谷崎潤一郎 痴人の愛 16

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね1お気に入り登録
プレイ回数670難易度(5.0) 6313打 長文
谷崎潤一郎の中編小説です
私のお気に入りです

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問題文

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(「さあ、どうだか、そうじゃないでしょ、がくせいよりはもっととしをとった)

「さあ、どうだか、そうじゃないでしょ、学生よりはもっと年を取った

(ひとがおおいんじゃない?いまいってみればわかるわよ」)

人が多いんじゃない?今行って見れば分るわよ」

(にかいへあがると、ろうかのとっつきにけいこじょうがあって、「わん、とぅう、すりー」と)

二階へ上ると、廊下の取っ突きに稽古場があって、「ワン、トゥウ、スリー」と

(いいながらあしびょうしをふんでいるごろくにんのひとかげが、すぐとわたしのめにはいりました。)

云いながら足拍子を蹈んでいる五六人の人影が、すぐと私の眼に入りました。

(にほんざしきをふたまうちぬいて、くつばきのままはいれるようないたじきにして、たぶん)

日本座敷を二た間打ち抜いて、靴穿きのまま這入れるような板敷にして、多分

(すべりをよくするためめかなにかでしょう、れいのはまだというおとこがあっちこっちへ)

滑りをよくする為めか何かでしょう、例の浜田と云う男が彼方此方へ

(ちょこちょこかけてあるいては、こまかいこなをゆかのうえへまいています。まだひのながい)

チョコチョコ駆けて歩いては、細かい粉を床の上へまいています。まだ日の長い

(あついじぶんのことだったので、すっかりしょうじをあけはなしてあるにしがわのまどから、)

暑い時分のことだったので、すっかり障子を明け放してある西側の窓から、

(ゆうひがぎらぎらとさしこんでいる、そのほのあかいひかりをせにあびせながら、しろい)

夕日がぎらぎらとさし込んでいる、そのほの紅い光を背に浴びせながら、白い

(じょおぜっとのうわぎをきて、こんのさーじのすかあとをはいて、へやとへやとの)

ジョオゼットの上衣を着て、紺のサージのスカアトを穿いて、部屋と部屋との

(まじきりのところにたっているのが、いうまでもなくしゅれむすかやふじんでした。)

間仕切りの所に立っているのが、云うまでもなくシュレムスカヤ夫人でした。

(ふたりのこどもがあるというのからさっすれば、じっさいのとしはさんじゅうごろくにも)

二人の子供があるというのから察すれば、実際の歳は三十五六にも

(なるのでしょうか?みたところではようやくさんじゅうぜんごぐらいで、なるほどきぞくのうまれ)

なるのでしょうか?見たところでは漸く三十前後ぐらいで、成る程貴族の生れ

(らしいいげんをふくんだ、きりりとひきしまったかおだちのふじん、そのいげんは、)

らしい威厳を含んだ、きりりと引き緊まった顔だちの婦人、その威厳は、

(たしょうのすごみをおぼえさせるほどそうはくをおびた、すんだけっしょくのせいであろうと)

多少の凄みを覚えさせるほど蒼白を帯びた、澄んだ血色のせいであろうと

(おもわれましたが、しかしりんこたるひょうじょうや、しょうしゃなふくそうや、むねだのゆびだのにかがやいて)

思われましたが、しかし凛乎たる表情や、瀟洒な服装や、胸だの指だのに輝いて

(いるほうせきをみると、これがせいかつにこまっているひととはどうしても)

いる宝石を見ると、これが生活に困っている人とはどうしても

(うけとれませんでした。)

受け取れませんでした。

(ふじんはかたてにむちをもって、こころもちきむずかしそうにまゆねをよせながら、れんしゅう)

夫人は片手に鞭を持って、こころもち気むずかしそうに眉根を寄せながら、練習

(しているひとびとのあしもとをにらんで、「わん、とぅう、とぅりー」ろしあじんの)

している人々の足元を睨んで、「ワン、トゥウ、トゥリー」露西亜人の

など

(えいごですから、”three”を”tree”とはつおんするのです。と)

英語ですから、“three”を“tree”と発音するのです。と

(しずかな、しかしめいれいてきなたいどをもってくりかえしています。それにしたがって、れんしゅうせいが)

静かな、しかし命令的な態度を以て繰り返しています。それに従って、練習生が

(れつをつくって、おぼつかないすてっぷをふみつつ、いったりきたりしているとことは、)

