悪獣篇 泉鏡花 1

背景
投稿者投稿者神楽@社長推しいいね1お気に入り登録
プレイ回数568難易度(4.5) 5387打 長文
泉鏡花の中編小説です

関連タイピング

問題文

ふりがな非表示 ふりがな表示

(つれのふじんがちょっとみちよりをしたので、せんたろうは、とっつきにさんもんのががと)

一 つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、銑太郎は、取附きに山門の峨々と

(そびえた。おおでらのいしだんのまえにたちとどまって、そのでてくるのを)

聳えた。巨刹[おおでら]の石段の前に立留まって、その出て来るのを

(まちあわせた。)

待ち合せた。

(もんのはしらに、まいげつじゅうごじゅうろくにちとうざんせっきょうとはりがみした、かたわらに、)

門の柱に、毎月[まいげつ]十五十六日当山説教と貼紙した、傍らに、

(とうきょう・・・・・・ちゅうがっこうすいえいぶがっしゅくじょとまたしるしてある。すかしてみると、)

東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。透[すか]して見ると、

(はいいろのなみを、ななめにもりのなかにかけたような、とうのしたに、うすぐらいまどのかず、)

灰色の浪を、斜めに森の間[なか]にかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、

(いわあなのおもむきして、さんにんごにん、ちいさくあちこちにひとのかたち。ぬぎすてた、)

厳穴[いわあな]の趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ棄てた、

(ゆかた、しゃつ、うわぎなど、ちらちらとなぎさににて、くろくふかく、)

浴衣、襯衣[しゃつ]、上衣など、ちらちらと渚に似て、黒く深く、

(うしろのやままでなかくぼになったのはほんどうであろう。わにして)

背後[うしろ]の山まで凹[なかくぼ]になったのは本堂であろう。輪にして

(だんだんにともしたろうのあかりが、きいろにもえてえがいたよう。)

段々に点した蝋の灯が、黄色に燃えて描いたよう。

(むこうがわは、そでがき、しおりど、なつくさのしげきがなかにはやざきのあきのはな。いずれも)

向う側は、袖垣、枝折戸、夏草の茂きが中に早咲の秋の花。いずれも

(こなたをせどにしてべっそうだちがにさんけん、ひさしにうなばらの)

此方[こなた]を背戸にして別荘だちが二三軒、廂[ひさし]に海原の

(みどりをかけて、すだれにおきのふねをぬわせたこしらえ。はねつるべのたけもうごかず、)

緑をかけて、簾に沖の船を縫わせた拵え。刎釣瓶[はねつるべ]の竹も動かず、

(かやりのけむりのなびくもなき、なつのさかりのごごよじごろ。はまべはにえてにぎやかに、)

蚊遣の煙の靡くもなき、夏の盛の午後四時ごろ。浜辺は煮えて賑やかに、

(まちはさびしいこかげのほそみち、たらたらざかをおりてきた、)

町は寂しい樹陰[こかげ]の細道、たらたら坂[ざか]を下りて来た、

(ゆくてはいしがきからおれまがる、しばらくここにくぼんだところ、ちょうどそのてらの)

前途[ゆくて]は石垣から折曲る、しばらくここに窪んだ処、ちょうどその寺の

(こけむしたあおぐろいだんのした、こみぞがあって、しぼまぬつきくさ、こんじょうのそらが)

苔蒸した青黒い段の下、小溝があって、しぼまぬ月草、紺青の空が

(もれすくかと、つゆもはらはらとこぼれさいて、やぶはしぜんのてらのかき。)

漏れ空くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、藪は自然の寺の垣。

(ちょうどそのたらたらさかをおりた、このたけやぶのはずれに、わらじ、)

ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草鞋[わらじ]、

(ぞうり、だがしのはこなどみせにならべた、やねはかやぶきの、かつやぶれ、かつふるびて、)

