山本周五郎 赤ひげ診療譚 鶯ばか 七(終)
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問題文
(よるはすっかりあけたが、こいきりがおりていて、に、さんげんさきのみとおしも)
夜はすっかりあけたが、濃い霧がおりていて、二、三間さきの見透しも
(つかなかった。ろじのさゆうでは、こがいでにたきをするものがおおく、そのひのそばには)
つかなかった。路地の左右では、戸外で煮炊きをする者が多く、その火の側には
(おとこたちか、ろうばのすがたしかみえなかった。あかくきりをぼかしているひのそばから、)
男たちか、老婆の姿しか見えなかった。赤く霧を暈している火の側から、
(おとこたちはのぼるによびかけ、わらいながら、むこうできこえるさわぎのほうへかたをしゃくって)
男たちは登に呼びかけ、笑いながら、向うで聞える騒ぎのほうへ肩をしゃくって
(みせた。 「かかあれんちゅうのおなぐさみでさ、へっ」とおとこのひとりはいった、「みんな)
みせた。 「かかあ連中のお慰みでさ、へっ」と男の一人は云った、「みんな
(こういうことになるのをまってたんですからね、ああいうおんなはかかあれんちゅうには)
こういうことになるのを待ってたんですからね、ああいう女はかかあ連中には
(あだがたきみてえなもんだ、うっちゃっときなせえせんせい、へたにとめようとでも)
仇がたきみてえなもんだ、うっちゃっときなせえ先生、へたにとめようとでも
(するとひっかかれますぜ」 「そうらしいな」のぼるはたちどまった。)
するとひっ掻かれますぜ」 「そうらしいな」登は立停まった。
(きりでわからないが、おきぬのいえのあたりで、かざいでもなげだしているらしい、)
霧でわからないが、おきぬの家のあたりで、家財でも投げだしているらしい、
(きぶつのこわれるおとがし、おんなたちがもみあいわめきあっていた。なかでもいちばんよく)
器物の毀れる音がし、女たちが揉みあい喚きあっていた。中でもいちばんよく
(きこえるのはおけいと、とうのおきぬのこえであった。 「なぐりゃがったな、うぬ」と)
聞えるのはおけいと、当のおきぬの声であった。 「殴りゃがったな、うぬ」と
(いうのはおきぬのこえである、「ひとのあたまへてをあてやがったな、こいつら、きっ」)
いうのはおきぬの声である、「人の頭へ手を当てやがったな、こいつら、きっ」
(「これがにんげんのあたまか、これが」というのはおけいのこえで、「てめえにあるのは)
「これが人間の頭か、これが」というのはおけいの声で、「てめえにあるのは
(こしだけだろう、このこしでおとこをちょろまかしゃあがって、このくちでひとを)
腰だけだろう、この腰で男をちょろまかしゃあがって、この口で人を
(ころしゃあがった、このいんらんのひとごろしあま、こうしてくれるぞ」 「なにが)
殺しゃあがった、この淫乱の人殺しあま、こうしてくれるぞ」 「なにが
(ひとごろしだ、いっ」とおきぬがどなりかえす、なぐりあうおとといっしょだが、)
人殺しだ、いっ」とおきぬがどなり返す、殴りあう音といっしょだが、
(はりのあるいさましいこえだ、「どろぼうだからどろぼうだっていったんだ、それがなんで)
張りのあるいさましい声だ、「泥棒だから泥棒だって云ったんだ、それがなんで
(ひとごろしだ」 「ちょうがどろぼうならうぬはおとこぬすっとのおとこごうとうのはっつけあまだ、)
人殺しだ」 「長が泥棒ならうぬは男ぬすっとの男強盗のはっつけあまだ、
(こう、こう、こう」なぐるおととどうじにおけいがさけぶ、「でていけ、てめえなんぞに)
こう、こう、こう」殴る音と同時におけいが叫ぶ、「出ていけ、てめえなんぞに
(いられちゃあながやぜんたいのはじっさらしだ、うせろ、でてうせろ」 「でていけ)
いられちゃあ長屋ぜんたいの恥っさらしだ、うせろ、出てうせろ」 「出ていけ
(このあま」ほかのにょうぼうのこえがきこえた、「うちのやどろくにまでいろめなんぞ)
このあま」他の女房の声が聞えた、「うちの宿六にまでいろ眼なんぞ
(つかやあがって、こんちくしょう、かっちゃぶいてくれる」 「きっ、)
使やあがって、こんちくしょう、かっちゃぶいてくれる」 「きっ、
(やりゃあがったな」 「かっちゃぶいてくれる、このいろきちげえめ、)
やりゃあがったな」 「かっちゃぶいてくれる、このいろきちげえめ、
(しんじまえ」 のぼるはきびすをかえしてさはいのいえへいった。)
死んじまえ」 登は踵を返して差配の家へいった。
(はんつきのち、ごろきちふうふはながやをさった。よにんのこのいこつをもって、どこへ)
半月のち、五郎吉夫婦は長屋を去った。四人の子の遺骨を持って、どこへ
(いくともいわず、せわになったれいまわりをすると、ふうふでよりそうようにして)
いくとも云わず、世話になった礼廻りをすると、夫婦でより添うようにして
(たちさったということだ。ようじょうしょのいんをついたとどけしょと、さはいやながやのひとたちの)
