私は誰? 坂口安吾(2/2)

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私は誰? 坂口安吾

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(ぼくがおざきしろうせんせいとどういういんがでともだちになったかというと、いまからおよそじゅうねん、)

僕が尾崎士郎先生とどういう因果で友達になったかというと、今から凡そ十年、

(いやにじゅうねんぐらいまえだろう、わたしが「さくひん」というざっしに「こたんのふうかくをはいす」と)

いや二十年ぐらい前だろう、私が「作品」という雑誌に「枯淡の風格を排す」と

(いういちぶんをかいて、とくだしゅうせいせんせいをこきくだしたところ、せんぱいにたいするれいを)

いう一文を書いて、徳田秋声先生をコキ下したところ、先輩に対する礼を

(しらないやつであるとふんがいしたのがおざきしろうで、たけむらしょてんをかいして、わたしに)

知らない奴であるとフンガイしたのが尾崎士郎で、竹村書店を介して、私に

(けっとうをもうしこんできた。ばしょはていだいのごてんやま。けしきがいいや。かれはしんぱだ。)

決闘を申しこんできた。場所は帝大の御殿山。景色がいいや。彼は新派だ。

(もとよりわたしはかいだくし、していのじこくにでかけていくと、まずさけをのもうと)

元より私は快諾し、指定の時刻に出かけて行くと、先ず酒を飲もうと

(のむほどに、うえのよりあさくさへ、よしはらはどてのばにくや、ついによるがあけ、また、)

飲むほどに、上野より浅草へ、吉原は土手の馬肉屋、遂に夜が明け、又、

(ひるになり、かくてわたしはいえへかえると、ちをはいた。さんまたさん。わたしはおざきしろうの)

昼になり、かくて私は家へ帰ると、血を吐いた。惨又惨。私は尾崎士郎の

(けっとうにうちまかされたしだいである。せんぱいにたいするれいをしらんやつだ、という。)

決闘に打ち負かされた次第である。先輩に対する礼を知らん奴だ、という。

(まったくしょうせつがきはばかげたことをいう。ながわきざしみたいなことをいう。)

全く小説書きは馬鹿げたことを言う。長脇差みたいなことを言う。

(そくらてすをやっつけると、ぷらとんだのありすとてれすがこんぼうもって)

ソクラテスをやっつけると、プラトンだのアリストテレスがコン棒もって

(ごてんやまへのりこむのさ。せんじつだざいおさむをひやかしたら、かれはくちおしがって、)

御殿山へ乗り込むのさ。先日太宰治をひやかしたら、彼は口惜しがって、

(しかし、あんたはせんぱいだから、かんべんしてやる、とおっしゃった。)

然し、あんたは先輩だから、カンベンしてやる、と仰有《おっしゃ》った。

(まったくゆかいせんまん。しょうせつがきというやつは、かくのごとくとんちんかんで、)

全く愉快千万。小説書きという奴は、かくの如くトンチンカンで、

(みょうちきりんにこふうで、しゅびいっかんしていない。とんまなことばかりしゃべって)

妙チキリンに古風で、首尾一貫していない。トンマなことばかり喋って

(いるので、だから、かくものだけをよむのさ。ほんにんはたましいのぬけがらだ。)

いるので、だから、書くものだけを読むのさ。本人は魂のぬけがらだ。

(わたしはなにをかこうとしていたのだろう?しかり、しかり。わたしはしんこくはいやだ、と)

私は何を書こうとしていたのだろう?然り、然り。私は深刻はいやだ、と

(いいはっていたのだ。けれどもわたしはりろんてきにいうすべをしらないので、なんとなく)

言いはっていたのだ。けれども私は理論的に言う術を知らないので、なんとなく

(だべんによって、ごまかしてしまうこんたんであったらしい。だが、だめだ。)

駄弁によって、ごまかしてしまう魂胆であったらしい。だが、だめだ。

(どくしゃよりも、かくいうわたくしじしんをごまかすことができないのだもの。けれども、)

読者よりも、かく云う私自身をごまかすことが出来ないのだもの。けれども、

など

(わたくしじしんが、しんこくなそんざいでないことだけはじじつなのだ。わたしはやねうらだのいそうろうだの)

私自身が、深刻な存在でないことだけは事実なのだ。私は屋根裏だの居候だの

(よにげだの、ときにはたしかにいきつまるおもいで、それはそうさ、しゃっきんの)

夜逃げだの、時にはたしかに息つまる思いで、それはそうさ、借金の

(さいそくにはとらをかぶってもしんぞうはこころぼそいだろう。わたしはしかし、なんせんすいがいの)