草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は茅ぶきの、且つ破れ、且つ古びて、

など

(いくあきのつきやさし、あめやもりけん。いりぐちのどまなんど、いにしえのぬまの)

幾秋の月や映[さ]し、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の

(ひかたまったをそのままらしい。ひさしはたてに、かべはよこに、いまもやたいはうきしずみ、)

干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、

(あやうくほったての、はしらばしら、はなればなれにかたむいているのを、かれはなにこころなく)

危く掘立の、柱々、放れ放れに傾いているのを、渠[かれ]は何心なく

(みてすぎた。つれはそのみせへよったのである。)

見て過ぎた。連れはその店へ寄ったのである。

(「むかし・・・・・・むかし、うらしまは、こどものとらえしかめをみて、あわれとおもい)

「昔……昔、浦島は、小児[こども]の捉えし亀を見て、あわれと思い

(かいとりて、・・・・・・」と、すさむともなくくちにしたのは、べっそうのあたりの)

買い取りて、……」と、誦[すさ]むともなく口にしたのは、別荘のあたりの

(ゆうまぐれに、むらのこどもらのとなうのをききおぼえが、おりからこころに)

夕間暮れに、村の小児等[こどもら]の唱うのを聞き覚えが、折から心に

(うつったのである。)

移ったのである。

(せんたろうは、ふとてにしたまきたばこにこころついて、うたをやめた。)

銑太郎は、ふと手にした巻莨[まきたばこ]に心着いて、唄をやめた。

(「まっちをかいにはいったのかな。」)

「早附木[マッチ]を買いに入ったのかな。」

(うっかりしてたったのが、こみせのかたにめをそそいで、)

うっかりして立ったのが、小店の方[かた]に目を注いで、

(「ああ、そうかもしれん。」となつぼうのなかで、うなずいてひとりごと。)

「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、頷いて独言[ひとりごと]。

(べつにこころにとめもせず、なんのきもなくなると、つい、うかうかとくちへでる。)

別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。

(「あるひおおきなかめがでて、か。もうしもうしうらしまさん」)

「一日[あるひ]大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん」

(ぼうをかたむけ、かおをあげたが、やぶにならんでたったのでは、こなたのそでに)

帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此方[こなた]の袖に

(かくれるので、みちをたいむこうへ。べっそうのそでがきから、ななめに)

隠れるので、路[みち]を対方[むこう]へ。別荘の袖垣から、斜[ななめ]に

(さかのほうをすかしてみると、つれのゆかたは、その、ほのぐらいこみせにえんなり。)

坂の方を透かして見ると、連の浴衣は、その、ほの暗い小店に艷[えん]なり。

(「なにをしているんだろう。もうしもうしうらしまさん・・・・・・じゃない、うらこさんだ。」)

「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」

(とはがんしつつ、ぼうのふちにてをかけて、のびあがるようにしたけれども、)

と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、

(のきをはなれそうにもせぬのであった。)

軒を離れそうにもせぬのであった。

(「みせぐるみそうじまいにして、ひとつひとつふくろへいれたって、)

「店ぐるみ総じまいにして、一箇[ひとつ]々々袋へ入れたって、

(もうかたがつくじぶんじゃないか。」)

もう片が附く時分じゃないか。」

(とつぶやくうちにまじめになった、せんたろうはわれながら、)

と呟くうちに真面目になった、銑太郎は我ながら、

(「じょうだんじゃない、てまがとれる。どうしたんだろう、)

「串戯[じょうだん]じゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、

(おかしいな。」)

おかしいな。」

(とはおもったが、ありありかしこに、なんのいじょうなく)

二 とは思ったが、歴々[ありあり]彼処に、何の異状なく

(たたずんだのがみえるから、きづかうにもおよぶまい。ねんのために)

彳[たたず]んだのが見えるから、憂慮[きづかう]にも及ぶまい。念のために

(こえをかけてよぼうにも、このまっぴるま。みえるところにつれをおいて、おおいおおいも)

