谷崎潤一郎 痴人の愛 62

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投稿者投稿者神楽@社長推しいいね0お気に入り登録
プレイ回数525難易度(4.5) 5385打 長文
谷崎潤一郎の中編小説です
私のお気に入りです
順位 名前 スコア 称号 打鍵/秒 正誤率 時間(秒) 打鍵数 ミス 問題 日付
1 スヌスムムリク 4372 C+ 4.4 97.6% 1249.4 5598 135 100 2024/04/02

関連タイピング

問題文

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(そのぜいじゃくな、うすいひふは、まだすいじょうきをふくみながらもまっしろにさえ、きものの)

その脆弱な、うすい皮膚は、まだ水蒸気を含みながらも真っ白に冴え、着物の

(えりにかくれているむねのあたりには、すいさいがのえのぐのようなむらさきいろのかげがあります。)

襟に隠れている胸のあたりには、水彩画の絵の具のような紫色の影があります。

(かおはつやつやと、ぜらちんのまくをはったかのごとくこうたくをおび、ただまゆげだけが)

顔はつやつやと、ゼラチンの膜を張ったかの如く光沢を帯び、ただ眉毛だけが

(じっとりとぬれていて、そのうえにはからりとはれたふゆのそらが、まどをすかして)

じっとりと濡れていて、その上にはカラリと晴れた冬の空が、窓を透して

(ほんのりあおくうつっています。)

ほんのり青く映っています。

(「どうしたんだい、あさっぱらからゆになんぞはいって」)

「どうしたんだい、朝ッぱらから湯になんぞ這入って」

(「どうしたっておおきなおせわよ。ああ、いいきもちだった」)

「どうしたって大きなお世話よ。ああ、いい気持だった」

(と、かのじょははなのりょうがわをひらてではたはたとかるくたたいて、それからぬうっと、かおを)

と、彼女は鼻の両側を平手でハタハタと軽く叩いて、それからぬうッと、顔を

(わたしのめのまえへつきだしました。)

私の眼の前へ突き出しました。

(「ちょいと!よくみてちょうだい、ひげがはえてる?」)

「ちょいと!よく見て頂戴、髭が生えてる?」

(「ああ、はえてるよ」)

「ああ、生えてるよ」

(「ついでにあたし、とこやへよってかおをそってくればよかったっけ」)

「ついでにあたし、床屋へ寄って顔を剃って来ればよかったっけ」

(「だっておまえはそるのがきらいだったじゃないか。せいようのおんなはけっしてかおを)

「だってお前は剃るのが嫌いだったじゃないか。西洋の女は決して顔を

(そらないといって。」)

剃らないと云って。」

(「だけどこのごろは、あめりかなんかじゃかおをするのがはやっているのよ。ね、)

「だけどこの頃は、亜米利加なんかじゃ顔を剃るのが流行っているのよ。ね、

(あたしのまゆげをごらんなさい、あめりかのおんなはこんなぐあいにみんなまゆげを)

あたしの眉毛を御覧なさい、亜米利加の女はこんな工合にみんな眉毛を

(そっているから」)

剃っているから」

(「ははあ、そうか、おまえのかおがこのあいだからつらがわりがして、まゆのかたちまで)

「ははあ、そうか、お前の顔がこの間から面変りがして、眉の形まで

(ちがっちまったのは、そこをそんなふうにそっているせいか」)

違っちまったのは、そこをそんな風に剃っているせいか」

(「ええ、そうよ、いまごろになってきがつくなんて、じせいおくれね」)

「ええ、そうよ、今頃になって気が付くなんて、時勢後れね」

など

(なおみはそういって、なにかべつなことをかんがえているようすでしたが、)

ナオミはそう云って、何か別な事を考えている様子でしたが、

(「じょうじさん、もうひすてりーはほんとうになおって?」)

「譲治さん、もうヒステリーはほんとうに直って?」

(と、ふいとそんなことをたずねました。)

と、ふいとそんなことを尋ねました。

(「うん、なおったよ。なぜ?」)

