人形-5-
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問題文
(ししょうはひとさしゆびをさゆうにふってからつづけた。)
師匠は人さし指を左右に振ってから続けた。
(「これがにほんじんのめいしんふかいところだ。)
「これが日本人の迷信深いところだ。
(ぎんばんしゃしんがとられたとうじ、ひしゃたいはぶけやくげなどの)
銀板写真が撮られた当時、被写体は武家や公家などの
(しはいかいきゅうのしていたちだったわけだが、できあがったおのれのしゃしんが)
支配階級の子弟たちだったわけだが、出来上がった己の写真が
(しにしょうぞくであるひだりまえとなっていてはえんぎがわるいために、)
死装束である左前となっていては縁起が悪いために、
(わざわざいふくをぎゃくにきてさつえいしていたんだ。)
わざわざ衣服を逆に着て撮影していたんだ。
(もっともたんにみばえのもんだいもあったのだろう。)
もっとも単に見栄えの問題もあったのだろう。
(ぶしなどかたなまでみぎのこしにさしなおしてとっている。)
武士など刀まで右の腰に挿し直して撮っている。
(とうじのぎんばんしゃしんをよくみると、えりもとやこしのだいしょうが)
当時の銀板写真を良く見ると、襟元や腰の大小が
(へんにおさまりわるくうつっているから、かれらのほほえましいどりょくのあとが)
変に納まり悪く写っているから、彼らの微笑ましい努力の跡が
(かいまみえるってものだ」ということは、つまりこのきものすがたのさんにんのじょせいも)
垣間見えるってものだ」ということは、つまりこの着物姿の3人の女性も
(さつえいじにわざわざひだりまえにしてかめらのまえにすわったのか。)
撮影時にわざわざ左前にしてカメラの前に座ったのか。
(おれはかんしんし、いわれなかったらきづかなかったであろう)
俺は感心し、言われなかったら気づかなかったであろう
(100ねんのひみつにふれたことに、あるしゅのかいかんをおぼえた。)
100年の秘密に触れたことに、ある種の快感を覚えた。
(「そこで、もういちどこのまんなかのじょせいがかかえるにんぎょうをみてほしい」)
「そこで、もう一度この真ん中の女性が抱える人形を見て欲しい」
(ししょうのことばに、しせんをそこにしゅうちゅうさせる。)
師匠の言葉に、視線をそこに集中させる。
(にんぎょうのえりもとが、ほかのじょせいたちとぎゃくにあわせられている。)
人形の襟元が、他の女性たちと逆に合せられている。
(ひだりまえだ。ぎんばんしゃしんはさゆうをぎゃくにうつすので、つまりさつえいじには)
左前だ。銀板写真は左右を逆に写すので、つまり撮影時には
(みぎまえだったことになる。「いちまつにんぎょうとしてはこれでただしい。)
右前だったことになる。「市松人形としてはこれで正しい。
(ただとりおわったあとのしゃしんがまちがっていただけだ。だから・・・・・・」)
ただ撮り終わったあとの写真が間違っていただけだ。だから……」
(といって、ししょうはみかっちさんにしせんをむけ、わらいかけた。)
と言って、師匠はみかっちさんに視線を向け、笑い掛けた。
(「きみのあのえは、このしゃしんのいっけんひだりまえにみえるにんぎょうを)
「キミのあの絵は、この写真の一見左前に見える人形を
(えがいたものなんだ。きみはにんぎょうをえにかいたといいながら、)
描いたものなんだ。キミは人形を絵に描いたと言いながら、
(にんぎょうをみていない。きみょうなきおくのこんだくがあるようだ。)
人形を見ていない。奇妙な記憶の混濁があるようだ。
(なぜならそんなにんぎょうはもうそんざいしていないんだから」)
なぜならそんな人形はもう存在していないんだから」
(きゃあぁー!!というかんだかいきんぞくてきなひめいがいえじゅうにひびきわたった。)
キャアァー!!という甲高い金属的な悲鳴が家中に響き渡った。
(おれはせすじをこおらせるようなしょうげきにからだをこうちょくさせる。)
俺は背筋を凍らせるような衝撃に体を硬直させる。
(あたまをかかえてうつむいているれいこさんのくちからでたものにしては、おかしい。)
頭を抱えて俯いている礼子さんの口から出たものにしては、おかしい。
(まるでいえじゅうのかべからはんきょうしてきたようなこえだった。)
まるで家中の壁から反響してきたような声だった。
(「そのにんぎょうがどうしてなくなったのかはしらない。)
「その人形がどうしてなくなったのかは知らない。
(あなたのくちからそれがきけるともおもわなけど。)
あなたの口からそれが聞けるとも思わなけど。
(せんそうでやけたのか。しょぶんされたのか・・・・・・)
戦争で焼けたのか。処分されたのか……
(ただあなたのなかにすみついて、そこにいるともだちのなかにも)
ただあなたの中に棲みついて、そこにいる友だちの中にも
(かんせんするようにしんにゅうしたそれは、このよにいようなしゅうちゃくをもっているみたいだ。)
