夏目漱石「夢十夜 第一夜」
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問題文
(だいいちや)
第一夜
(こんなゆめをみた。)
こんな夢を見た。
(うでぐみをしてまくらもとにすわっていると、あおむきにねたおんなが、しずかなこえでもうしにます)
腕組をして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にます
(という。おんなはながいかみをまくらにしいて、りんかくのやわらかなうりざねがおを)
と云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔(うりざねがお)を
(そのなかによこたえている。まっしろなほおのそこにあたたかいちのいろがほどよくさして、)
その中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、
(くちびるのいろはむろんあかい。とうていしにそうにはみえない。しかしおんなはしずかなこえで、)
唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、
(もうしにますとはっきりいった。じぶんもたしかにこれはしぬな)
もう死にますと判然(はっきり)云った。自分も確(たしか)にこれは死ぬな
(とおもった。そこで、そうかね、もうしぬのかね、とうえからのぞきこむようにして)
と思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして
(きいてみた。しにますとも、といいながら、おんなはぱっちりとめをあけた。)
聞いてみた。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。
(おおきなうるおいのあるめで、ながいまつげにつつまれたなかは、ただいちめんに)
大きな潤いのある眼で、長い睫(まつげ)に包まれた中は、ただ一面に
(まっくろであった。そのまっくろなひとみのおくに、じぶんのすがたがあざやかに)
真黒であった。その真黒な眸(ひとみ)の奥に、自分の姿が鮮(あざやか)に
(うかんでいる。じぶんはすきとおるほどふかくみえるこのくろめのつやをながめて)
浮かんでいる。自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢(つや)を眺めて
(これでもしぬのかとおもった。それで、ねんごろにまくらのそばへくちをつけて、)
これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、
(しぬんじゃなかろうね、だいじょうぶだろうね、とまたききかえした。)
死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。
(するとおんなはくろいめをねむそうにみはったまま、やっぱりしずかなこえで)
すると女は黒い眼を眠そうに睜(みはっ)たまま、やっぱり静かな声で、
(でも、しぬんですもの、しかたがないわといった。)
でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
(じゃ、わたしのかおがみえるかいといっしんにきくと、みえるかいって、そら、そこに、)
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、
(うつってるじゃありませんかと、にこりとわらってみせた。じぶんはだまって、)
写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、
(かおをまくらからはなした。うでぐみをしながら、どうしてもしぬのかなとおもった。)
顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
(しばらくして、おんながまたこういった。)
しばらくして、女がまたこう云った。
(「しんだら、うめてください。おおきなしんじゅがいであなをほって。)
「死んだら、埋めてください。大きな真珠貝で穴を掘って。
(そうしててんからおちてくるほしのかけをぼひょうにおいてください。)
そうして天から落ちてくる星の破片(かけ)を墓標に置いて下さい。
(そうしてはかのそばにまっていてください。またあいにきますから」)
そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
(じぶんは、いつあいにくるかねときいた。)
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
(「ひがでるでしょう。それからひがしずむでしょう。)
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。
(それからまたでるでしょう、そうしてまたしずむでしょう。)
それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。
(あかいひがひがしからにしへ、ひがしからにしへとおちていくうちに、)
―――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちていくうちに、
(あなた、まっていられますか」)
―――あなた、待っていられますか」
(じぶんはだまってうなずいた。おんなはしずかなちょうしをいちだんはりあげて、)
自分は黙って首肯(うなず)いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
(「ひゃくねんまっていてください」とおもいきったこえでいった。)
「百年待っていて下さい」と思いきった声で云った。
(「ひゃくねん、わたしのはかのそばにすわってまっていてください。きっとあいにきますから」)
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
(じぶんはただまっているとこたえた。すると、くろいひとみのなかにあざやかにみえたじぶんのすがたが、)
自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸の中に鮮に見えた自分の姿が、
(ぼうっとくずれてきた。しずかなみずがうごいてうつるかげをみだしたように、)
