夏目漱石「夢十夜 第五夜」
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問題文
(だいごや)
第五夜
(こんなゆめをみた。)
こんな夢を見た。
(なんでもよほどふるいことで、かみよにちかいむかしとおもわれるが、)
何でもよほど古い事で、神代(かみよ)に近い昔と思われるが、
(じぶんがいくさをしてうんわるくまけたために、)
自分が軍(いくさ)をして運悪く敗北(まけ)たために、
(いけどりになって、てきのたいしょうのまえにひきすえられた。)
生擒(いけどり)になって、敵の大将の前に引き据えられた。
(そのころのひとはみんなせがたかかった。)
その頃の人はみんな背が高かった。
(そうして、みんなながいひげをはやしていた。)
そうして、みんな長い髯を生やしていた。
(かわのおびをしめて、それへぼうのようなけんをつるしていた。)
革の帯を締めて、それへ棒のような剣を釣るしていた。
(ゆみはふじづるのふといのをそのままもちいたようにみえた。)
弓は藤蔓(ふじづる)の太いのをそのまま用いたように見えた。
(うるしもぬってなければみがきもかけてない。きわめてそぼくなものであった。)
漆も塗ってなければ磨きもかけてない。極めて素樸なものであった。
(てきのたいしょうは、ゆみのまんなかをみぎのてでにぎって、そのゆみをくさのうえへついて、)
敵の大将は、弓の真中を右の手で握って、その弓を草の上へ突いて、
(さかがめをふせたようなもののうえにこしをかけていた。)
酒甕(さかがめ)を伏せたようなものの上に腰をかけていた。
(そのかおをみると、はなのうえで、さゆうのまゆがふとくつながっている。)
その顔を見ると、鼻の上で、左右の眉が太く接続(つなが)っている。
(そのころかみそりというものはむろんなかった。)
その頃髪剃(かみそり)と云うものは無論なかった。
(じぶんはとりこだから、こしをかけるわけにいかない。)
自分は虜(とりこ)だから、腰をかける訳に行かない。
(くさのうえにあぐらをかいていた。)
草の上に胡坐(あぐら)をかいていた。
(あしにはおおきなわらぐつをはいていた。)
足には大きな藁沓(わらぐつ)を穿いていた。
(このじだいのわらぐつはふかいものであった。たつとひざがしらまできた。)
この時代の藁沓は深いものであった。立つと膝頭まで来た。
(そのはしのところはわらをすこしあみのこして、ふさのようにさげて、)
その端の所は藁を少し編残(あみのこ)して、房のように下げて、
(あるくとばらばらうごくようにして、かざりとしていた。)
歩くとばらばら動くようにして、飾りとしていた。
(たいしょうはかがりびでじぶんのかおをみて、しぬかいきるかときいた。)
大将は篝火(かがりび)で自分の顔を見て、死ぬか生きるかと聞いた。
(これはそのころのしゅうかんで、とりこにはだれでもいちおうは)
これはその頃の習慣で、捕虜(とりこ)にはだれでも一応は
(こうきいたものである。いきるとこたえるとこうさんしたいみで、)
こう聞いたものである。生きると答えると降参した意味で、
(しぬというとくっぷくしないということになる。じぶんはひとことしぬとこたえた。)
死ぬと云うと屈服しないと云う事になる。自分は一言死ぬと答えた。
(たいしょうはくさのうえについていたゆみをむこうへなげて、)
大将は草の上に突いていた弓を向うへ抛(な)げて、
(こしにつるしたぼうのようなけんをするりとぬきかけた。)
腰に釣るした棒のような剣をするりと抜きかけた。
(それへかぜになびいたかがりびがよこからふきつけた。)
それへ風に靡(なび)いた篝火が横から吹きつけた。
(じぶんはみぎのてをかえでのようにひらいて、たなごころをたいしょうのほうへむけて、)
自分は右の手を楓のように開いて、掌(たなごころ)を大将の方へ向けて、
(めのうえへさしあげた。まてというあいずである。)
眼の上へ差し上げた。待てという相図である。
(たいしょうはふといけんをかちゃりとさやにおさめた。)
大将は太い剣をかちゃりと鞘に収めた。
(そのころでもこいはあった。じぶんはしぬまえにひとめおもうおんなにあいたいといった。)
その頃でも恋はあった。自分は死ぬ前に一目思う女に逢いたいと云った。
(たいしょうはよがあけてとりがなくまでならまつといった。)
大将は夜が開けて鶏(とり)が鳴くまでなら待つと云った。