声を懸けて呼ぼうにも、この真昼間。見える処に連を置いて、おおいおおいも

(ちゃばんらしい。ことにおんなではあるし、とおもう。)

茶番らしい。殊に婦人[おんな]ではあるし、と思う。

(いまにもきそうで、でむくきもせず。ひのないまきたばこを)

今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻莨[まきたばこ]を

(てにしたまま、おなじところにたたずんで、じっとそなたを。)

手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其方[そなた]を。

(なんとなくぼんやりして、ああ、いえも、みちも、てらも、たけやぶをもるあおぞらながら、)

何となくぼんやりして、ああ、家も、路も、寺も、竹藪を漏る蒼空ながら、

(つちのそこのよにもなりはせずや、つれはゆかたのそめいろも、)

地[つち]の底の世にもなりはせずや、連は浴衣の染色[そめいろ]も、

(あさきあじさいのはなになって、こみぞのやみにおもかげのみ。われは)

浅き紫陽花の花になって、小溝の暗[やみ]に俤[おもかげ]のみ。我は

(このままいしになって、ときのとおくなったとき、はっとあしがでて、かぜがでて、)

このまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、

(おんなはのきをはなれてでた。)

婦人[おんな]は軒を離れて出た。

(こばしりにいそいでくる、あおばのなかによるなみのはらはらとつまさきしろく、)

小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪尖[つまさき]白く、

(こいくろかみのふさやかなそうのびんづら、あさぎのひもにむすびはてず、)

濃い黒髪の房やかな双の鬢[びんづら]、浅葱の紐に結び果てず、

(かいすいぼうをしぼってかぶった、ゆたかなほおにつややかになびいて、いろのしろいがうすげしょう。)

海水帽を絞って被った、豊な頬に艷やかに靡いて、色の白いが薄化粧。

(みずいろちりめんのけだしのつま、はらはらはちすのつぼみをさばいて、すあしながら)

水色縮緬の蹴出の褄、はらはら蓮[はちす]の莟を捌いて、素足ながら

(きよらかに、ぞうりばきのほこりもたたず、いそいでむかえたしょうねんに、ばったりとやぶのまえ。)

清らかに、草履ばきの埃も立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。

(「おばさん、」)

「叔母さん、」

(とこえをかけて、とみるとこれがおとにきこえた、もゆるようなあかのくちびる、)

と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、燃[もゆ]るような朱の唇、

(ものいいたさをさきんじられてこうばいのはなゆらぐよう。くろめがちのすずしやかに、)

ものいいたさを先んじられて紅梅の花揺ぐよう。黒目勝の清[すず]しやかに、

(うつくしくすなおなまゆの、こきにやすぐるとけむったのは、いつかづきに)

美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五日月[いつかづき]に

(あおやぎのかげややふかきおもむきあり。うらこというはにじゅうなな。)

青柳の影やや深き趣あり。浦子というは二十七。

(ごうしょうさじまのれいしつで、せんたろうはおばにあたる。)

豪商狭島[さじま]の令室で、銑太郎は叔母に当る。

(このみちをさるじゅうにさんちょう、ていしゃじょうよりのかいがんに、いしがきたかくまつをめぐらし、)

この路を去る十二三町、停車場寄の海岸に、石垣高く松を繞[めぐ]らし、

(ろうかでつないでみむねにわけた、もんにはしんちくのながやがあって、てぐるまの)

廊下で繋いで三棟[みむね]に分けた、門には新築の長屋があって、手車の

(しゃふのひかえるしんしょう。)

車夫の控える身上[しんしょう]。

(もすそをいとうすなならばみちにこがねをしきもせん、そらいろのようふくのつまを)

裳[もすそ]を厭う砂ならば路に黄金を敷きもせん、空色の洋服の褄を

(とったすがたさえ、みにかなえばからめかで、はごろもきたりともてはやすを、)