ぼうっと崩れてきた。静かな水が動いて写る影を乱したように、
(ながれだしたとおもったら、おんなのめがぱちりととじた。)
流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。
(ながいまつげのあいだからなみだがほおへたれた。もうしんでいた。)
長い睫の間から涙が頬へ垂れた。―――もう死んでいた。
(じぶんはそれからにわへおりて、しんじゅがいであなをほった。しんじゅがいはおおきななめらかなふちの)
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑かな縁の
(するどいかいであった。つちをすくうたびに、かいのうらにつきのひかりがさしてきらきらした。)
鋭い貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。
(しめったつちのにおいもした。あなはしばらくしてほれた。おんなをそのなかにいれた。)
湿った土の匂もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。
(そうしてやわらかいつちを、うえからそっとかけた。かけるたびにしんじゅがいのうらに)
そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に
(つきのひかりがさした。それからほしのかけのおちたのをひろってきて、)
月の光が差した。それから星の破片(かけ)の落ちたのを拾ってきて、
(かろくつちのうえへのせた。ほしのかけはまるかった。ながいあいだおおぞらをおちているあいだに、)
かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、
(かどがとれてなめらかになったんだろうとおもった。だきあげてつちのうえへおくうちに、)
角が取れて滑かになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、
(じぶんのむねとてがすこしあたたかくなった。じぶんはこけのうえにすわった。)
自分の胸と手が少し暖かくなった。自分は苔の上に坐った。
(これからひゃくねんのあいだこうしてまっているんだなとかんがえながら、うでぐみをして、)
これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、
(まるいぼせきをながめていた。そのうちに、おんなのいったとおりひがひがしからでた。)
丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。
(おおきなあかいひであった。それがまたおんなのいったとおり、やがてにしへおちた。)
大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。
(あかいまんまでのっとおちていった。ひとつとじぶんはかんじょうした。)
赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
(しばらくするとまたからくれないのてんとうがのそりとのぼってきた。)
しばらくするとまた唐紅(からくれない)の天道がのそりと上って来た。
(そうしてだまってしずんでしまった。ふたつとまたかんじょうした。)
そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
(じぶんはこういうふうにひとつふたつとかんじょうしていくうちに、あかいひをいくつみたか)
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか
(わからない。かんじょうしても、かんじょうしても、しつくせないほどあかいひがあたまのうえを)
分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を
(とおりこしていった。それでもひゃくねんがまだこない。しまいには、こけのはえた)
通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた
(まるいいしをながめて、じぶんはおんなにだまされたのではなかろうかとおもいだした。)
丸い石を眺めて、自分は女に欺(だま)されたのではなかろうかと思い出した。
(するといしのしたからはすにじぶんのほうへむいてあおいくきがのびてきた。)
すると石の下から斜(はす)に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。
(みるまにながくなってちょうどじぶんのむねのあたりまできてとまった。)
見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。
(とおもうと、すらりとゆらぐくきのいただきに、こころもちくびをかたぶけていた)
と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾(かたぶ)けていた
(ほそながいいちりんのつぼみが、ふっくらとはなびらをひらいた。)
細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁(はなびら)を開いた。
(まっしろなゆりがはなのさきでほねにこたえるほどにおった。そこへはるかのうえから、)
真白な百合が鼻の先で骨に徹(こた)えるほど匂った。そこへ遥の上から、
(ぽたりとつゆがおちたので、はなはじぶんのおもみでふらふらとうごいた。)
ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。
(じぶんはくびをまえへだしてつめたいつゆのしたたる、しろいはなびらにせっぷんした。)
自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁(はなびら)に接吻した。
(じぶんがゆりからかおをはなすひょうしにおもわず、とおいそらをみたら、)
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、
(あかつきのほしがたったひとつまたたいていた。)
暁の星がたった一つ瞬いていた。
(「ひゃくねんはもうきていたんだな」とこのときはじめてきがついた。)
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。