「うん、直ったよ。なぜ?」

(「なおったらじょうじさんにおねがいがあるの。これからとこやへでかけていくのは)

「直ったら譲治さんにお願いがあるの。これから床屋へ出かけて行くのは

(たいぎだから、あたしのかおをそってくれない?」)

大義だから、あたしの顔を剃ってくれない?」

(「そんなことをいって、またひすてりーをおこさせようってきなんだろう」)

「そんな事を云って、又ヒステリーを起させようッて気なんだろう」

(「あら、そうじゃないわよ、ほんとにまじめでたのむんだから、そのくらいな)

「あら、そうじゃないわよ、ほんとに真面目で頼むんだから、そのくらいな

(しんせつがあってもいいでしょ?もっともひすてりーをおこされて、けがでもさせられちゃ)

親切があってもいいでしょ?尤もヒステリーを起されて、怪我でもさせられちゃ

(たいへんだけれど」)

大変だけれど」

(「あんぜんかみそりをかしてやるから、じぶんでそったらいいじゃないか」)

「安全剃刀を貸してやるから、自分で剃ったらいいじゃないか」

(「ところがそうはいかないの。かおだけならいいけれど、くびのまわりから、ずうっと)

「ところがそうは行かないの。顔だけならいいけれど、頸の周りから、ずうッと

(かたのうしろのほうまでそるんだから」)

肩のうしろの方まで剃るんだから」

(「へえ、どうしてそんなところまでそるんだ?」)

「へえ、どうしてそんな所まで剃るんだ?」

(「だってそうでしょ、やかいふくをきればかたのほうまですっかりでるでしょ。」)

「だってそうでしょ、夜会服を着れば肩の方まですっかり出るでしょ。」

(そしてわざわざ、かたのにくをちょっとばかりだしてみせて、)

そしてわざわざ、肩の肉をちょっとばかり出して見せて、

(「ほら、ここいらまでそるのよ、だからじぶんじゃできやしないわ」)

「ほら、ここいらまで剃るのよ、だから自分じゃ出来やしないわ」

(そういってから、かのじょはあわててまたそのかたをすぽりとひっこめてしまいましたが、)

そう云ってから、彼女は慌てて又その肩をスポリと引っ込めてしまいましたが、

(まいどしてやられるてではありながら、それがわたしにはやはりていこうしがたいところの)

毎度してやられる手ではありながら、それが私には矢張抵抗し難いところの

(ゆうわくでした。なおみのやつ、かおがそりたいのでもなんでもないんだ、おれを)

誘惑でした。ナオミの奴、顔が剃りたいのでも何でもないんだ、己を

(ほんろうするつもりでゆにまではいってきやがったんだ。と、そうわかっては)

翻弄するつもりで湯にまで這入って来やがったんだ。と、そう分っては

(いましたけれども、とにかくはだをそらせるというのは、いままでにないひとつの)

いましたけれども、とにかく肌を剃らせると云うのは、今までにない一つの

(あたらしいちょうせんでした。きょうこそうんとちかくへよって、あのひふをしみじみと)

新しい挑戦でした。今日こそうんと近くへ寄って、あの皮膚をしみじみと

(みられる、もちろんさわってみることもできる。そうかんがえただけでもわたしは、)

見られる、もちろん触ってみることも出来る。そう考えただけでも私は、

(とてもかのじょのもうしいでをことわるゆうきはありませんでした。)

とても彼女の申出でを断る勇気はありませんでした。

(なおみはわたしが、かのじょのためにがすこんろでゆをわかしたり、それをかなだらいへ)

ナオミは私が、彼女のために瓦斯焜炉で湯を沸かしたり、それを金盥へ

(とってやったり、じれっとのはをつけかえたり、いろいろしたくを)

取ってやったり、ジレットの刃を附け換えたり、いろいろ支度を

(やっているあいだに、まどのところへつくえをもちだしてそのうえにちいさなかがみをたて、)

