悪獣篇 泉鏡花 10
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問題文
(けだしもゆきのつまさきへ、とかくしてずりさがり、ずりさがる)
蹴出[けだ]しも雪の爪尖[つまさき]へ、とかくしてずり下り、ずり下る
(ねまきのつまをおさえながら、かたてでともしをうしろへひいて、)
寝衣[ねまき]の褄を圧[おさ]えながら、片手で燈をうしろへ引いて、
(ぼっとする、かたごしのあかりにすかして、かやをのぞこうとして、つまだって、)
ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を覗こうとして、爪立って、
(まえがみをそっとさよせてはみたけれども、ゆめのためにみをもだえた、)
前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を悶[もだ]えた、
(ねやのうちの、なさけないさまをみるのもいまわしし、)
閨[ねや]の内の、情[なさけ]ない状[さま]を見るのも忌[いま]わしし、
(また、なんとなくかいまきが、じぶんのかたちにみえるにつけても、ねていて、)
また、何となく掻巻が、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、
(かやをうかがうこのすがたがすいたら、きぜつしないではすむまいと、)
蚊帳を覗[うかが]うこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、
(おもわずよろよろとすさって、ひっくるまるもすそあやうく、)
思わずよろよろと退[すさ]って、引[ひっ]くるまる裳[もすそ]危く、
(はらりとさばいてろうかへでた。)
はらりと捌いて廊下へ出た。
(つぎのへやはまっくらで、そこにはもとよりだれもいない。)
次の室[へや]は真暗[まっくら]で、そこにはもとより誰も居ない。
(ねやとならんで、にわをまえにさんけんつづきの、そのひとまをへだてた)
閨[ねや]と並んで、庭を前に三間続きの、その一室[ひとま]を隔てた
(はちじょうに、せんたろうと、けんのすけがひとつかや。)
八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。
(そこからべつにうらにわへつきでたかどざしきのろくじょうに、せんせいがねているはず。)
そこから別に裏庭へ突き出た角座敷の六畳に、先生が寝ている筈。
(そのほうにもかわやはあるが、はこぶのに、ちととおい。)
その方にも厠はあるが、運ぶのに、ちと遠い。
(くだんのつぎのあきまをこすと、とっつきが)
件[くだん]の次の明室[あきま]を越すと、取着[とっつき]が
(いたどになって、そのだいどころをこしたところに、まつというなかばたらき、)
板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働[なかばたらき]、
(おさんと、もうひとりじょちゅうがさんにん。)
お三と、もう一人女中が三人。
(おんなばかりでたよりにはならぬが、ちかいうえにこころやすい。)
婦人[おんな]ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。
(それにちとあいだはあるが、そこからいちもくのおもてもんのすぐうちに、ながやだちが)
それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが
(いっけんあって、かかえしゃふがすんでいて、かくだんながるすのおりからには、)
一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那が留守の折りからには、
(あけがたまでこうしどからあかりがさして、しごにんで、ひそめくものおと。)
あけ方まで格子戸から灯[あかり]がさして、四五人で、ひそめくもの音。
(ひしひしとはなふだのひびきがするのを、ほようのばしょとおおめにみても、)
ひしひしと花ふだの響[ひびき]がするのを、保養の場所と多めに見ても、
(いいこととはおもわなかったが、ときにこそよれたのもしい。)
好[い]いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母[たのも]しい。
(さらばと、やがてろうかづたい、かかとのおとして、するすると、もすその)
さらばと、やがて廊下づたい、踵の音して、するすると、裳[もすそ]の
(けはいのきこゆるのも、われながらさびしいなかに、ゆめからさめたしるしぞ、と)
気勢[けはい]の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と
(こころうれしく、あきまのまえをいそいでこすと、つぎなるこべやの)
心嬉しく、明室[あきま]の前を急いで越すと、次なる小室[こべや]の
(さんじょうは、ゆどのにちかいけしょうべや。これはしょうじがあいていた。)
三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。
(うちからかぜもふくようなり、わきしょうめんのすがたみに、な、)
中[うち]から風も吹くようなり、傍[わき]正面の姿見に、勿[な]、
(うつりそゆめのすがたとて、うなだるるまでかおをそむけた。)
映りそ夢の姿とて、首垂[うなだ]るるまで顔を背[そむ]けた。
(あたらしいひのきのあまど、それにもかおがえがかれそう。まっすぐにむきなおって、)