列を作って、覚束ないステップを蹈みつつ、往ったり来たりしているとことは、

(おんなのしかんがへいたいをくんれんしているようで、いつかあさくさのきんりゅうかんでみたことのある)

女の士官が兵隊を訓練しているようで、いつか浅草の金龍館で見たことのある

(「めいくさしゅっせい」をおもいだしました。れんしゅうなまのうちのさんにんは、とにかくがくせいでは)

「女軍出征」を想い出しました。練習生のうちの三人は、とにかく学生では

(ないらしいせびろふくをきたわかいおとこで、あとのふたりはじょがっこうをでたばかりの、)

ないらしい背広服を着た若い男で、あとの二人は女学校を出たばかりの、

(どこかのれいじょうでありましょう、しっそななりをして、はかまをはいておとこといっしょに)

何処かの令嬢でありましょう、質素ななりをして、袴を穿いて男と一緒に

(いっしょうけんめいにけいこしているのが、いかにもまじめなおじょうさんらしくてわるいかんじは)

一生懸命に稽古しているのが、いかにも真面目なお嬢さんらしくて悪い感じは

(しませんでした。ふじんはひとりでもあしをまちがえたものがあると、たちまち)

しませんでした。夫人は一人でも足を間違えた者があると、忽ち

(「no!」)

「No!」

(と、するどくしっして、そばへやってきてあるいてみせる。おぼえがわるくてあまりたびたび)

と、鋭く叱して、傍へやって来て歩いて見せる。覚えが悪くて余りたびたび

(まちがえると、)

間違えると、

(「no good!」)

「No good!」

(とさけびながら、むちでぴしりっとゆかをたたいたり、だんじょのようしゃなくそのひとのあしを)

と叫びながら、鞭でぴしりッと床を叩いたり、男女の容赦なくその人の足を

(うったりします。)

打ったりします。

(「おしえかたがじつにねっしんでいらっしゃいますのね、あれでなければいけませんわ」)

「教え方が実に熱心でいらっしゃいますのね、あれでなければいけませんわ」

(「ほんとうね、しゅれむすかやせんせいはそりゃねっしんでいらっしゃいますもの。)

「ほんとうね、シュレムスカヤ先生はそりゃ熱心でいらっしゃいますもの。

(にほんじんのせんせいがただとどうしてもああはまいりませんけれど、せいようのかたはたとい)

日本人の先生方だとどうしてもああは参りませんけれど、西洋の方はたとい

(ごふじんでも、そこはきちんとしていらしって、まったくきもちがようございますのよ。)

御婦人でも、其処はキチンとしていらしって、全く気持がようございますのよ。

(そしてあのとおりじゅぎょうのあいだはいちじかんでもにじかんでも、ちっともおやすみにならないで)

そしてあの通り授業の間は一時間でも二時間でも、ちっともお休みにならないで

(けいこをおつづけになるのですから、このあついのにおたいていではあるまいとおもって、)

稽古をおつづけになるのですから、この暑いのにお大抵ではあるまいと思って、

(あいすくりーむでもさしあげようかともうすのですけれど、じかんのあいだはなにも)

アイスクリームでも差上げようかと申すのですけれど、時間の間は何も

(いらないとおっしゃっしゃって、けっしてめしあがらないんですの」)

要らないと仰っしゃって、決して召し上らないんですの」

(「まあ、よくそれでおくたびれになりませんのね」)

「まあ、よくそれでおくたびれになりませんのね」

(「せいようのほうはからだができていらっしゃるから、わたくしどもとはちがいますのね。)

「西洋の方は体が出来ていらっしゃるから、わたくし共とは違いますのね。

(でもかんがえるとおきのどくなかたでございますわ、もとははくしゃくのおくさまで、なにふじゆうなく)

でも考えるとお気の毒な方でございますわ、もとは伯爵の奥様で、何不自由なく

(おくらしになっていらしったのが、かくめいのためにこういうことまでなさるように)

お暮らしになっていらしったのが、革命のためにこう云う事までなさるように

(なったのですから。」)

なったのですから。」

(まちあいしつになっているつぎのまのそおふぁにこしかけて、けいこじょうのありさまをけんぶつしながら)

待合室になっている次の間のソオファに腰かけて、稽古場の有様を見物しながら

(ふたりのふじんがさもかんしんしたようにこんなことをしゃべっています。ひとりのかたは)

