夏目漱石「夢十夜 第二夜」

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夏目漱石の短編集 長いです
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1 nao 7246 7.4 96.7% 448.1 3360 113 64 2020/10/11

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問題文

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(だいにや)

第二夜

(こんなゆめをみた。)

こんな夢を見た。

(おしょうのへやをさがって、ろうかづたいにじぶんのへやへかえると)

和尚の室(へや)を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると

(あんどうがぼんやりともっている。かたひざをざぶとんのうえについて、)

行灯(あんどう)がぼんやり点っている。片膝を座布団の上について、

(とうしんをかきたてたとき、はなのようなちょうじがぱたりと)

灯心を掻き立てたとき、花のような丁子(ちょうじ)がぱたりと

(しゅぬりのだいにおちた。どうじにへやがぱっとあかるくなった。)

朱塗の台に落ちた。同時に部屋がぱっと明るくなった。

(ふすまのえはぶそんのふでである。くろいやなぎをこくうすく、おちこちとかいて、)

襖の絵は蕪村の筆である。黒い柳を濃く薄く、遠近(おちこち)とかいて、

(さむそうなぎょふがかさをかたぶけてどてのうえをとおる。)

寒むそうな漁夫が笠を傾(かたぶ)けて土手の上を通る。

(とこにはかいちゅうもんじゅのじくがかかっている。)

床(とこ)には海中文殊(かいちゅうもんじゅ)の軸が懸(かか)っている。

(たきのこしたせんこうがくらいほうでいまだににおっている。)

焚き残した線香が暗い方でいまだに臭っている。

(ひろいてらだからしんかんとして、ひとけがない。)

広い寺だから森閑(しんかん)として、人気がない。

(くろいてんじょうにさすまるあんどうのまるいかげが、)

黒い天井に差す丸行灯(まるあんどう)の丸い影が、

(あおむくとたんにいきてるようにみえた。)

仰向く途端に生きてるように見えた。

(たてひざをしたまま、ひだりのてでざぶとんをめくって、)

立膝をしたまま、左の手で座蒲団を捲(めく)って、

(みぎをさしこんでみると、おもったところに、ちゃんとあった。)

右を差し込んで見ると、思った所に、ちゃんとあった。

(あればあんしんだから、ふとんをもとのごとくなおして、そのうえにどっかりすわった。)

あれば安心だから、蒲団をもとのごとく直して、その上にどっかり坐った。

(おまえはさむらいである。さむらいならさとれぬはずはなかろうとおしょうがいった。)

お前は侍である。侍なら悟れぬはずはなかろうと和尚が云った。

(そういつまでもさとれぬところをもってみると、おまえはさむらいではあるまいといった。)

そういつまでも悟れぬところを持って見ると、御前は侍ではあるまいと云った。

(にんげんのくずじゃといった。ははあおこったなといってわらった。)

人間の屑じゃと云った。ははあ怒ったなと云って笑った。

(くやしければさとったしょうこをもってこいといってぷいとむこうをむいた。)

口惜(くや)しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向を向いた。

など

(けしからん。)

怪(け)しからん。

(となりのひろまのとこにすえてあるおきどけいがつぎのときをうつまでには、)

隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻(とき)を打つまでには、

(きっとさとってみせる。さとったうえで、こんやまたにゅうしつする。)

きっと悟って見せる。悟った上で、今夜また入室する。

(そうしておしょうのくびとさとりとひきかえにしてやる。)

そうして和尚の首と悟りと引替にしてやる。

(さとらなければ、おしょうのいのちがとれない。どうしてもさとらなければならない。)

悟らなければ、和尚の命が取れない。どうしても悟らなければならない。

(じぶんはさむらいである。)

自分は侍である。

(もしさとれなければじじんする。さむらいがはずかしめられて、いきているわけにはいかない。)

もし悟れなければ自刃する。侍が辱められて、生きている訳には行かない。

(きれいにしんでしまう。)

綺麗に死んでしまう。

(こうかんがえたとき、じぶんのてはまたおもわずふとんのしたへはいった。)

こう考えた時、自分の手はまた思わず蒲団の下へ這入った。

(そうしてしゅざやのたんとうをひきずりだした。ぐっとつかをにぎって、)

そうして朱鞘の短刀を引き摺り出した。ぐっと束(つか)を握って、

(あかいさやをむこうへはらったら、つめたいはがいちどにくらいへやでひかった。)

赤い鞘を向(むこう)へ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。

(すごいものがてもとから、すうすうとにげていくようにおもわれる。)

凄いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。

(そうして、ことごとくきっさきへあつまって、さっきをいってんにこめている。)

そうして、ことごとく切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。

(じぶんはこのするどいはが、むねんにもはりのあたまのようにちぢめられて、)