たち去ったということだ。養生所の印をついた届書と、差配や長屋の人たちの
(くちがきとでさいわいまちかたのほうはとがめなしにすんだが、それにはひとつのだいしょうを)
口書とで幸い町方のほうは咎めなしに済んだが、それには一つの代償を
(はらわなければならなかった。--というのは。 あるひ、「いずさまうら」を)
払わなければならなかった。--というのは。 或る日、「伊豆さま裏」を
(とおりかかって、ふとじゅうべえをみまうきになり、さはいのいえによると、「うへえは)
通りかかって、ふと十兵衛をみまう気になり、差配の家に寄ると、「卯兵衛は
(ないしょくのことで、じゅうべえのところへいった」という。それでろじへはいっていくと、)
内職のことで、十兵衛のところへいった」という。それで路地へ入っていくと、
(むこうからきたおんながこえをかけた。みるとおきぬなのでおどろいたが、れいのとおり)
向うから来た女が声をかけた。見るとおきぬなので驚いたが、例のとおり
(あつげしょうをし、ちいさなあかげのまげから、やすあぶらのにおいをぷんぷんさせながら、かのじょは)
厚化粧をし、小さな赤毛の髷から、安油の匂いをぷんぷんさせながら、彼女は
(まんめんにこびをたたえてほほえみかけた。 「あらせんせい、おひさしぶり」とおきぬはなまめかしく)
満面に媚を湛えて頬笑みかけた。 「あら先生、お久しぶり」とおきぬは矯しく
(いった、「よくごせいがでますことね、あたしもこのところ、またずつうがつづいて)
云った、「よく御精が出ますことね、あたしもこのところ、また頭痛が続いて
(こまってるんですの、いちどぜひうちへきてーー」 のぼるはききながして)
困ってるんですの、いちどぜひうちへ来てーー」 登は聞きながして
(あるきだしたが、どくのあるけむしにでもさわったように、からだじゅうがちくちくする)
歩きだしたが、毒のある毛虫にでも触ったように、躰じゅうがちくちくする
(ほどのいやらしさと、けんおかんにおそわれた。じゅうべえのいえへいくとうへえが)
ほどのいやらしさと、嫌悪感におそわれた。十兵衛の家へいくと卯兵衛が
(いたので、いまおきぬにあったことをつげ、「まだここにいたのか」ときいた。)
いたので、いまおきぬに会ったことを告げ、「まだ此処にいたのか」と訊いた。
(「あいつにはてをあげました」うへえはうんざりしたようにいった、「ながやを)
「あいつには手をあげました」卯兵衛はうんざりしたように云った、「長屋を
(おいだすんなら、ごろきちいっかのしんじゅう、こどもよにんのしんだことをまちかたへうったえて)
追い出すんなら、五郎吉一家の心中、子供四人の死んだことを町方へ訴えて
(でるってんでね、--あいつのことだからやりかねませんや、そんなことに)
出るってんでね、--あいつのことだからやりかねませんや、そんなことに
(なればながやじゅうのめいわくですからね、みんなにもいんがをふくめて、とうとう)
なれば長屋じゅうの迷惑ですからね、みんなにも因果を含めて、とうとう
(そのままということになったんです、いやもう、まったくたいしたおんながあった)
そのままということになったんです、いやもう、まったくたいした女があった
(もんでさ」 のぼるはむねがむかついてきた。そのむねのむかつきからのがれるように、)
もんでさ」 登は胸がむかついて来た。その胸のむかつきから遁れるように、
(じゅうべえのようすをみよう、とかれはいった。 おみきはたってちゃのしたくにかかり、)
十兵衛のようすを診よう、と彼は云った。 おみきは立って茶の支度にかかり、
(じゅうべえはいつものところにすわったまま、じっとかもいをみあげていた。はじめの)
十兵衛はいつものところに坐ったまま、じっと鴨居を見あげていた。初めの
(ころよりこえたらしく、かたなどまるまるとしていたし、ほおなどもずっと)
ころより肥えたらしく、肩などまるまるとしていたし、頬などもずっと
(にくづいていた。のぼるはそばへいってすわり、ぐあいはどうだ、といいかけたが、すぐ)
肉づいていた。登は側へいって坐り、ぐあいはどうだ、と云いかけたが、すぐ
(じゅうべえに「しっ」とせいしされた。じゅうべえはかもいのほうへそーっとみみをかたむけた。)
十兵衛に「しっ」と制止された。十兵衛は鴨居のほうへそーっと耳を傾けた。
(そうして、しずかにそっちをゆびさしながら、のぼるにむかってうなずいた。 「きいて)
そうして、静かにそっちを指さしながら、登に向かって頷いた。 「聞いて
(ごらんなさい、いいこえでしょう」とじゅうべえはたのしそうにいった、「このうぐいすは)
ごらんなさい、いい声でしょう」と十兵衛はたのしそうに云った、「この鶯は
(せんりょうつんだってうれやしません、なんていいなきごえでしょうかね、あのさえずり、)
千両積んだって売れやしません、なんていい鳴き声でしょうかね、あの囀り、
(ーーこころがしんからすうっとするじゃありませんか」)
ーー心がしんからすうっとするじゃありませんか」