サイソクには虎をかぶっても心臓は心細いだろう。私は然し、ナンセンス以外の

(なにものでもなかった。わたしはうぬぼれをもっていた。じぶんのさいのうにじしんを)

何物でもなかった。私はうぬぼれをもっていた。自分の才能に自身を

(もっていた。いまのよにうけいれられなくとも、れきしのなかでいきるのだと)

もっていた。今の世に受け入れられなくとも、歴史の中で生きるのだと

(いっていた。それは、みんなうそである。ほんとは、そんなことしんじてはいない)

言っていた。それは、みんな嘘である。ほんとは、そんなこと信じてはいない

(のだ。けれども、そういうふうにいってみないと、いきているいわれがないみたい)

のだ。けれども、そういう風に言ってみないと、生きているイワレがないみたい

(だから、そんなふうにいってみるので、わたしはやねうらでしょうせつをかくとき、ひとに)

だから、そんな風に言ってみるので、私は屋根裏で小説を書くとき、人に

(よまれて、おもちゃになればよいとすらも、かんがえていなかった。わたしはいつも)

よまれて、オモチャになればよいとすらも、考えていなかった。私はいつも

(たいくつだった。すなをかむように、むなしいばかり。いったいおれはなにものだろう。)

退屈だった。砂をかむように、虚しいばかり。いったい俺は何者だろう。

(なんのためにいきているのだろう、そういうじもんは、もうといのことばではない。)

なんのために生きているのだろう、そういう自問は、もう問いの言葉ではない。

(じもんじたいがわたしのほんしょうで、わたしのほねで、それが、わたしというにんげんだった。)

自問自体が私の本性で、私の骨で、それが、私という人間だった。

(わたしはいまも、つきはなしているのだ。いつもつきはなしている。どうにでも、)

私は今も、突き放しているのだ。いつも突き放している。どうにでも、

(なるがいい。わたしはしらない、と。あんり・べいるせんせい!ごじゅうねんごにりかいせられ、)

なるがいい。私は知らない、と。アンリ・ベイル先生!五十年後に理解せられ、

(よまれるであろう、と。ごじょうだんを。そんなことばを、あなたじしん、しんじている)

読まれるであろう、と。御冗談を。そんな言葉を、あなた自身、信じている

(ものか。よまれるとはなにごとですか。しんで、ごじゅうねんごによまれて、なんだろう、)

ものか。読まれるとは何事ですか。死んで、五十年後に読まれて、何だろう、

(それは。ふぁんとむ。それはゆうれいだ。じんせいはみじかし、げいじゅつはながし、それはかってだ。)

それは。ファントム。それは幽霊だ。人生は短し、芸術は長し、それは勝手だ。

(しかし、すくなくとも、げいじゅつかじたいにとっては、げいじゅつのながさとじんせいのながさがおなじ)

然し、すくなくとも、芸術家自体にとっては、芸術の長さと人生の長さが同じ

(ことはあたりまえではないか。じんせいだけだ。げいじゅつは、いきることのしのにむだ。)

ことは当りまえではないか。人生だけだ。芸術は、生きることのシノニムだ。

(わたしがしねば、わたしはおわる。わたしのげいじゅつがのこったって、そんなことは、わたしはしらぬ。)

私が死ねば、私は終る。私の芸術が残ったって、そんなことは、私は知らぬ。

(だいいち、きもちがわるいよ。わたしがしんでも、わたしのなまえがのこったり、でんきをかかれて、)

第一、気持が悪いよ。私が死んでも、私の名前が残ったり、伝記を書かれて、

(かきくだされたり、ほめられたり、でも、まあ、わたしのために、もしなんにんかが、)

かき下されたり、ほめられたり、でも、マア、私のために、もし何人かが、

(げんこうりょうのたねになってにょうぼうをやしなったり、さけをのんだりするのだとすると、ああ、)

原稿料の種になって女房を養ったり、酒をのんだりするのだとすると、ああ、

(そのなんわりかをいきているわたしがせしめてやれぬのがざんねん。わたしはわたしのげいじゅつが)

その何割かを生きている私がせしめてやれぬのが残念。私は私の芸術が

(のこるだの、しごによまれるだのと、そんなきたいはもっていない。わたしは)

残るだの、死後に読まれるだのと、そんな期待は持っていない。私は

(つきはなしている。どうにでもなれ、と。わたしはおこなう。わたしはいいわけはしない。)