やっている間に、窓のところへ机を持ち出してその上に小さな鏡を立て、

(りょうあしのあいだへしりをぴたんこにおとしてすわって、つぎにはしろいおおきなたおるを)

両足の間へ臀をぴたんこに落して据わって、次には白い大きなタオルを

(えりのまわりへまきつけました。が、わたしがかのじょのうしろへまわって、こーるげーとの)

襟の周りへ巻き着けました。が、私が彼女のうしろへ廻って、コールゲートの

(しゃぼんのぼうをみずにぬらして、いよいよそろうとするとたんに、)

シャボンの棒を水に塗らして、いよいよ剃ろうとするとたんに、

(「じょうじさん、そってくれるのはいいけれど、ひとつのじょうけんがあることよ」)

「譲治さん、剃ってくれるのはいいけれど、一つの条件があることよ」

(と、いいだしました。)

と、云い出しました。

(「じょうけん?」)

「条件?」

(「ええ、そう。べつにむずかしいことじゃないの」)

「ええ、そう。別にむずかしい事じゃないの」

(「どんなことさ?」)

「どんな事さ?」

(「そるなんていってごまかして、ゆびでほうぼうつまんだりしちゃいやだわよ、ちっとも)

「剃るなんて云ってゴマカして、指で方々摘んだりしちゃ厭だわよ、ちっとも

(はだにさわらないようにして、そってくれなけりゃ」)

肌に触らないようにして、剃ってくれなけりゃ」

(「だっておまえ、」)

「だってお前、」

(「なにが「だって」よ、さわらないようにそれるじゃないの、しゃぼんはぶらしで)

「何が『だって』よ、触らないように剃れるじゃないの、シャボンはブラシで

(ぬればいいんだし、かみそりはじれっとをつかうんだし、・・・・・・・・・とこやへ)

塗ればいいんだし、剃刀はジレットを使うんだし、・・・・・・・・・床屋へ

(いってもじょうずなしょくにんはさわりゃしないわ」)

行っても上手な職人は触りゃしないわ」

(「とこやのしょくにんといっしょにされちゃあやりきれないな」)

「床屋の職人と一緒にされちゃあ遣り切れないな」

(「なまいきいってらあ、じつはそらしてもらいたいくせに!それがいやなら、)

「生意気云ってらあ、実は剃らして貰いたい癖に!それがイヤなら、

(なにもむりにはたのまないわよ」)

何も無理には頼まないわよ」

(「いやじゃあないよ。そういわないでそらしておくれよ、せっかくしたくまで)

「イヤじゃあないよ。そう云わないで剃らしておくれよ、折角支度まで

(しちゃったんだから」)

しちゃったんだから」

(わたしはなおみの、ぬきえもんにしたながいえりあしをみつめると、そういうよりほかは)

私はナオミの、抜き衣紋にした長い襟足を視詰めると、そう云うより外は

(ありませんでした。)

ありませんでした。

(「じゃ、じょうけんどおりにする?」)

「じゃ、条件通りにする?」

(「うん」)

「うん」

(「ぜったいにさわっちゃいけないわよ」)

「絶対に触っちゃいけないわよ」

(「うん、さわらない」)

「うん、触らない」

(「もしちょっとでもさわったら、そのときすぐにやめにするわよ。そのひだりのてを)

「もしちょっとでも触ったら、その時直ぐに止めにするわよ。その左の手を

(ちゃんとひざのうえにのせていらっしゃい」)

ちゃんと膝の上に載せていらっしゃい」

(わたしはいわれるとおりにしました。そしてみぎのほうのてだけをつかって、かのじょの)

私は云われる通りにしました。そして右の方の手だけを使って、彼女の

(くちのまわりからそっていきました。)

口の周りから剃って行きました。

(かのじょはうっとりと、かみそりのはでなでられていくかいかんをあじわっているかのように、)

彼女はうっとりと、剃刀の刃で撫でられて行く快感を味わっているかのように、

(ひとみをかがみのまえにすえて、おとなしくわたしにすらせていました。わたしのみみには、すうすうと)

