きりぎりす 太宰治(2/4)
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問題文
(つぎつぎにわたしは、いいおりょうりを、はつめいしたでしょう?いまは、だめ。)
つぎつぎに私は、いいお料理を、発明したでしょう?いまは、だめ。
(なんでもほしいものをかえるとおもえば、なにのくうそうもわいてきません。いちばへ)
なんでも欲しいものを買えると思えば、何の空想も湧いて来ません。市場へ
(でかけてみてもわたしは、きょむです。よそのおばさんたちのかうものを、)
出掛けてみても私は、虚無です。よその叔母さんたちの買うものを、
(わたしもおなじようにかってかえるだけです。あなたがきゅうにおえらくなって、あのよどばしの)
私も同じ様に買って帰るだけです。あなたが急にお偉くなって、あの淀橋の
(あぱーとをひきあげ、このみたかまちのいえにすむようになってからは、たのしいことが、)
アパートを引き上げ、この三鷹町の家に住むようになってからは、楽しい事が、
(なんにもなくなってしまいました。わたしの、うでのふるいどころがなくなりました。)
なんにもなくなってしまいました。私の、腕の振いどころが無くなりました。
(あなたは、きゅうにおくちもおじょうずになって、わたしをいっそうだいじにしてくださいましたが)
あなたは、急にお口もお上手になって、私を一そう大事にしてくださいましたが
(わたしはじしんがなんだかかいねこのようにおもわれて、いつもこまっておりました。わたしは、)
私は自身が何だか飼い猫のように思われて、いつも困って居りました。私は、
(あなたを、このよでりっしんなさるおかたとはおもわなかったのです。しぬまで)
あなたを、この世で立身なさるおかたとは思わなかったのです。死ぬまで
(びんぼうで、わがままかってなえばかりかいて、よのなかのひとみんなにちょうしょうせられて、)
貧乏で、わがまま勝手な画ばかり描いて、世の中の人みんなに嘲笑せられて、
(けれどもへいきでだれにもあたまをさげず、たまにはすきなおさけをのんでいっしょう、)
けれども平気で誰にも頭を下げず、たまには好きなお酒を飲んで一生、
(ぞくせけんによごされずにすごしていくおかただとばかりおもっておりました。わたしは、ばか)
俗世間に汚されずに過して行くお方だとばかり思って居りました。私は、ばか
(だったのでしょうか。でも、ひとりくらいは、このよに、そんなうつくしいひとが)
だったのでしょうか。でも、ひとりくらいは、この世に、そんな美しい人が
(いるはずだ、とわたしは、あのころも、いまもなおしんじております。そのひとのひたいの)
いる筈だ、と私は、あの頃も、いまもなお信じて居ります。その人の額の
(げっけいじゅのかんむりは、ほかのだれにもみえないので、きっとばかあつかいを)
月桂樹《げっけいじゅ》の冠は、他の誰にも見えないので、きっと馬鹿扱いを
(うけるでしょうし、だれもおよめにいってあげておせわしようともしない)
受けるでしょうし、誰もお嫁に行ってあげてお世話しようともしない
(でしょうから、わたしがいっていっしょうおつかえしようとおもっていました。わたしでなければ、)
でしょうから、私が行って一生お仕えしようと思っていました。私でなければ、
(わからないのだとおもっていました。それが、まあ、どうでしょう。きゅうに、)
わからないのだと思っていました。それが、まあ、どうでしょう。急に、
(なんだか、おえらくなってしまって。わたしは、どういうわけだか、はずかしくて)
何だか、お偉くなってしまって。私は、どういうわけだか、恥ずかしくて
(たまりません。わたしは、あなたのごしゅっせをにくんでいるのではございません。)
たまりません。私は、あなたの御出世を憎んでいるのではございません。
(あなたの、ふしぎなほどにかなしいえが、ひいちにちとおおくのひとにあいされているのを)
あなたの、不思議なほどに哀しい画が、日一日と多くの人に愛されているのを
(しって、わたしはかみさまにまいやおれいをいいました。なくほどうれしくおもいました。)
知って、私は神様に毎夜お礼を言いました。泣くほど嬉しく思いました。
(あなたがよどばしのあぱーとのうらにわをかいたり、しんやのしんじゅくのまちをかいて、おかねが)
あなたが淀橋のアパートの裏庭を描いたり、深夜の新宿の街を描いて、お金が
(まるっきりなくなったころにはたじまさんがきて、に、さんまいのえとこうかんにじゅうぶんの)
まるっきり無くなった頃には但馬さんが来て、二、三枚の画と交換に十分の
(おかねをおいていくのでしたが、あのころは、あなたは、たじまさんにえをもって)
お金を置いて行くのでしたが、あの頃は、あなたは、但馬さんに画を持って