二人の婦人がさも感心したようにこんな事をしゃべっています。一人の方は

(にじゅうごろくの、くちびるのうすくおおきい、しなきんぎょのかんじがするまるがおのでめのふじんで、)

二十五六の、唇の薄く大きい、支那金魚の感じがする円顔の出眼の婦人で、

(かみのけをわらずに、がくのはえぎわからあたまのてっぺんへはりねずみのでんぶのごとくしだいに)

髪の毛を割らずに、額の生え際から頭の頂辺へはりねずみの臀部の如く次第に

(たかくふくらがして、たぼのところへひじょうにおおきなしろべっこうのかんざしをさして、えじぷともようのしおぜの)

高く膨らがして、髱の所へ非常に大きな白鼈甲の簪を挿して、埃及模様の塩瀬の

(まるおびにひすいのおびどめをしているのですが、しゅれむすかやふじんのきょうぐうにどうじょうを)

丸帯に翡翠の帯留めをしているのですが、シュレムスカヤ夫人の境遇に同情を

(よせ、しきりにかのじょをほめちぎっているのはこのふじんのほうなのでした。それに)

寄せ、しきりに彼女を褒めちぎっているのはこの婦人の方なのでした。それに

(あいづちをうっているもうひとりのふじんは、あせのためあつげしょうのおしろいがぶちになって、)

合槌を打っているもう一人の婦人は、汗のため厚化粧のお白粉がぶちになって、

(ところどころにこじわのある、あれたじはだがでているのからさっすると、おそらくよんじゅう)

ところどころに小皺のある、荒れた地肌が出ているのから察すると、恐らく四十

(ちかいのでしょう。わざとかうまれつきかそくはつにゆったあかいかみのけのぼうぼうと)

近いのでしょう。わざとか生まれつきか束髪に結った赭い髪の毛のぼうぼうと

(ちぢれた、やせたひょろながいからだつきの、みなりははでにしていますけれど、)

縮れた、痩せたひょろ長い体つきの、身なりは派手にしていますけれど、

(ちょっとかんごふあがりのようなかおだちのおんなでした。このふじんたちをとりまいて、)

ちょっと看護婦上りのような顔だちの女でした。この婦人達を取り巻いて、

(つつましやかにじぶんのばんをまちうけているひとびともあり、なかにはすでにひととおりの)

つつましやかに自分の番を待ち受けている人々もあり、中には既に一と通りの

(れんしゅうをつんだらしく、てんでにうでをくみあわせて、けいこじょうのすみをおどりまわって)

練習を積んだらしく、てんでに腕を組み合わせて、稽古場の隅を踊り廻って

(いるのもあります。かんじのはまだはふじんのだいりというかくなのか、じぶんでそれを)

いるのもあります。幹事の浜田は夫人の代理と云う格なのか、自分でそれを

(きどっているのか、そんなれんちゅうのあいてになっておどってやったり、ちくおんきの)

気取っているのか、そんな連中の相手になって踊ってやったり、蓄音機の

(れこーどをとりかえたりして、ひとりでめまぐるしくかつやくしています。いったいおんなは)

レコードを取り換えたりして、独りで目まぐるしく活躍しています。一体女は

(べつとして、おとこでだんすをならいにこようというものは、どういうしゃかいのにんげんなのかと)

別として、男でダンスを習いに来ようと云う者は、どう云う社会の人間なのかと

(おもってみると、ふしぎなことにしゃれたふくをきているのははまだぐらいで、あとは)

思って見ると、不思議なことにしゃれた服を着ているのは浜田ぐらいで、あとは

(たいがいやすげっきゅうとりのような、やぼくさいこんのみつぐみをきた、きのきかなそうなのが)

大概安月給取りのような、野暮くさい紺の三つ組を着た、気の利かなそうなのが

(おおいのでした。もっともとしはみなわたしよりわかそうで、さんじゅうだいとおもわれるしんしはたったひとり)

多いのでした。尤も歳は皆私より若そうで、三十台と思われる紳士はたった一人

(しかありません。そのおとこはもーにんぐをまとって、きんぶちのぶんのあついめがねをかけて、)

しかありません。その男はモーニングを纏って、金縁の分の厚い眼鏡をかけて、

(じせいおくれのきみょうにながいはちじひげをはやしていて、いちばんのみこみがわるいらしく、)