突き放している。どうにでもなれ、と。私は行う。私は言い訳はしない。

(おこなうところが、わたしなのだ。わたしはわたしをしらないから、わたしはおこなう。そして、ああ、)

行うところが、私なのだ。私は私を知らないから、私は行う。そして、ああ、

(そうか、そういうわたしであったか、と。わたしはかく、ああ、そういうわたしであったか、)

そうか、そういう私であったか、と。私は書く、ああ、そういう私であったか、

(と。しかし、わたしはわたしをはっけんするためにかいているのではない。わたしはへんしゅうしゃが)

と。然し、私は私を発見するために書いているのではない。私は編輯者が

(よろこぶようなおもしろいしょうせつをかいてやろう、とおもうときもある。なんでも、いいや、)

喜ぶような面白い小説を書いてやろう、と思うときもある。何でも、いいや、

(ただ、かいてやれ、あたってくだけろ、というときもある。そのとき、そのとき、)

ただ、書いてやれ、当ってくだけろ、というときもある。そのとき、そのとき、

(でたらめ、いろいろのことをかんがえる。しかし、かんがえることと、かくこととはちがう。)

でたらめ、色々のことを考える。然し、考えることと、書くこととは違う。

(かくことは、それじたいがせいかつだ。あんり・べいるせんせいは「よみ、かき、あいせり」)

書くことは、それ自体が生活だ。アンリ・ベイル先生は「読み、書き、愛せり」

(とあるが、わたしは「かき、あいせり」よむのも、かんがえるのも、かくことのしゅういだ。)

とあるが、私は「書き、愛せり」読むのも、考えるのも、書くことの周囲だ。

(うっかりすると、あいせり、というのも、あてにならない。わたしはそんなに)

うっかりすると、愛せり、というのも、当にならない。私はそんなに

(あいしたろうか、かくしんてきに。わたしが、ともかく、ひたむきに、やったことは、かいた)

愛したろうか、確信的に。私が、ともかく、ひたむきに、やったことは、書いた

(ことだけだろう。わたしはしかし、みんな、かきすててきた。ほんとにかきすてた、)

ことだけだろう。私は然し、みんな、書きすててきた。ほんとに書きすてた、

(のだ。けれども、ともかく、かいたとき、かくことがせいかつであった。このことは)

のだ。けれども、ともかく、書いたとき、書くことが生活であった。このことは

(うたがえない。おんなにほれたとき、さけをのむとき、わたしはしたをだすこともできた。よこを)

疑えない。女に惚れたとき、酒をのむとき、私は舌をだすことも出来た。横を

(むくこともできた。わたしはかねがほしくてしょうせつをかいた。わたしにはわからない。わたしは)

むくこともできた。私は金が欲しくて小説を書いた。私には分らない。私は

(だんていすることができないけれども、わたくしじしんはかげのように、つかまえるところも)

断定することができないけれども、私自身は影のように、つかまえるところも

(なく、わたしのこいも、のんだくれのよるも、わたしはわたしのかげのようなきがする。)

なく、私の恋も、のんだくれの夜も、私は私の影のような気がする。

(「かきけり」というのが、たったひとつせいかつであったようなきがするのは、それが)

「書けり」というのが、たった一つ生活であったような気がするのは、それが

(けっしてかいらくではなく、むしろくつうであるにかかわらず、そのために、ほかをぎせいにして)

決して快楽ではなく、むしろ苦痛であるに拘らず、そのために、他を犠牲にして

(くいないからであろうか。そういうさしひき、そんとくかんじょうではないだろう。やっぱり)

悔いないからであろうか。そういう差引、損得勘定ではないだろう。やっぱり

(かくことがおもしろく、そしてそれがかいらくであるのかもわからない。しかし、かいらくという)

書くことが面白く、そしてそれが快楽であるのかも分らない。然し、快楽という

(ものはふあんなものだが、そしてつねにひとをうらぎるものであるが、(なぜなら)

ものは不安なものだが、そして常に人を裏切るものであるが、(なぜなら

(かいらくほどひとにくうそうせられるものはないから)わたしはかくことにうらぎられたとは)

快楽ほど人に空想せられるものはないから)私は書くことに裏切られたとは

(おもわれぬ。わたしはちからがたらなかった。かきえなかった。そういうふあんがないことも)

思われぬ。私は力が足らなかった。書き得なかった。そういう不安がないことも

(ない。しかし、かいた。かくことによって、かかれたものがじつざいし、かかない)

ない。然し、書いた。書くことによって、書かれたものが実在し、書かない

(ものはじつざいしなかった。そのくべつだけは、そして、そのくべつにわたしのせいかつが)

