ロックの歴史 その9
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問題文
(12.ろっくがろっくにかみついたひ)
【12.ロックがロックに噛み付いた日】
(ぱんく・ろっくとはいったいなになのだろうか。いまげんざいではこのぱんくというおんがくは、)
パンク・ロックとは一体何なのだろうか。今現在ではこのパンクという音楽は、
(かんたんにおんがくのけいしきじょうのいちじゃんるとしてとらえるのがいちばんわかりやすい。しかし)
簡単に音楽の形式上の一ジャンルとして捉えるのが一番分かりやすい。しかし
(70ねんだいこうはんのぱんくたんじょうとうじはちょっとちがった。70ねんだいにろっくはどんどん)
70年代後半のパンク誕生当時はちょっと違った。70年代にロックはどんどん
(きょだいかし、こんさーともきぼも、ぎじゅつも、しつもこれいじょうないといういきにたっして)
巨大化し、コンサートも規模も、技術も、質もこれ以上ないという域に達して
(いた。もはやじょうじんではとてもまねできないようなかみわざをもつぎたりすと、)
いた。もはや常人ではとても真似できないような神業を持つギタリスト、
(さいせんたんのぎじゅつをくししたじっけんてきなおんがくとなにやらこむずかしいかしをうたうぷろぐれ)
最先端の技術を駆使した実験的な音楽と何やら小難しい歌詞を歌うプログレ
(ばんど、おかまみたいなかっこうのぐらむばんど・・・これらのどのじゃんるにも)
バンド、おかまみたいな格好のグラムバンド・・・これらのどのジャンルにも
(なじめないわかものたちがいきおいにまかせてならしたのがぱんく・ろっくであった。その)
馴染めない若者達が勢いに任せて鳴らしたのがパンク・ロックであった。その
(のいじーでてんぽのやたらばやい、そまつなえんそうとこうげきてきなかしはろっくん・ろーる)
ノイジーでテンポのやたら速い、粗末な演奏と攻撃的な歌詞はロックン・ロール
(がほんらいもっていたやばんせいとみじゅくせいをよみがえらせた。70ねんだいこうはんにとうじょうした、)
が本来持っていた野蛮性と未熟性を甦らせた。70年代後半に登場した、
(げんざいではりあるぱんくとよばれるせだいでだいひょうてきなばんどといえば、あめりか・)
現在ではリアルパンクと呼ばれる世代で代表的なバンドといえば、アメリカ・
(にゅーよーくのらもーんずといぎりす・ろんどんのぴすとるずである。)
ニューヨークのラモーンズとイギリス・ロンドンのピストルズである。
(こうもきょくたんにふたつのばんどをあげると、いちぶからぱんくといえばくらっしゅだ)
こうも極端に二つのバンドをあげると、一部からパンクといえばクラッシュだ
(とか、いやだむどだ、ぱてぃ・すみす、mc5、じょにー・さんだーす!・・・)
とか、いやダムドだ、パティ・スミス、MC5、ジョニー・サンダース!・・・
(などとこえがとんできそうだが、ぱんくというものをしらないひと、またはげんざい)
などと声が飛んできそうだが、パンクというものを知らない人、または現在
(ぱんくとよばれているもののるーつをしりたいひとはまずこのにだいばんどを)
パンクと呼ばれている物のルーツを知りたい人はまずこの二大バンドを
(おさえておくべきだろう。)
抑えておくべきだろう。
(らもーんずは74ねんにけっせいし、そのかつどうのきょてんをにゅーよーくのらいぶはうす、)
ラモーンズは74年に結成し、その活動の拠点をニューヨークのライブハウス、
(cbgbとしていた。この「cbgb」というらいぶはうすはいまではぱんく)
CBGBとしていた。この「CBGB」というライブハウスは今ではパンク
(はっしょうのちとしてぱんくふぁんのあいだではせいちてきなそんざいとなっている。というのも)
発祥の地としてパンクファンの間では聖地的な存在となっている。というのも
(このらいぶはうすにとうじしゅつえんしていたのはらもーんずのほかに、ぱてぃ・すみすや)
