泉鏡花 悪獣篇 15

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
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泉鏡花の中編小説です

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問題文

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(「ははは、」とれんぺいはわらいけしたが、じぶんにもうたがいのいまだとけぬ、)

「ははは、」と廉平は笑い消したが、自分にも疑いの未[いま]だ解けぬ、

(あしのなかなるまぼろしを、このさいなればけもないふうで、)

蘆[あし]の中なる幻影[まぼろし]を、この際なれば気[け]もない風で、

(「ゆめのなかをあやしいものにさそいだされて、とまぶねのなかで、おからだを・・・・・・)

「夢の中を怪しいものに誘い出されて、苫船の中で、お身体を……

(なんという、そんな、そんなことがありますものかな。」)

なんという、そんな、そんな事がありますものかな。」

(「それでもわたし、」)

「それでも私、」

(と、かかるなかにもふじんはかおをあからめた。)

と、かかる中にも夫人は顔を赧[あか]らめた。

(「おぼえがあるのでございますもの。あなたがきをつけくだすって、)

「覚えがあるのでございますもの。貴下[あなた]が気をつけ下すって、

(あのとまぶねのなかでようようじぶんのからだになりましたときも、)

あの苫船の中で漸々[ようよう]自分の身体になりました時も、

(そうでした、・・・・・・まあ、おはずかしい。」)

そうでした、……まあ、お恥かしい。」

(といいかけてさしうつむく、ひたいにみだれたまえがみは、はにもかむべく)

といいかけて差俯向[さしうつむ]く、額に乱れた前髪は、歯にも噛むべく

(うらめしそう。)

怨めしそう。

(「ですが、ですが、それはこころのまよいです。きのうあたりからどうかなさって、)

「ですが、ですが、それは心の迷いです。昨日あたりからどうかなさって、

(おからだのぐあいがわるいのでしょう。せいようなぞにも、」)

お身体の工合が悪いのでしょう。西洋なぞにも、」

(ことばのしたにききとがめ、)

言[ことば]の下に聞き咎め、

(「せいようとおっしゃれば、あなたはせいようのおんなのほうが、)

「西洋とおっしゃれば、貴下[あなた]は西洋の婦人[おんな]の方が、

(わたしのつかまっておりましたふねのなかをのぞいてみて、しさいがありそうに)

私のつかまっておりました船の中を覗いて見て、仔細[しさい]がありそうに

(まねいたのを、おかのうえからごらんなすって、それでおこころつきになりましたって。)

招いたのを、丘の上から御覧なすって、それでお心着きになりましたって。

(そのときも、とまをやぶってけものがとんでいったとおっしゃるではございませんか。)

その時も、苫を破って獣が飛んで行ったとおっしゃるではございませんか。

(ですからわたしは、」)

ですから私は、」

(とはやちからなげに、なよなよとするのであった。)

と早や力なげに、なよなよとするのであった。

など

(「いや、」)

「いや、」

(とあてなしにおおきくいった、が、いやなことはちっともない。どうして)

と当[あて]なしに大きく言った、が、嫌な事はちっともない。どうして

(みいだしたかをあやしまれて、わんのくちをよこぎって、おさなごに)

発見[みいだ]したかを怪しまれて、湾の口を横ぎって、穉児[おさなご]に

(ふねをこがせつつ、じぶんがかたったは、まずそのとおり。)

船を漕がせつつ、自分が語ったは、まずその通[とおり]。

(「ですけれども、なんですな。」)

「ですけれども、何ですな。」

(「いいえ」)

「いいえ」

(こんどはふじんからさえぎって、)

今度は夫人から遮って、

(「もうきのう、ふたつめのはまへまいりましたとちゅうから、それはそれはあなた、)

「もう昨日、二つ目の浜へ参りました途中から、それはそれは貴下[あなた]、

(いまわしいおそろしいことばかりで、わたしはなんだかやくそくごとのようにぞんじます。)

忌[いま]わしい恐ろしい事ばかりで、私は何だか約束ごとのように存じます。

(さんじゅうというとしにちかいこのとしになりますまで、わかいおりからなにひとつ)