ものは実在しなかった。その区別だけは、そして、その区別に私の生活が

(じつざいしていたのではなかったのか。わたしはしかし、いきているから、かくだけで、)

実在していたのではなかったのか。私は然し、生きているから、書くだけで、

(わたしは、とにかく、いきており、いきつづけるつもりでいるのだ。わたしはわたしのかき)

私は、とにかく、生きており、生きつづけるつもりでいるのだ。私は私の書き

(すてたしょうせつ、つまり、かこのしょうせつは、もう、どうでも、よかった。かいて)

すてた小説、つまり、過去の小説は、もう、どうでも、よかった。書いて

(しまえば、もう、ようはない。わたしはそれもつきはなす。かってによのなかへでて、かってに)

しまえば、もう、用はない。私はそれも突き放す。勝手に世の中へでて、勝手に

(もみくちゃになるがいいや。おれはもうしらないのだから、と。わたしはいつも)

モミクチャになるがいいや。俺はもう知らないのだから、と。私はいつも

(「これから」のなかにいきている。これから、なにかをしよう、これから、なにか、)

「これから」の中に生きている。これから、何かをしよう、これから、何か、

(なっとく、わたしはなにかになっとくされたいのだろうか。しかし、ともかく「これから」という)

納得、私は何かに納得されたいのだろうか。然し、ともかく「これから」という

(きたいのなかに、いつも、わたしのいのちがかけられている。なぜわたしはかかねばならぬのか。)

期待の中に、いつも、私の命が賭けられている。なぜ私は書かねばならぬのか。

(わたしはしらない。いろいろのりゆうが、みんなしんじつのようでもあり、みんなうそのようでも)

私は知らない。色々の理由が、みんな真実のようでもあり、みんな嘘のようでも

(ある。ちしきも、じゆうも、ひどくふあんだ。みんなかげのような。わたしのなかにわたしじしんの)

ある。知識も、自由も、ひどく不安だ。みんな影のような。私の中に私自身の

(「じつざい」てきなあんていはかんじられない。そしてわたしは、わたしをこうていすることがぜんぶで、)

「実在」的な安定は感じられない。そして私は、私を肯定することが全部で、

(そして、それは、つまりじぶんをつきはなすこととまったくおなじいみである。)

そして、それは、つまり自分を突き放すことと全く同じ意味である。

(わたしはしょうせつをかきすて、なげだしているのだから、わたしはげいじゅつはながし、えいえんなどとは)

私は小説を書きすて、投げだしているのだから、私は芸術は長し、永遠などとは

(ゆめにもねんとうにもおいてはいない。わたしはよっぱらうとたいげんそうご、まるでだいげいじゅつかを)

夢にも念頭にもおいてはいない。私は酔っぱらうと大言壮語、まるで大芸術家を

(じふするごとくであるが、だいよたなので、わたしはいまと、これからのかげのなかで、)

自負する如くであるが、大ヨタなので、私は今と、これからの影の中で、

(うろつきまわっているだけなのだ。わたしはちかごろわたしのしょうせつがひとによまれるように)

うろつきまわっているだけなのだ。私はちかごろ私の小説が人によまれるように

(なったことも、ひたすらにおもしろいともおもわれず、やねうらだのいそうろうのころとおなじことで、)

なったことも、一向に面白いとも思われず、屋根裏だの居候の頃と同じことで、

(そして、べつに、ねんれいがしじゅうをすぎたというようなことも、まるでかんじていない。)

そして、別に、年齢が四十をすぎたというようなことも、まるで感じていない。

(わたしのたましいはひたすらにふかくもならず、たかくもならず、せいちょうしたり、へんかしているなにものも)

私の魂は一向に深くもならず、高くもならず、生長したり、変化している何物も

(かんじていないのだ。わたしはただ、うろついているだけだ。そしてうろつきつつ、)

感じていないのだ。私はただ、うろついているだけだ。そしてうろつきつつ、

(しぬのだ。するとわたしはおわる。わたしのかいたしょうせつが、それから、どうなろうと、)

死ぬのだ。すると私は終る。私の書いた小説が、それから、どうなろうと、

(わたしにとって、わたしのおわりはわたしのしだ。わたしはいしょなどはのこさぬ。いきているほかには)

私にとって、私の終りは私の死だ。私は遺書などは残さぬ。生きているほかには

(なにもない。わたしはだれ。わたしはおろかもの。わたしはわたしをしらない。それが、すべて。)

何もない。私は誰。私は愚か者。私は私を知らない。それが、すべて。

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