえてこやがみえようがの。な」)

「この道をな、こう行くと左手にさえて小屋が見えようがの。な」

(にんえもんはくろいちへいせんをすかしてみながら、みみにてをおきそえてかさいのことばを)

仁右衛門は黒い地平線をすかして見ながら、耳に手を置き添えて笠井の言葉を

(ききもらすまいとした。それほどさむいかぜははげしいおとでつのっていた。かさいは)

聞き漏らすまいとした。それほど寒い風は激しい音で募っていた。笠井は

(くどくどとそこにいきつくちゅういをくりかえして、しまいにかねがいるならかわもりのほしょうで)

くどくどとそこに行き着く注意を繰返して、しまいに金が要るなら川森の保証で

(すこしくらいはゆうずうするとつけくわえるのをわすれなかった。しかしにんえもんはこやのしょざいが)

少し位は融通すると付加えるのを忘れなかった。しかし仁右衛門は小屋の所在が

(しれるとあとはきいていなかった。うえとさむさがひしひしとこたえだしてがたがた)

知れると跡は聞いていなかった。餓えと寒さがひしひしと答え出してがたがた

(みをふるわしながら、あいさつひとつせずにさっさとわかれてあるきだした。)

身をふるわしながら、挨拶一つせずにさっさと別れて歩き出した。

(とうきびがらといたどりのくきでかこいをしたふたまはんしほうほどのこやが、まえのめりに)

玉蜀黍殻といたどりの茎で囲いをした二間半四方ほどの小屋が、前のめりに

(かしいで、くらげのようなひくいこうばいのこやまのはんぷくにたっていた。もののすえたにおいと)

かしいで、海月のような低い勾配の小山の半腹に立っていた。物の饐えた香と

(つみごえのにおいがほしいままにただよっていた。こやのなかにはどんなやじゅうがひそんでいるかも)

積肥の香が擅にただよっていた。小屋の中にはどんな野獣が潜んでいるかも

(しれないようなきみわるさがあった。あかんぼうのなきつづけるくらやみのなかでにんえもんが)

知れないような気味悪さがあった。赤坊の泣き続ける暗闇の中で仁右衛門が

(うまのせからどすんとおもいものをじめんにおろすおとがした。やせうまはにがかるくなると)

馬の背からどすんと重いものを地面に卸す音がした。痩馬は荷が軽るくなると

(うっせきしたいかりをいっときにぶちまけるようにいなないた。はるかのとおくでそれにこたえたうまが)

鬱積した怒りを一時にぶちまけるように嘶いた。遙かの遠くでそれに応えた馬が

(あった。あとはかぜだけがふきすさんだ。)

あった。跡は風だけが吹きすさんだ。

(ふうふはかじかんだてでにもつをさげながらこやにはいった。ながくひのけはたえて)

夫婦はかじかんだ手で荷物を提げながら小屋に這入った。永く火の気は絶えて

(いても、ふきさらしからはいるとさすがにきもちよくあたたかかった。ふたりはまっくらななか)

いても、吹きさらしから這入るとさすがに気持ちよく暖かった。二人は真暗な中

(をてさぐりでありあわせのふるむしろやわらをよせあつめてどっかとこしをすえた。つまはおおきな)

を手さぐりであり合せの古蓆や藁をよせ集めてどっかと腰を据えた。妻は大きな

(ためいきをしてせのにといっしょにあかんぼうをおろしてむねにだきとった。ちぶさをあてがってみた)

溜息をして背の荷と一緒に赤坊を卸して胸に抱き取った。乳房をあてがって見た

(がちちはかれていた。あかんぼうはかたくなりかかったはぐきでいやというほどそれを)

が乳は枯れていた。赤坊は堅くなりかかった歯齦でいやというほどそれを

(かんだ。そしてなきつのった。)

噛んだ。そして泣き募った。

(「くされにが!たたらくいちぎるに」)

「腐孩子! たたら食いちぎるに」

(つまはけんどんにこういって、ふところからしおせんべいをさんまいだして、ぽりぽりとかみくだいては)

妻は慳貪にこういって、懐から塩煎餅を三枚出して、ぽりぽりと噛みくだいては

(あかんぼうのくちにあてがった。)

赤坊の口にあてがった。

(「おらがにもくせ」)

「俺らがにも越せ」

(いきなりにんえもんがえんぴをのばしてのこりをうばいとろうとした。ふたりはだまったまま)

いきなり仁右衛門が猿臂を延ばして残りを奪い取ろうとした。二人は黙ったまま

(でほんきにあらそった。たべるものといってはさんまいのせんべいしかないのだから。)

で本気に争った。食べるものといっては三枚の煎餅しかないのだから。

(「たわけ」)

「白痴」

(はきだすようにおっとがこういったときしょうぶはきまっていた。つまはあらそいまけてだいぶぶん)

吐き出すように良人がこういった時勝負はきまっていた。妻は争い負けて大部分

(をりゃくだつされてしまった。ふたりはまたおしだまってやみのなかでたしないしょくもつをむさぼり)

を掠奪されてしまった。二人はまた押黙って闇の中で足しない食物を貪り

(くった。しかしそれはけっきょくしょくよくをそそるなかだちになるばかりだった。ふたりはくい)

喰った。しかしそれは結局食欲をそそる媒介になるばかりだった。二人は喰い

(おわってからいくどもかたずをのんだがひだねのないところではかぼちゃをにることもできな)

終ってから幾度も固唾を飲んだが火種のない所では南瓜を煮る事も出来な

(かった。あかんぼうはなきづかれにつかれてほっぽりだされたままにいつのまにか)

かった。赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに何時の間にか

(ねいっていた。)

寝入っていた。

(いしずまってみるとすきまもるかぜはやいばのようにするどくきりこんできていた。ふたりは)

居鎮まって見ると隙間もる風は刃のように鋭く切り込んで来ていた。二人は

(もうしあわせたようにりょうほうからちかづいて、あかんぼうをあいだにいれて、だきねをしながらわらのなかで)

申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、抱寝をしながら藁の中で

(がつがつとふるえていた。しかしやがてひろうはすべてをせいふくした。しのようなねむりが)

がつがつと震えていた。しかしやがて疲労は凡てを征服した。死のような眠りが

(さんにんをおそった。)

三人を襲った。

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