このライブハウスに当時出演していたのはラモーンズの他に、パティ・スミスや
(てれヴぃじょん、ぶろんでぃ、とーきんぐへっずといったいまでもおおくの)
テレヴィジョン、ブロンディ、トーキングヘッズといった今でも多くの
(ろっくふぁんたちににゅーよーく・ぱんくとしてあいされているめんめんだった)
ロックファン達にニューヨーク・パンクとして愛されている面々だった
(からである。ところで、いまでこそぱんくといえば「いっぽんぢょうしでやかましいおんがく」)
からである。ところで、今でこそパンクといえば「一本調子でやかましい音楽」
(といういめーじがていちゃくしているが、とうじこのcbgbのすてーじにあがっていた)
というイメージが定着しているが、当時このCBGBのステージに上がっていた
(みゅーじしゃんたちはじつにじゆうに、のびのびとめいんすとりーむではじかれて)
ミュージシャン達は実に自由に、伸び伸びとメインストリームで弾かれて
(しまうようなじっけんてきなおんがくをむめいながらやっていた。そんなかずかずのばんどに)
しまうような実験的な音楽を無名ながらやっていた。そんな数々のバンドに
(まざりながららもーんずはじぶんたちがこのみ、そしてしんじた「しんぷるで)
混ざりながらラモーンズは自分たちが好み、そして信じた「シンプルで
(すとれーとなろっくん・ろーる」をならしつづけた。つかうこーどはせいぜい)
ストレートなロックン・ロール」を鳴らし続けた。使うコードはせいぜい
(3つか4つ。ねっしょうもどらまちっくなてんかいもなく、とんだりはねたりもしない。)
3つか4つ。熱唱もドラマチックな展開もなく、飛んだり跳ねたりもしない。
(ただ、こうそくのびーとにのせながら「あのがきをばっとでぶんなぐってやれ」)
ただ、高速のビートに乗せながら「あのガキをバットでぶん殴ってやれ」
(「ぼくはきみのぼーいふれんどになりたい」といった、たんじゅんなめっせーじを)
「僕はキミのボーイフレンドになりたい」といった、単純なメッセージを
(つぶやきつづける・・・。それはまさしく、とうじのやたらとごたいそうにかしこぶった)
呟き続ける・・・。それはまさしく、当時のやたらと御大層にかしこぶった
(ものがふえたろっくのげんじょうにたいする「はんこう」であった。らもーんずがやった)
ものが増えたロックの現状に対する「反抗」であった。ラモーンズがやった
(ろっくがろっくにはんこうしたぜんだいみもんのできごとだったのである。らもーんずは)
ロックがロックに反抗した前代未聞の出来事だったのである。ラモーンズは
(76ねんにでびゅーあるばむ「らもーんずのげきじょう」のはっぴょうから95ねんのいんたいせんげん)
76年にデビューアルバム「ラモーンズの激情」の発表から95年の引退宣言
(まで、どうせだいのばんどがあっというあいだにかいさんしていくなか、ひたすらじぶんたちの)
まで、同世代のバンドがアッと言う間に解散していく中、ひたすら自分たちの
(しんじたろっくん・ろーるをならしつづけたのだが、2001ねんにはヴぉーかるの)
信じたロックン・ロールを鳴らし続けたのだが、2001年にはヴォーカルの
(じょーいが、2002ねんにはとちゅうでばんどをだったいしてしまったがおりじなる)
ジョーイが、2002年には途中でバンドを脱退してしまったがオリジナル
(めんばーでべーしすとのでぃーでぃーがたかいし、そのれきしにまくをとじた。)
メンバーでベーシストのディーディーが他界し、その歴史に幕を閉じた。
(そんな、らもーんずのれこーどでびゅーのどうねん、76ねんにいぎりすでいちまいの)
そんな、ラモーンズのレコードデビューの同年、76年にイギリスで一枚の
(しんぐるがはっぴょうされる。「あなーきー・いん・ざ・uk」ぴすとるずの)
シングルが発表される。「アナーキー・イン・ザ・UK」ピストルズの
(れこーどでびゅーである。)
レコードデビューである。