取った姿さえ、身にかなえば唐めかで、羽衣着たりと持て囃すを、

(しろえりでかさねのおりから、うすものにあやのおびのとき、ゆあがりのおしろいに)

白襟で襲衣[かさね]の折から、羅[うすもの]に綾の帯の時、湯上りの白粉に

(しごきはなんというやらん。このひとのためならば、このあたりの)

扱帯[しごき]は何というやらん。この人のためならば、このあたりの

(はまのなも、さじまがうらととなえつびょう、りぼんかけたる、)

浜の名も、狭島が浦と称[とな]えつびょう、リボンかけたる、

(こうがいしたる、なつのおんなのおおいなかに、うみだいいちときこえたたおやめ。)

笄[こうがい]したる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美女[たおやめ]。

(ぼうしのうちのひのかげに、ながいまつげのせいならず、おいをみために)

帽子の裡[うち]の日の蔭に、長いまつげのせいならず、甥を見た目に

(さえがなく、かおのいろもうすくくもって、)

冴がなく、顔の色も薄く曇って、

(「せんさん。」)

「銑さん。」

(とばかりいった、ゆかたのむねはいきぜわしい。)

とばかり云った、浴衣の胸は呼吸[いき]ぜわしい。

(「どうしたんです、なにをかっていらしったんです。びっくりするほど)

「どうしたんです、何を買っていらしったんです。驚愕[びっくり]するほど

(ながかった。」)

長かった。」

(うちみになんのしさいはなきが、ものおじしたらしいおばのさまを、たかだか)

打身に何の仔細はなきが、物怖したらしい叔母の状[さま]を、たかだか

(れいのけむしだろう、とわらいながらいうかおを、なさけらしくじっとみて、)

例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、情らしく熟[じっ]と見て、

(「まあ、のんきらしい、まっちをとってあげたんじゃあありませんか。」)

「まあ、呑気らしい、早附木を取って上げたんじゃあありませんか。」

(はじめて、ほっとしたようす。)

はじめて、ほッとした様子。

(「ちょうだい!いつかのくついらいです。こうはおばさんでなくっちゃできないことです。)

「頂戴!いつかの靴以来です。こうは叔母さんでなくッちゃ出来ない事です。

(ぼくもそうだろうとおもったんです。」)

僕もそうだろうと思ったんです。」

(「そうだろうじゃありませんわ。」)

「そうだろうじゃありませんわ。」

(「じゃ、まっちではないんですか。」)

「じゃ、早附木ではないんですか。」

(「いいえ、せんさんがたばこをだすと、まっちがないから、)

三 「いいえ、銑さんが煙草を出すと、早附木がないから、

(うっちゃっておくと、またいつものように、たばこにはおもいやりがない、)

打棄[うっちゃ]っておくと、またいつものように、煙草には思い遣りがない、

(かんとくのようだなんていうだろうとおもって、きをきかして、)

監督のようだなんて云うだろうと思って、気を利かして、

(ちょうど、あのみせで、」)

ちょうど、あの店で、」

(とみをよこに、かかとをうかして、こわいもののようにふりかえって、)

と身を横に、踵を浮かして、恐いもののように振返って、

(「みつかったからね、だまってかってあげようとおもってはいったんですがね、)

「見附かったからね、黙って買って上げようと思って入ったんですがね、

(おかげでたいへんなおもいをしたんですよ。ああ、こわかった。」)

お庇[かげ]で大変な思いをしたんですよ。ああ、恐かった。」

(とそのままにはあしもすすまず、がっかりしたようなふぜいである。)

とそのままには足も進まず、がッかりしたような風情である。

問題文を全て表示 一部のみ表示 誤字・脱字等の報告

神楽@社長推しのタイピング

オススメの新着タイピング

タイピング練習講座 ローマ字入力表 アプリケーションの使い方 よくある質問

人気ランキング

注目キーワード