瞳を鏡の前に据えて、大人しく私に剃らせていました。私の耳には、すうすうと

(ひくねむいようなこきゅうがきこえ、わたしのめには、そのあごのしたでぴくぴくしている)

引く睡いような呼吸が聞え、私の眼には、その頤の下でピクピクしている

(けいどうみゃくがみえています。わたしはいまや、まつげけのさきでさされるくらいかのじょのかおに)

頸動脈が見えています。私は今や、睫毛の先で刺されるくらい彼女の顔に

(せっきんしました。まどのそとにはかんそうしきったくうきのなかに、あさのひかりがほがらかにてり、)

接近しました。窓の外には乾燥し切った空気の中に、朝の光が朗らかに照り、

(ひとつひとつのけあながかぞえられるほどあかるい。わたしはこんなあかるいところで、こんなに)

一つ一つの毛孔が数えられるほど明るい。私はこんな明るい所で、こんなに

(いつまでも、そしてこんなにもせいさいに、じぶんのあいするおんなのめはなをぎょうししたことは)

いつまでも、そしてこんなにも精細に、自分の愛する女の目鼻を凝視したことは

(ありません。こうしてみるとそのうつくしさはきょじんのようないだいさをもち、ようせきを)

ありません。こうして見るとその美しさは巨人のような偉大さを持ち、容積を

(もっておってきます。そのおそろしくながくきれため、りっぱなけんちくぶつのように)

持って追って来ます。その恐ろしく長く切れた眼、立派な建築物のように

(ひいでたはな、はなからくちへつながっているとっこつとしたにほんのせん、そのせんのしたに、)

秀でた鼻、鼻から口へつながっている突兀とした二本の線、その線の下に、

(たっぷりふかくきざまれたあかいくちびる。ああ、これが「なおみのかお」というひとつのれいみょうな)

たっぷり深く刻まれた紅い唇。ああ、これが「ナオミの顔」と云う一つの霊妙な

(ぶっしつなのか、このぶっしつがおれのぼんのうのたねとなるのか。・・・・・・・・・そう)

物質なのか、この物質が己の煩悩の種となるのか。・・・・・・・・・そう

(かんがえるとじつにふしぎになってきます。わたしはおもわずぶらしをとって、そのぶっしつの)

考えると実に不思議になって来ます。私は思わずブラシを取って、その物質の

(ひょうめんへ、やけにしゃぼんのあわをたてます。が、いくらぶらしでかきまわしても、)

表面へ、ヤケにシャボンの泡を立てます。が、いくらブラシで掻き廻しても、

(それはしずかに、むていこうに、ただやわらかなだんりょくをもって)

それは静かに、無抵抗に、ただ柔かな弾力を以て

(うごくのみです。・・・・・・・・・)

動くのみです。・・・・・・・・・

(・・・・・・・・・わたしのてにあるかみそりは、ぎんいろのむしがはうようにしてなだらかな)

・・・・・・・・・私の手にある剃刀は、銀色の虫が這うようにしてなだらかな

(はだをはいおり、そのうなじからかたのほうへうつっていきました。かっぷくのいいかのじょの)

肌を這い下り、その項から肩の方へ移って行きました。かっぷくのいい彼女の

(せなかが、まっしろなぎゅうにゅうのように、ひろく、うずたかく、わたしのしやにはいってきました。)

背中が、真っ白な牛乳のように、広く、堆く、私の視野に這入って来ました。

(いったいかのじょは、じぶんのかおはみているだろうが、せなかがこんなにうつくしいことを)

一体彼女は、自分の顔は見ているだろうが、背中がこんなに美しいことを

(しっているだろうか?かのじょじしんはおそらくはしるまい。それをいちばん)

知っているだろうか?彼女自身は恐らくは知るまい。それを一番

(よくしっているのはわたしだ、わたしはかつてこのせなかを、まいにちゆにいれて)

よく知っているのは私だ、私は嘗てこの背中を、毎日湯に入れて

(ながしてやったのだ。)

流してやったのだ。

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