三十という年に近いこの年になりますまで、少[わか]い折から何一つ

(くろうということはしりませんで、かなしいことも、つらいことも)

苦労ということは知りませんで、悲しい事も、辛い事も

(ついぞおぼえはありません、まだじっかにはりょうしんもたっしゃでいますみのうえですもの。)

ついぞ覚えはありません、まだ実家には両親も達者で居ます身の上ですもの。

(はらのたったことさえござんせん、あんまりかほうなからだですから、)

腹の立った事さえござんせん、余[あんま]り果報な身体ですから、

(みつればかくるとかもうしますとおり、こんなおそろしいめに)

盈[みつ]れば虧[か]くるとか申します通り、こんな恐しい目に

(あいましたので。ただいまここへふねをこいでくれました)

逢いましたので。唯今[ただいま]ここへ船を漕いでくれました

(こどもたちが、としこそちがいますけれども、そっくりおおきいのが)

小児[こども]たちが、年こそ違いますけれども、そっくり大きいのが

(せんさん、ちいさいほうがけんのすけににておりましたのも、みんな)

銑さん、小さい方が賢之助に肖[に]ておりましたのも、皆[みんな]

(わたしのめいすうで、なにかのいんねんなんでございましょうから。」)

私の命数で、何かの因縁なんでございましょうから。」

(いうことのきわめてたしかに、こころくるえるようすもないだけ、れんぺいは)

いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は

(ひとしおなぐさめかねる。)

一層[ひとしお]慰めかねる。

(ふじんはわずかにかたるうちも、あまたたびいきをつぎ、)

二十七 夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、

(「こどもともうしてもまましいなかで、)

「小児[こども]と申しても継[まま]しい中で、

(それでもきょうだいとも、ほんのことも、)

それでも姉弟[きょうだい]とも、真[ほん]の児[こ]とも、

(けんのすけはかわいくってなりません。ただこころにかかりますのはそれだけですが、)

賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、

(それもながねん、あなたがごたんせいくださいましたおかげで、)

それも長年、貴下[あなた]が御丹精下さいましたお庇[かげ]で、

(こうとうがっこうへにゅうがくもできましたのでございますから、きっとわたしのおもいでも、)

高等学校へ入学もできましたのでございますから、きっと私の思いでも、

(いちにんまえになりましょう。)

一人前になりましょう。

(もうわたしは、こんなからだ、みるのもいやでなりません。ぶつぶつきってきざんでも)

もう私は、こんな身体、見るのも厭でなりません。ぶつぶつ切って刻んでも

(すてたいようにおもうんですもの、ちっとものこりおしいことは)

棄てたいように思うんですもの、ちっとも残り惜[おし]いことは

(ないのですが、よくには、このうえのねがいには、これが、なにか、)

ないのですが、慾には、この上の願いには、これが、何か、

(ぎりとかいきとかもうすのでしぬんなら、ほんもうでございますのに、)

義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、

(いきながらちくしょうどうとはどうしたいんがなんでございましょうねえ。」)

活[い]きながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。」

(と、こころもややおちついたか、さきのようにはなきもせで、にごりもさった)

と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った

(すずしいめに、ほろりとしたのを、じっとみて、れんぺいたまりかねた)

涼しい目に、ほろりとしたのを、熟[じっ]とみて、廉平堪[たま]りかねた

(おももちして、くちびるをわななかし、こばなににゅうわなしわをきざんで、)

面色[おももち]して、唇をわななかし、小鼻に柔和な皺を刻んで、

(ふかくりょうてをこまぬいたが、ああ、われかつてちかうらく、)

深く両手を拱[こまぬ]いたが、噫[ああ]、我かつて誓うらく、

(いかなるときにのぞまんとも、わがこころ、わがすがた、わがそうごう、)

いかなる時にのぞまんとも、我[わが]心、我が姿、我が相好、

(かならずいったいのじぞうのごとくしかくあるべきなりと、そもさんかぼさつ。)

必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべき也[なり]と、そもさんか菩薩。

(「おくさん、どうしても、あなた、あやしい)

「夫人[おくさん]、どうしても、貴女[あなた]、怪[あやし]い

(けものに・・・・・・という、うたがいはとけんですか。」)