時勢おくれの奇妙に長い八字髭を生やしていて、一番呑込みが悪いらしく、

(いくどとなくふじんに”nogood”とどやしつけられ、むちでぴしりと)

幾度となく夫人に“No good”とどやしつけられ、鞭でピシリと

(くらわされます。と、そのたびごとににやにやまのぬけたうすわらいをしながら、また)

喰わされます。と、その度毎にニヤニヤ間の抜けた薄笑いをしながら、又

(はじめから「わん、とぅう、すりー」をやりなおします。)

始めから「ワン、トゥウ、スリー」をやり直します。

(ああいうおとこが、いいとしをしてどういうつもりでだんすをやるきになったものか?)

ああ云う男が、いい歳をしてどう云うつもりでダンスをやる気になったものか?

(いや、かんがえるとじぶんもやはりあのおとことおなじなかまじゃないのだろうか?)

いや、考えると自分も矢張あの男と同じ仲間じゃないのだろうか?

(それでなくてもはれがましいばしょへでたことのないわたしは、このふじんたちのめの)

それでなくても晴れがましい場所へ出たことのない私は、この婦人たちの眼の

(まえで、あのせいようじんにどやしつけられるせつなをおもうと、いかになおみのおつきあい)

前で、あの西洋人にどやしつけられる刹那を思うと、いかにナオミのお附き合い

(とはいいながら、なんだかこう、みているうちにひやあせがわいてくるようで、じぶんの)

とは云いながら、何だかこう、見ているうちに冷汗が湧いて来るようで、自分の

(ばんのまわってくるのがおそろしいようになるのでした。)

番の廻って来るのが恐ろしいようになるのでした。

(「やあ、いらっしゃい」)

「やあ、入らっしゃい」

(と、はまだはにさんばんおどりつづけて、はんけちでにきびだらけのひたいのあせを)

と、浜田は二三番踊りつづけて、ハンケチでにきびだらけの額の汗を

(ふきながら、そのときそばへやってきました。)

拭きながら、その時傍へやって来ました。

(「や、このあいだはしつれいしました」)

「や、この間は失礼しました」

(ときょうはいささかとくいそうに、あらためてわたしにあいさつをして、なおみのほうをむきながら)

と今日はいささか得意そうに、改めて私に挨拶をして、ナオミの方を向きながら

(「このあついのによくきてくれたね、きみ、すまないがせんすをもってたら)

「この暑いのによく来てくれたね、君、済まないが扇子を持ってたら

(かしてくれないか、なにしろどうも、あっしすたんともらくなしごとじゃないよ」)

貸してくれないか、何しろどうも、アッシスタントも楽な仕事じゃないよ」

(なおみはおびのあいだからせんすをだしてわたしてやって、)

ナオミは帯の間から扇子を出して渡してやって、

(「でもはまさんはなかなかじょうずね、あっしすたんとのしかくがあるわ。いつからけいこ)

「でも浜さんはなかなか上手ね、アッシスタントの資格があるわ。いつから稽古

(しだしたのよ」)

し出したのよ」

(「ぼくかい?ぼくはもうはんさいもやっているのさ。けれどきみなんかきようだから、すぐ)

「僕かい?僕はもう半歳もやっているのさ。けれど君なんか器用だから、すぐ

(おぼえるよ、だんすはおとこがりーどするんで、おんなはそれにくっついておこなけりゃあ)

覚えるよ、ダンスは男がリードするんで、女はそれに喰っ着いて行けりゃあ

(いいんだからね」)

いいんだからね」

(「あの、ここにいるおとこのれんちゅうはどういうひとたちがおおいんでしょうか?」)

「あの、此処にいる男の連中はどう云う人たちが多いんでしょうか?」

(わたしがそういうと、)

私がそう云うと、

(「はあ、これですか」)

「はあ、これですか」

(と、はまだはていねいなことばになって、)

と、浜田は丁寧な言葉になって、

(「このひとたちはたいがいあの、とうようせきゆかぶしきがいしゃのしゃいんのかたがおおいんです。)

「この人たちは大概あの、東洋石油株式会社の社員の方が多いんです。

(すぎさきせんせいのごしんせきがかいしゃのじゅうやくをしておられるので、そのかたからの)

杉崎先生の御親戚が会社の重役をしておられるので、その方からの

(ごしょうかいだそうですがね」)

御紹介だそうですがね」

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