自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、

(くすんごぶのさきへきてやむをえずとがってるのをみて、)

九寸五分(くすんごぶ)の先へ来てやむを得ず尖ってるのを見て、

(たちまちぐさりとやりたくなった。からだのちがみぎのてくびのほうへながれてきて、)

たちまちぐさりとやりたくなった。身体の血が右の手首の方へ流れて来て、

(にぎっているつかがにちゃにちゃする。くちびるがふるえた。)

握っている束がにちゃにちゃする。唇が顫(ふる)えた。

(たんとうをさやへおさめてみぎわきへひきつけておいて、それからぜんがをくんだ。)

短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽(ぜんが)を組んだ。

(じょうしゅういわくむと。むとはなんだ。くそぼうずめとはがみをした。)

―――趙州(じょうしゅう)曰く無と。無とは何だ。糞坊主めとはがみをした。

(おくばをつよくかみしめたので、はなからあついいきがあらくでる。)

奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。

(こめかみがつっていたい。めはふつうのばいもおおきくあけてやった。)

こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。

(かけものがみえる。あんどうがみえる。たたみがみえる。)

懸物(かけもの)が見える。行灯(あんどう)が見える。畳が見える。

(おしょうのやかんあたまがありありとみえる。わにぐちをひらいてあざわらったこえまできこえる。)

和尚の薬缶頭がありありと見える。鰐口を開いて嘲笑った声まで聞える。

(けしからんぼうずだ。どうしてもあのやかんをくびにしなくてはならん。)

怪(け)しからん坊主だ。どうしてもあの薬缶を首にしなくてはならん。

(さとってやる。むだ、むだとしたのねでねんじた。)

悟ってやる。無だ、無だと舌の根で念じた。

(むだというのにやっぱりせんこうのにおいがした。なんだせんこうのくせに。)

無だと云うのにやっぱり線香の香(におい)がした。何だ線香のくせに。

(じぶんはいきなりげんこつをかためてじぶんのあたまをいやというほどなぐった。)

自分はいきなり拳骨を固めて自分の頭をいやと云うほど擲(なぐ)った。

(そうしておくばをぎりぎりとかんだ。りょうわきからあせがでる。)

そうして奥歯をぎりぎりと噛んだ。両腋から汗が出る。

(せなかがぼうのようになった。ひざのつぎめがきゅうにいたくなった。)

背中が棒のようになった。膝の接目(つぎめ)が急に痛くなった。

(ひざがおれたってどうあるものかとおもった。けれどもいたい。くるしい。)

膝が折れたってどうあるものかと思った。けれども痛い。苦しい。

(むはなかなかでてこない。でてくるとおもうとすぐいたくなる。はらがたつ。)

無はなかなか出て来ない。出て来ると思うとすぐ痛くなる。腹が立つ。

(むねんになる。ひじょうにくやしくなるなみだがほろほろでる。)

無念になる。非常に口惜(くや)しくなる涙がほろほろ出る。

(ひとおもいにみをおおいわのうえにぶつけて、)

ひと思に身を巨巌(おおいわ)の上にぶつけて、

(ほねもにくもめちゃめちゃにくだいてしまいたくなる。)

骨も肉もめちゃめちゃに砕いてしまいたくなる。

(それでもがまんしてじっとすわっていた。)

それでも我慢してじっと坐っていた。

(たえがたいほどせつないものをむねにいれてしのんでいた。)

堪えがたいほど切ないものを胸に盛(い)れて忍んでいた。

(そのせつないものがからだじゅうのきんにくをしたからもちあげて、)

その切ないものが身体中の筋肉を下から持上げて、

(けあなからそとへふきでようふきでようとあせるけれども、)

毛穴から外へ吹き出よう吹き出ようと焦るけれども、

(どこもいちめんにふさがって、まるででぐちがないようなざんこくきわまるじょうたいであった。)

どこも一面に塞がって、まるで出口がないような残刻極まる状態であった。

(そのうちにあたまがへんになった。あんどうもぶそんのえも、たたみも、)

そのうちに頭が変になった。行灯(あんどう)も蕪村の絵も、畳も、

(ちがいだなもあってないような、なくってあるようにみえた。)

違棚(ちがいだな)も有って無いような、無くって有るように見えた。

(といってむはちっともげんぜんしない。ただいいかげんにすわっていたようである。)

といって無はちっとも現前しない。ただ好加減に坐っていたようである。

(ところへこつぜんとなりざしきのとけいがちーんとなりはじめた。)

ところへ忽然隣座敷の時計がチーンと鳴り始めた。

(はっとおもった。みぎのてをすぐたんとうにかけた。とけいがふたつめをちーんとうった。)

はっと思った。右の手をすぐ短刀にかけた。時計が二つ目をチーンと打った。

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