(とりがなくまでにおんなをここへよばなければならない。)
鶏が鳴くまでに女をここへ呼ばなければならない。
(とりがないてもおんながこなければ、じぶんはあわずにころされてしまう。)
鶏が鳴いても女が来なければ、自分は逢わずに殺されてしまう。
(たいしょうはこしをかけたまま、かがりびをながめている。)
大将は腰をかけたまま、篝火を眺めている。
(じぶんはおおきなわらぐつをくみあわしたまま、くさのうえでおんなをまっている。)
自分は大きな藁沓を組み合わしたまま、草の上で女を待っている。
(よるはだんだんふける。)
夜はだんだん更ける。
(ときどきかがりびがくずれるおとがする。くずれるたびに)
時々篝火が崩れる音がする。崩れるたびに
(うろたえたようにほのおがたいしょうになだれかかる。)
狼狽(うろた)えたように焔が大将になだれかかる。
(まっくろなまゆのしたで、たいしょうのめがぴかぴかとひかっている。)
真黒な眉の下で、大将の眼がぴかぴかと光っている。
(するとだれやらきて、あたらしいえだをたくさんひのなかへなげこんでいく。)
すると誰やら来て、新しい枝をたくさん火の中へ抛(な)げ込んで行く。
(しばらくすると、ひがぱちぱちとなる。)
しばらくすると、火がぱちぱちと鳴る。
(くらやみをはじきかえすようないさましいおとであった。)
暗闇を弾き返すような勇ましい音であった。
(このときおんなは、うらのならのきにつないである、しろいうまをひきだした。)
この時女は、裏の楢(なら)の木に繋いである、白い馬を引き出した。
(たてがみをさんどなでてたかいせにひらりととびのった。)
鬣(たてがみ)を三度撫でて高い背にひらりと飛び乗った。
(くらもないあぶみもないはだかうまであった。)
鞍もない鐙(あぶみ)もない裸馬(はだかうま)であった。
(ながくしろいあしで、ふとばらをけると、うまはいっさんにかけだした。)
長く白い足で、太腹を蹴ると、馬はいっさんに駆け出した。
(だれかがかがりをつぎたしたので、とおくのそらがうすあかるくみえる。)
誰かが篝を継ぎ足したので、遠くの空が薄明るく見える。
(うまはこのあかるいものをめがけてやみのなかをとんでくる。)
馬はこの明るいものを目懸けて闇の中を飛んで来る。
(はなからひのはしらのようないきをにほんだしてとんでくる。)
鼻から火の柱のような息を二本出して飛んで来る。
(それでもおんなはほそいあしでしきりなしにうまのはらをけっている。)
それでも女は細い足でしきりなしに馬の腹を蹴っている。
(うまはひづめのおとがそらでなるほどはやくとんでくる。)
馬は蹄の音が宙で鳴るほど早く飛んで来る。
(おんなのかみはふきながしのようにやみのなかにおをひいた。)
女の髪は吹き流しのように闇の中に尾を曳いた。
(それでもまだかがりのあるところまでこられない。)
それでもまだ篝のある所まで来られない。
(するとまっくらなみちのはたで、)
すると真闇(まっくら)な道の傍(はた)で、
(たちまちこけこっこうというにわとりのこえがした。)
たちまちこけこっこうという鶏(にわとり)の声がした。
(おんなはみをそらざまに、りょうてににぎったたづなをうんとひかえた。)
女は身を空様(そらざま)に、両手に握った手綱をうんと控えた。
(うまはまえあしのひづめをかたいいわのうえにはっしときざみこんだ。)
馬は前足の蹄を硬い岩の上に発矢(はっし)と刻み込んだ。
(こけこっこうとにわとりがまたひとこえないた。)
こけこっこうと鶏(にわとり)がまた一声鳴いた。
(おんなはあっといって、しめたたづなをいちどゆるめた。)
女はあっと云って、緊(し)めた手綱を一度緩めた。
(うまはもろひざをおる。のったひととともにまともへまえへのめった。)
馬は諸膝(もろひざ)を折る。乗った人と共に真向(まとも)へ前へのめった。
(いわのしたはふかいふちであった。)
岩の下は深い淵であった。
(ひづめのあとはいまだにいわのうえにのこっている。)
蹄の跡はいまだに岩の上に残っている。
(にわとりのなくまねをしたものはあまのじゃくである。)
鶏の鳴く真似をしたものは天探女(あまのじゃく)である。
(このひづめのあとのいわにきざみつけられているあいだ、あまのじゃくはじぶんのかたきである。)
この蹄の痕の岩に刻みつけられている間、天探女は自分の敵(かたき)である。