坂口安吾「悪妻論」2/3
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問題文
(おんなだいがくのくんれんをうけたもはんのにょうぼうがりょうさいであるか、そして、さような)
女大学の訓練を受けたモハンの女房が良妻であるか、そして、左様な
(りょうさいにたいひして、にほんてきなあくさいのかたやみほんがあるなら、わたしはむしろあくさいの)
良妻に対比して、日本的な悪妻の型や見本があるなら、私はむしろ悪妻の
(かたのほうをりょうさいなりとだんずる。せんたくしたり、そうじをしたり、きものをぬったり、)
型の方を良妻也と断ずる。センタクしたり、掃除をしたり、着物をぬったり、
(めしをたいたり、ろうどうこそしんせいなりとあっぱれじょうぶのこころがけ。けれども、)
飯を炊いたり、労働こそ神聖也とアッパレ丈夫の心掛け。けれども、
(あそぶことのすきなおんなは、みりょくがあるにきまってる。たじょういんぽんでは)
遊ぶことの好きな女は、魅力があるにきまってる。タジョウインポンでは
(いささかめいわくするけれども、めいわく、ふあん、おうのう、おおいに)
いささか迷惑するけれども、迷惑、不安、懊悩《おうのう》、大いに
(くるしめられても、それでもりょうさいよりはいい。)
苦しめられても、それでも良妻よりはいい。
(ひとはなんでもへいわをあいせばいいとおもうならおおまちがい、へいわ、へいせい、へいあん、)
人はなんでも平和を愛せばいいと思うなら大間違い、平和、平静、平安、
(わたしはしかし、そんなものはすきではない。ふあん、くるしみ、かなしみ、)
私は然《しか》し、そんなものは好きではない。不安、苦しみ、悲しみ、
(そういうもののほうがわたしはすきだ。わたしはぎゃくせつをろうしているわけではない。)
そういうものの方が私は好きだ。私は逆説を弄しているわけではない。
(じんせいのふこう、かなしみ、くるしみというものはえんお、えんりすべき)
人生の不幸、悲しみ、苦しみというものは厭悪《えんお》、厭離すべき
(じんせいのはなだ。かなしみくるしみをぎゃくにはなさかせ、たのしむことのはっけん、)
人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花さかせ、たのしむことの発見、
(これをあるいはきんだいのはっけんとしょうしてもよろしいかもしれぬ。)
これをあるいは近代の発見と称してもよろしいかも知れぬ。
(れんあいというととくれん、めでたしめでたしとかんがえて、なんでもそうでなければ)
恋愛というと得恋、メデタシメデタシと考えて、なんでもそうでなければ
(ならないものだときめているが、しつれんなどというものもおおいにしゅみのある)
ならないものだときめているが、失恋などというものも大いに趣味のある
(もので、だいいち、とくれんめでたしめでたしよりも、よっぽどたいくつしない。)
もので、第一、得恋メデタシメデタシよりも、よっぽど退屈しない。
(ほんとだ。せんじつ、ほんのこうこくをみていたら、ひとづまとあるしじんのこいぶみを、)
ほんとだ。先日、本の広告を見ていたら、ヒトヅマとある詩人の恋文を、
(ふたりがこいしながら、にくたいのかんけいのなかったゆえにしんせいなこいだとかかれていた。)
二人が恋しながら、肉体の関係のなかった故に神聖な恋だと書かれていた。
(おかしなしんせいがあるものだ。せいしんのこいがきよらかだなどとはいんちきで、)
おかしな神聖があるものだ。精神の恋が清らかだなどとはインチキで、
(ぜすすさまもおっしゃるとおりいきすぎのひとづまにめをくれても)
ゼスス様も仰有《おっしゃ》る通り行きすぎのヒトヅマに目をくれても
(かんいんにかわりはない。にんげんはみんなかんいんをおかしており、)