感染するように侵入したそれは、この世に異様な執着を持っているみたいだ。
(じぶんのそんざいを、ふたたびせかいとまじわらせようとするいしのようなものをかんじる。)
自分の存在を、再び世界と交わらせようとする意思のようなものを感じる。
(じっさいに、えというかたちで、いちどほろびたものがげんじつにあらわれたんだから」)
実際に、絵という形で、一度滅びたものが現実に現れたんだから」
(みしみしといういやなあっぱくかんがからだにせまってくるようだ。)
ミシミシという嫌な圧迫感が体に迫ってくるようだ。
(これは、かみがのびるだとか、なみだをながすだとかいうにんぎょうにまつわるかいだんと)
これは、髪が伸びるだとか、涙を流すだとかいう人形にまつわる怪談と
(どうしつのものなのか?いや、ぜったいにちがう。)
同質のものなのか?いや、絶対に違う。
(おれはそこしれないけんおかんにからだのふるえをとめることができなかった。)
俺は底知れない嫌悪感に体の震えを止めることが出来なかった。
(「そのにんぎょう。あなたのせんぞのかぎょうだったしゃしんやの、これはしょうばいどうぐのはずだ。)
「その人形。あなたの先祖の家業だった写真屋の、これは商売道具のはずだ。
(だからじつのところ、いっけんしてひだりまえにみえてはおかしいんだ。)
だから実のところ、一見して左前に見えてはおかしいんだ。
(いふくだけでなくかたななどのどうぐだてもさゆうぎゃくにしつらえてとるように、)
衣服だけでなく刀などの道具立ても左右逆にしつらえて撮るように、
(ひざにだくにんぎょうだってもちぬしにあわせるべきだ。)
膝に抱く人形だって持ち主に合せるべきだ。
(いちまつにんぎょうはもともとじょせいやこどものきせかえにんぎょうなんだ、)
市松人形はもともと女性や子どもの着せ替え人形なんだ、
(あわせかたをぎゃくにしてきせるなんてたやすいはず。)
合せ方を逆にして着せるなんて容易いはず。
(おなじもくてきでずっとつかうにんぎょうならばなおさらそうすべきだ。)
同じ目的でずっと使う人形ならばなおさらそうすべきだ。
(しかし、このしゃしんにのこされているすがたはそうではない。)
しかし、この写真に残されている姿はそうではない。
(なぜだかわかるかい。それは」)
何故だかわかるかい。それは」
(ししょうはうれいをおびたようなこえで、しかしおれにだけわかる)
師匠は憂いを帯びたような声で、しかし俺にだけわかる
(かんきのおんていをそのそこにかくしてつづけた。)
歓喜の音程をその底に隠して続けた。
(「まんなかにうつったものがはやじにするといううわさのためにこのにんぎょうを)
「真ん中に写ったものが早死にするという噂のためにこの人形を
(まんなかにすえるってこととおなじもくてきのためだ。)
真ん中に据えるってことと同じ目的のためだ。
(しゃしんにまつわるけがれをすべてにんぎょうにしゅうちゅうさせるため、)
写真にまつわる穢れをすべて人形に集中させるため、
(てっていしたいみかぶせがおこなわれている。)
徹底した忌み被せが行われている。
(つまりわざわざししゃのふくであるひだりまえでしゃしんにうつるように、)
つまりわざわざ死者の服である左前で写真に写るように、
(このにんぎょうだけはみぎまえのままにされているのさ」)
この人形だけは右前のままにされているのさ」
(はきけがした。ししょうにつれまわされていままでみききしてきた)
吐き気がした。師匠につれまわされて今まで見聞きしてきた
(さまさまなおかるとてきなもの。それらにせっするとき、しばしばはらのそこから)
様々なオカルト的なモノ。それらに接する時、しばしば腹の底から
(にじみだすようなはきけをおぼえることがあった。)
滲み出すような吐き気を覚えることがあった。
(しかしそれはたいていのばあい、れいてきなものというよりも)
しかしそれは大抵の場合、霊的なものというよりも
(にんげんのあくいにふれたときだったことをおもいだす。)
人間の悪意に触れた時だったことを思い出す。
(「つくもがみっていうしそうがにほんのふうどにはあるけど、)
「付喪神っていう思想が日本の風土にはあるけど、
(ふるくからにんげんのみがわりとなるようなにんぎょうのあつかいにはとくにちゅういがはらわれていた。)
古くから人間の身代わりとなるような人形の扱いには特に注意が払われていた。
(しかしこいつはひどいね。そのにんぎょうにちくせきされたけがれのいきつくさきを)
しかしこいつは酷いね。その人形に蓄積された穢れの行き着く先を
(あやまっていれば、どういうことになるのかそうぞうもつかない」)
誤っていれば、どういうことになるのか想像もつかない」
(はしらどけいのおとだけがきこえる。しずかになったへやに、たたみをするおとをさせて)
柱時計の音だけが聞こえる。静かになった部屋に、畳を擦る音をさせて
(ししょうがうつむいたままのれいこさんにちかづいた。)
師匠が俯いたままの礼子さんに近づいた。