新しい檜の雨戸、それにも顔が描かれそう。真直[まっすぐ]に向き直って、
(つとともしびをさしだしながら、つきあたりへ)
衝[つ]と燈[ともしび]を差出しながら、突[つき]あたりへ
(たどたどしゅう。)
辿々[たどたど]しゅう。
(ばたり、しめたすぎとのおとは、かかるよふけに、とおくどこまでひびいたろう。)
十八 ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。
(かべはしろいが、まくらななかにいて、ただそればかりをちからにした、)
壁は白いが、真暗[まくら]な中に居て、ただそればかりを力にした、
(げんかんのとおあかり、しゃふべやのれいのひそひそごえが、このものおとに)
玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音に
(はたとやんだを、きのどくらしくおもうまで、こよいは)
ハタと留[や]んだを、気の毒らしく思うまで、今夜[こよい]は
(それがうれしかった。)
それが嬉しかった。
(うらこのすがたは、ぶじにかわやをうしろにして、さしおいた)
浦子の姿は、無事に厠を背後[うしろ]にして、さし置いた
(そのらんぷのまえ、ろうかのはずれに、なまめかしくあらわれた。)
その洋燈[ランプ]の前、廊下のはずれに、媚[なまめ]かしく露われた。
(いささかこころもおちついて、かちんとせんを、かたかたとさるをぬいた、)
いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、
(とじまりげんじゅうなあまどをいちまい。なかばとぶくろへするりとあけると、ゆきならぬよるのはくしゃ、)
戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、
(ひろにわいちめん、うすぐものかげをやどして、やねをこしたつきのかげが、ひさしを)
広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、廂[ひさし]を
(こぼれて、たけがきにはかげおおきく、さきかけるか、いま、ひらくと、あしたの)
こぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、朝[あした]の
(いろはなになにぞ。こんに、るりに、べにしぼり、しろに、ときいろ、)
色は何々ぞ。紺に、瑠璃に、紅絞[べにしぼ]り、白に、水紅[とき]色、
(みずあさぎ、つぼみのかずはわからねども、)
水浅葱[みずあさぎ]、莟[つぼみ]の数は分らねども、
(あさがおなりのちょうずばちを、もうろうとうつしたのである。)
朝顔形[あさがおなり]の手水鉢[ちょうずばち]を、朦朧と映したのである。
(ふじんはやまのすがたもみず、まつもみず、まつのこずえによるなみの、おきのけしきにも)
夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の梢[こずえ]に寄る浪の、沖の景色にも
(めはやらず、ひとみをうっとりみすえるまで、いっしんにしゃふべやの)
目は遣[や]らず、瞳を恍惚[うっとり]見据えるまで、一心に車夫部屋の
(ともしを、はるかに、ふねのゆめの、とうだいとちからにしつつ、てをやると、)
灯[ともし]を、遥[はるか]に、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、
(・・・・・・ひしゃくにさわらぬ。)
・・・・・・柄杓に障らぬ。
(きにもせず、なおうわのそらで、つめたくせともののふちをなでて、)
気にもせず、なお上[うわ]の空で、冷たく瀬戸ものの縁を撫でて、
(てをのばして、むこうまですべらしたが、ゆびにかかるこのはもなかった。)
手をのばして、向うまで辷[すべ]らしたが、指にかかる木の葉もなかった。
(めをかえしてすかしてみると、これはまた、むねにとどくまで、ちかくあり。)
目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。
(すぐにとろうとする、ひしゃくは、みずのなかをするすると、むこうまえに、)
直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反対[むこう]まえに、
(やまのほうへえがひとりでにまわった。)
山の方へ柄がひとりでに廻った。
(ふじんはてのものをおとしたように、うつむいてじっとみる。)
夫人は手のものを落したように、俯向[うつむ]いて熟[じっ]と見る。
(ちょうずばちとかきのあいだの、つきのくまくらきなかに、ほのぼのとしろくうごめくものあり。)
手水鉢と垣の間の、月の隈暗き中に、ほのぼのと白く蠢[うごめ]くものあり。
(そのとき、きりかみのはくはつになって、いぬのごとくつくばったが、)
その時、切髪[きりかみ]の白髪になって、犬のごとく踞[つくば]ったが、
(ひしゃくのえに、やせがれたてをしかとかけていた。)
柄杓の柄に、痩せがれた手をしかとかけていた。
(ゆうがおのみにあかのすじのはいったさまの、ゆめのおもかげをそのままに、)
夕顔の実に朱の筋の入った状[さま]の、夢の俤[おもかげ]をそのままに、
(ぼやりとあおむけ、)
ぼやりと仰向け、
(「みずをめされますかいの。」)
「水を召されますかいの。」
(というと、えんやかなはでにやりとえむ。)
というと、艷やかな歯でニヤリと笑む。
(いきとともにみをひいて、よろよろと、あまどにぴったり、)