カンインに変りはない。人間はみんなカンインを犯しており、
(みんないんへるのへおちるものにきまっている。じごくのはっけんというものも)
みんなインヘルノへ落ちるものにきまっている。地獄の発見というものも
(これまたひとつのきんだいのはっけん、じごくのひをはなさかしめよ、じごくにおいてじんせいを)
これ又ひとつの近代の発見、地獄の火を花さかしめよ、地獄に於て人生を
(いきよ、ここにおいてひつようなものは、ほんのうよりもちせいだ。いわゆるりょうさいという)
生きよ、ここに於て必要なものは、本能よりも知性だ。いわゆる良妻という
(ものは、ちせいなきそんざいで、ちせいあるところ、おんなはかならずあくさいとなる。)
ものは、知性なき存在で、知性あるところ、女は必ず悪妻となる。
(ちせいはいわばにんげんせいへのせいさつであるが、かかるせいさつのあるところ、)
知性はいわば人間性への省察であるが、かかる省察のあるところ、
(おもいやり、いたわりもおおきくまたふかくなるかもしれぬが、どうじにしょうとつのしんどが)
思いやり、いたわりも大きく又深くなるかも知れぬが、同時に衝突の深度が
(にんげんせいのそこにおいておこなわれ、ぬきさしならぬものとなる。)
人間性の底に於て行われ、ぬきさしならぬものとなる。
(にんげんせいのせいさつは、ふうふのかんけいにおいては、いわばおにのめのごときもので、)
人間性の省察は、夫婦の関係に於ては、いわば鬼の目の如きもので、
(ふうふはいわば、じゃくてん、けってんをしりあい、むしろけってんにおいてかんけいやたいりつを)
夫婦はいわば、弱点、欠点を知りあい、むしろ欠点に於て関係や対立を
(ふかめるようなものでもある。そのたいりつはぬきさしならぬものとなり、)
深めるようなものでもある。その対立はぬきさしならぬものとなり、
(にくしみはふかまり、やすきこころもない。ちせいあるところ、ふうふの)
憎しみは深まり、安き心もない。知性あるところ、夫婦の
(つながりは、むしろくつうがおおく、へいわはすくないものである。しかし、)
つながりは、むしろ苦痛が多く、平和は少いものである。然し、
(かかるくつうこそ、まことのじんせいなのである。くつうをさけるべきではなく、)
かかる苦痛こそ、まことの人生なのである。苦痛をさけるべきではなく、
(むしろ、くつうのよりおおいなる、よりするどくよりふかいものをもとめるほうがただしい。)
むしろ、苦痛のより大いなる、より鋭くより深いものを求める方が正しい。
(ふうふはあいしあうとともににくみあうのがとうぜんであり、かかるにくしみをおそれては)
夫婦は愛し合うと共に憎み合うのが当然であり、かかる憎しみを怖れては
(ならぬ。ただしくにくみあうがよく、するどくたいりつするがよい。)
ならぬ。正しく憎み合うがよく、鋭く対立するがよい。
(いわゆるりょうさいのごとく、ちせいなく、ねむれるたましいの、りょうけんのごとくにくんれんされた)
いわゆる良妻の如く、知性なく、眠れる魂の、良犬の如くに訓練された
(どれいのようなじゅうじゅんなおんなが、しんじつのいみにおいてりょうさいであるはずはない。)
ドレイのような従順な女が、真実の意味に於て良妻である筈はない。
(そしてかかるりょうさいのふぞくひんたるへいわなかていが、とうとばれるべきものでないのは)
そしてかかる良妻の附属品たる平和な家庭が、尊ばれるべきものでないのは
(いうまでもない。だんじょのかんけいにへいわはない。にんげんかんけいにはへいわはすくない。)
言うまでもない。男女の関係に平和はない。人間関係には平和は少い。
(へいわをもとめるならこどくをもとめるにかぎる。そしてぼうずになるがよい。)
平和をもとめるなら孤独をもとめるに限る。そして坊主になるがよい。