獣に……という、疑[うたがい]は解けんですか。」

(「はい、おはずかしゅうぞんじます。」とてをついて、たれにか)

「はい、お恥かしゅう存じます。」と手を支[つ]いて、誰[たれ]にか

(わびいる、そのいじらしさ。)

詫び入る、そのいじらしさ。

(まなこをとじたが、しばらくして、)

眼[まなこ]を閉じたが、しばらくして、

(「おそるべきです、おそるべきだ。ゆめうつつのあなたには、)

「恐るべきです、恐るべきだ。夢現[ゆめうつつ]の貴女[あなた]には、

(あくじゅうのたいにみえましたでありましょう。わたしのこころは)

悪獣[あくじゅう]の体[たい]に見えましたでありましょう。私の心は

(けだものでした。おくさん、ざんげをします。)

獣[けだもの]でした。夫人[おくさん]、懺悔をします。

(れんぺいがはくじょうするです。あなたにちじょくをこうむらしたものは、よつあしの)

廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、四脚[よつあし]の

(けものではない、けもののようなにんげんじゃ。)

獣ではない、獣のような人間じゃ。

(わたしです。)

私です。

(とりやまれんぺいいっしょうのまよいじゃ、ゆるしてください。」と、そのしゃつばかりの)

鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。」と、その襯衣[しゃつ]ばかりの

(うなじをたれた。)

頸[うなじ]を垂れた。

(ふじんははっとかおをあげて、てをつきざまにとみこうみつつ、)

夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに右視左瞻[とみこうみ]つつ、

(せなにみだれたちすじのくろかみ、とくべきすべも)

背[せな]に乱れた千筋[ちすじ]の黒髪、解くべき術[すべ]も

(ないのであった。)

ないのであった。

(「ゆるしてください。おたくへまいって、あさゆう、あなたにせっしたのが)

「許して下さい。お宅へ参って、朝夕、貴女[あなた]に接したのが

(いんがです。けんくんにたいしてほとんどけんしんてきにつくしたのは、やがて、これ、)

因果です。賢君に対して殆[ほと]んど献身的に尽したのは、やがて、これ、

(あなたにせいめいをささげていたのです。)

貴女[あなた]に生命を捧げていたのです。

(いまだよんじゅうというとしにもならんで、ごぞんじのとおり、わたしは、いろけもなく、)

未[いま]だ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、

(よくけもなく、みえもなく、およそしゅっせけんてきにちょうぜんとして、なにか、)

慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、

(みらいのれいこうをみとめておるようなおとこであったのをごぞんじでしょう。)

未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。

(なかなもって、みらいのれいこうではなく、あなたのそのうつくしい)

なかな以[もっ]て、未来の霊光ではなく、貴女のその美しい

(おすがたじゃなかった。)

お姿じゃなかった。

(けれども、とうていじんじょうではのぞみのかなわぬことをさとったですから、)

けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、

(こんどとうちのべっそうをおなごりに、あなたのおそばをはなれるについて、)

こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のお傍[そば]を離れるに就いて、

(ひじょうなしゅだんをもちいたですよ。)

非常な手段を用いたですよ。

(ごねんきんろうにむくいるのに、なにかきねんのしなをとのぞまれて、さとりも)

五年勤労に酬[むく]いるのに、何か記念の品をと望まれて、悟[さとり]も

(とくもなくていながら、ただぶったいをたてるのが、おもしろい、ぐあいの)

徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合の

(いいかんじがするで、いしじぞうをねがいました。)

いい感じがするで、石地蔵を願いました。

(いまのよに、さようなかわったことをいい、かわったことをのぞむものが、)

今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、

(なに・・・・・・をするとおもいなさる。)

何……をすると思いなさる。

(れんぺいはまほうづかいじゃ。」)

廉平は魔法づかいじゃ。」

(といしがみにふざしたそのようぼう、そのふうさい、あるいはしかあるべく)

と石上に跣坐[ふざ]したその容貌、その風采、或はしかあるべく

(みえるのであった。)

見えるのであった。

(ふじんは、ただものいわんとしてくちびるのわななくのみ。)

夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。

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