息とともに身を退[ひ]いて、蹌踉々々[よろよろ]と、雨戸にぴッたり、
(かぜにふきつけられたようになっておもてをそむけた。はすっかいの)
風に吹きつけられたようになって面[おもて]を背けた。斜[はす]ッかいの
(けしょうべやのいりぐちを、しきいにかけてろうかへはんしん。)
化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。
(まっくろなかげぼうしのちぎれちぎれなぼろをきて、)
真黒[まっくろ]な影法師のちぎれちぎれな襤褸[ぼろ]を被[き]て、
(ちゃいろのけのすくすくとおおわれかかるひたいのあたりに、)
茶色の毛のすくすくと蔽[おお]われかかる額のあたりに、
(しわでをあわせて、まうつむけにこなたをおがんだ)
皺手[しわで]を合わせて、真俯向けに此方[こなた]を拝んだ
(はいみのばばは、さかしたのやぶのあねさまであった。)
這身[はいみ]の婆[ばば]は、坂下の藪の姉様[あねさま]であった。
(もうすじもぬけ、ほねくずれて、もすそはこぼれてちょうずばち、すなじにあしを)
もう筋も抜け、骨崩れて、裳[もすそ]はこぼれて手水鉢、砂地に足を
(ふみみだして、ふじんははしにろうかへたおれる。)
蹈[ふ]み乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。
(むねのうえなるあまどへはんめん、ぬっとよこざまにつきだしたは、あおんぶくれのべつのかおで、)
胸の上なる雨戸へ反面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、
(とたんにぎんいろのまなこをむいた。)
途端に銀色の眼[まなこ]をむいた。
(のさのさのさ、あたまでろうかをすってきて、ふじんのまくらにちかづいて、とあおいで)
のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで
(あまどのかおをみた、ひたにふたつのきんのひとみ、まっかなくちをよこざまにあけて、)
雨戸の顔を見た、額に二つの金の瞳、真赤[まっか]な口を横ざまに開けて、
(「ふぁはははは、」)
「ふァはははは、」
(「う、うふふ、うふふ、」とかたがって、とをゆすってわらうと、)
「う、うふふ、うふふ、」と傾[かた]がって、戸を揺[ゆす]って笑うと、
(ばちゃりとひしゃくをみずになげて、あかめのおうなは、)
バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の嫗は、
(「おほほほほほ、」とじんじょうなわらいごえ。)
「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。
(ろうかでは、そのにぎられたときこおりのようにつめたかった、といったてで、)
廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、
(ほおにかかったびんのけをもてあそびながら、)
頬にかかった鬢[びん]の毛を弄びながら、
(「すのまたのごぜんも、やまのかいのばあさまもはやかったな。」というと、)
「洲[す]の股の御前も、山の峡[かい]の婆さまも早かったな。」というと、
(「さかしたのあねさま、ごくろうにござるわや。」とちょうずばちから)
「坂下の姉[あね]さま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から
(みこしていった。)
見越して言った。
(ぎんのめをじろじろと、)
銀の目をじろじろと、
(「さあ、てをかされ、つれていにましょ。」)
「さあ、手を貸され、連れて行[い]にましょ。」
(「これの、つくいきも、ひくいきも、もうないかいの、」)
十九 「これの、吐[つ]く呼吸[いき]も、引く呼吸も、もうないかいの、」
(すのまたのごぜんがいえば、)
と洲[す]の股の御前がいえば、
(「みずくらわしや、」)
「水くらわしや、」
(とかいのばばがじゃけんである。)
と峡[かい]の婆[ばば]が邪慳[じゃけん]である。
(ここでさかしたのあねさまは、ふじんのまえがみにてをさしいれ、しろきひたいをひらてでなでて、)
ここで坂下の姉様は、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で撫でて、
(「まだじゃ、ぬくぬくとあたたかい。」)
「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」
(「てをかけてかたをあげされ、わしがこしをだこうわいの。」)
「手を掛けて肩を上げされ、私[わし]が腰を抱こうわいの。」
(とれいのよこあるきにそのかたむいたかたちをだしたが、こしにくんだてはそのままなり。)
と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。
(すのまたのごぜん、かたわらより、)
洲の股の御前、傍[かたわら]より、
(「おばあさん、ちょっとそのえいのはりでくちのはたぬわっしゃれ、)
「お婆さん、ちょっとその鱏[えい]の針で口の端[はた]縫わっしゃれ、
(こえをたてるとわるいわや。」)
声を立てると悪いわや。」
(「おいの、そうじゃの。」とろうかでいって、ふじんのくろかみを)
「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を
(りょうてでおさえた。)
両手で圧[おさ]えた。