「吾輩は猫である」鹿
著者 夏目漱石
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問題文
(わがままもこのくらいならがまんするがわがはいはにんげんのふとくについてこれよりも)
我儘もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも
(すうばいかなしむべきほうどうをみみにしたことがある。わがはいのいえのうらにじゅうつぼばかりのちゃえんがある。)
数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園が
(ある。ひろくはないがさっぱりとしたこころもちすくひのあたるところだ。うちのこどもがあまり)
ある。広くはないが瀟洒とした心持ち好く日の当る所だ。うちの小供があまり
(さわいでらくらくひるねのできないときや、あまりたいくつではらかげんのよくないおりなどは、)
騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、
(わがはいはいつでもここへでてこうぜんのきをやしなうのがれいである。あるこはるのおだやかかなひの)
吾輩はいつでもここへ出て浩然の気を養うのが例である。ある小春の穏かな日の
(にじごろであったが、わがはいはちゅうはんごこころよよくいっすいしたのち、)
二時頃であったが、吾輩は昼飯後快よく一睡した後、
(うんどうかたがたこのちゃえんへとほをはこばした。ちゃのきのねをいっぽんいっぽんかぎながら、)
運動かたがたこの茶園へと歩を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、
(にしがわのすぎがきのそばまでくると、かれぎくをおしたおしてそのうえにおおきなねこが)
西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな猫が
(ぜんごふかくにねている。かれはわがはいのちかづくのもいっこうこころづかざるごとく、)
前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向心付かざるごとく、
(またこころづくもむとんちゃくなるごとく、おおきないびきをしてながながとからだをよこたえてねむっている。)
また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾をして長々と体を横えて眠っている。
(ひとのていないにしのびいりたるものがかくまでへいきにねむられるものかと、わがはいは)
他の庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に睡られるものかと、吾輩は
(ひそかにそのだいたんなるどきょうにおどろかざるをえなかった。かれはじゅんすいのくろねこである。)
窃かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫である。
(わずかにごをすぎたるたいようは、とうめいなるこうせんをかれのひふのうえになげかけて、)
わずかに午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛げかけて、
(きらきらするにこげのあいだよりめにみえぬほのおでももえいずるようにおもわれた。)
きらきらする柔毛の間より眼に見えぬ炎でも燃え出ずるように思われた。
(かれはねこちゅうのだいおうともいうべきほどのいだいなるたいかくをゆうしている。わがはいの)
彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の
(ばいはたしかにある。わがはいはたんしょうのねんと、こうきのこころにぜんごをわすれてかれのまえに)
倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に
(ちょりつしてよねんもなくながめていると、しずかなるこはるのかぜが、すぎがきのうえからでたる)
佇立して余念もなく眺めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる
(ごとうのえだをかろくさそってばらばらとにさんまいのはがかれぎくのしげみにおちた。)
梧桐の枝を軽く誘ってばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。
(だいおうはかっとそのまんまるのめをひらいた。いまでもきおくしている。そのめは)
大王はかっとその真丸の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は
(にんげんのちんちょうするこはくというものよりもはるかにうつくしくかがやいていた。)
人間の珍重する琥珀というものよりも遥かに美しく輝いていた。
(かれはみうごきもしない。そうぼうのおくからいるごときひかりをわがはいのわいしょうなるひたいのうえに、)
彼は身動きもしない。双眸の奥から射るごとき光を吾輩の矮小なる額の上に
(あつめてごめえはいったいなんだといった。だいおうにしてはしょうしょうことばがいやしいとおもったが)
あつめて御めえは一体何だと云った。大王にしては少々言葉が卑しいと思ったが
(なにしろそのこえのそこにいぬをもひしぐべきちからがこもっているのでわがはいは)
何しろその声の底に犬をも挫しぐべき力が籠っているので吾輩は
(すくなからずおそれをいだいた。しかしあいさつをしないとけんのんだとおもったから)
少なからず恐れを抱いた。しかし挨拶をしないと険呑だと思ったから
(「わがはいはねこである。なまえはまだない」となるべくへいきをよそおってれいぜんとこたえた。)
「吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を装って冷然と答えた。
(しかしこのときわがはいのしんぞうはたしかにへいじよりもはげしくこどうしておった。かれはおおいに)
しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大に
(けいべつせるちょうしで「なに、ねこだ?ねこがきいてあきれらあ。ぜんてえどこに)
軽蔑せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全てえどこに
(すんでるんだ」ずいぶんぼうじゃくぶじんである。「わがはいはここのきょうしのうちにいるのだ」)
住んでるんだ」随分傍若無人である。「吾輩はここの教師の家にいるのだ」
(「どうせそんなことだろうとおもった。いやにやせてるじゃねえか」とだいおうだけに)
「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠せてるじゃねえか」と大王だけに
(きえんをふきかける。ことばつきからさっするとどうもりょうけのねこともおもわれない。)
気焔を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。
(しかしそのあぶらぎってひまんしているところをみるとごちそうをくってるらしい、)
しかしその膏切って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、
(ゆたかにくらしているらしい。わがはいは)
豊かに暮しているらしい。吾輩は
(「そういうきみはいったいだれだい」ときかざるをえなかった。「おれあくるまやのくろよ」)
「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「己れあ車屋の黒よ」
(こうぜんたるものだ。くるまやのくろはこのきんぺんでしらぬものなきらんぼうねこである。)
昂然たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。
(しかしくるまやだけにつよいばかりでちっともきょういくがないからあまりだれもこうさいしない。)
しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。
(どうめいけいえんしゅぎのまとになっているやつだ。わがはいはかれのなをきいてしょうしょうしりこそばゆき)
同盟敬遠主義の的になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき
(かんじをおこすとどうじに、いっぽうではしょうしょうけいぶのねんもしょうじたのである。わがはいはまず)
感じを起すと同時に、一方では少々軽侮の念も生じたのである。吾輩はまず
(かれがどのくらいむがくであるかをためしてみようとおもってさのもんどうをしてみた。)
彼がどのくらい無学であるかを試してみようと思って左の問答をして見た。
(「いったいくるまやときょうしとはどっちがえらいだろう」「くるまやのほうがつよいにきまって)
「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」「車屋の方が強いに極って
(いらあな。ごめえのうちのしゅひとをみねえ、まるでほねとかわばかりだぜ」「きみも)
いらあな。御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」「君も
(くるまやのねこだけにだいぶつよそうだ。くるまやにいるとごちそうがくえるとみえるね」)
車屋の猫だけに大分強そうだ。車屋にいると御馳走が食えると見えるね」
(「なあにおれなんざ、どこのくにへいったってくいものにふじゆうはしねえつもりだ。)
「何におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。
(ごめえなんかもちゃばたけばかりぐるぐるまわっていねえで、ちっとおれのあとへ)
御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己の後へ
(くっついてきてみねえ。いちとつきとたたねえうちにみちがえるようにふとれるぜ」)
くっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
(「おってそうねがうことにしよう。しかしうちはきょうしのほうがくるまやよりおおきいのにすんで)
「追ってそう願う事にしよう。しかし家は教師の方が車屋より大きいのに住んで
(いるようにおもわれる」「べらぼうめ、うちなんかいくらおおきくたってはらのたしになる)
いるように思われる」「箆棒め、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになる
(もんか」かれはおおいにかんしゃくにさわったようすで、かんちくをそいだようなみみをしきりと)
もんか」彼は大に肝癪に障った様子で、寒竹をそいだような耳をしきりと
(ぴくつかせてあららかにたちさった。わがはいがくるまやのくろとちきになったのは)
ぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己になったのは
(これからである。そのごわがはいはたびたびくろとかいこうする。かいこうするごとにかれはくるまやそうとうの)
これからである。その後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼は車屋相当の
(きえんをはく。さきにわがはいがみみにしたというふとくじけんもじつはくろからきいたのである。)
気焔を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳事件も実は黒から聞いたのである。