(いかれることが、ひどくさびしいごようすで、おかねのことになど、てんでむかんしんで)
行かれる事が、ひどく淋しい御様子で、お金の事になど、てんで無関心で
(ありました。たじまさんは、くるたびごとにわたしを、こっそりろうかへよびだして、)
ありました。但馬さんは、来る度毎に私を、こっそり廊下へ呼び出して、
(どうぞ、よろしく、ときまったようにまじめにいっておじぎをし、しろいかくぶうとうを)
どうぞ、よろしく、ときまったように真面目に言ってお辞儀をし、白い角封筒を
(わたしのおびのあいだにつっこんでくださるのでした。あなたは、いつでもしらんかおをして)
私の帯の間につっ込んで下さるのでした。あなたは、いつでも知らん顔をして
(おりますし、わたしだって、すぐそのかくぶうとうのなかみをしらべるようないやしいことは)
居りますし、私だって、すぐその角封筒の中味を調べるような卑しい事は
(いたしませんでした。なければないで、やっていこうとおもっていたのですもの。)
致しませんでした。無ければ無いで、やって行こうと思っていたのですもの。
(いくらいただいたなど、あなたにほうこくしたことも、ありません。あなたをよごしたく)
いくらいただいた等、あなたに報告した事も、ありません。あなたを汚したく
(なかったのです。ほんとうに、わたしはいちどだって、あなたに、おかねがほしいの、ゆうめいに)
なかったのです。本当に、私は一度だって、あなたに、お金が欲しいの、有名に
(なってくださいの、とおねがいしたことはございませんでした。あなたのような、)
なって下さいの、とお願いした事はございませんでした。あなたのような、
(くちべたな、らんぼうなおかたは、(ごめんなさい)おかねもちにもならないし、)
口下手な、乱暴なおかたは、(ごめんなさい)お金持にもならないし、
(ゆうめいになどけっしてなれるものでないとわたしは、おもっていました。けれども、)
有名になど決してなれるものでないと私は、思っていました。けれども、
(それは、みせかけだったのね。どうして、どうして。)
それは、見せかけだったのね。どうして、どうして。
(たじまさんがこてんのそうだんをもってこられたときから、あなたは、なんだか、おしゃれに)
但馬さんが個展の相談を持って来られた時から、あなたは、何だか、おしゃれに
(なりました。まず、はいしゃへかよいはじめました。あなたはむしばがおおくて、)
なりました。まず、歯医者へ通いはじめました。あなたは虫歯が多くて、
(おわらいになると、まるでおじいさんのようにみえましたが、けれどもあなたは、)
お笑いになると、まるでおじいさんのように見えましたが、けれどもあなたは、
(ちっともきになさらず、わたしが、はいしゃへおいでになるようにおすすめしても、)
ちっとも気になさらず、私が、歯医者へおいでになるようにおすすめしても、
(いいよ、はがみんななくなりゃあそういればにするんだ、きんばをひからせておんなのこに)
いいよ、歯がみんななくなりゃあ総入歯にするんだ、金歯を光らせて女の子に
(すかれたって、しようがない、などとじょうだんばかりおっしゃって、ひたすらにはの)
好かれたって、仕様が無い、等と冗談ばかりおっしゃって、一向に歯の
(おていれをなさらなかったのに、どういうかぜのふきまわしか、おしごとのあいま、)
お手入れをなさらなかったのに、どういう風の吹き廻しか、お仕事の合間、
(あいまに、ちょいちょいとでかけていっては、いっぽんにほんと、きんばをひからせて)
合間に、ちょいちょいと出かけて行っては、一本二本と、金歯を光らせて
(おかえりになるようになりました。こら、わらってみろ、とわたしがいったら、)
お帰りになるようになりました。こら、笑ってみろ、と私が言ったら、
(あなたは、ひげもじゃのかおをあかくして、たじまのやつが、うるさくいうんだ、と)
あなたは、鬚もじゃの顔を赤くして、但馬の奴が、うるさく言うんだ、と
(めずらしくきよわいくちょうでべんかいなさいました。こてんは、わたしがよどばしへまいりましてから)
珍しく気弱い口調で弁解なさいました。個展は、私が淀橋へまいりましてから
(にねんめのあきに、ひらかれました。わたしは、うれしゅうございました。)
二年目の秋に、ひらかれました。私は、うれしゅうございました。
(あなたのえが、ひとりでもおおくのひとにあいされるのに、なんで、うれしくないことが、)
あなたの画が、一人でも多くの人に愛されるのに、なんで、うれしくない事が、
(ありましょう。わたしには、せんけんのめいがあったのですものね。でも、しんぶんでも)
ありましょう。私には、先見の明があったのですものね。でも、新聞でも
(あんなに、ひどくほめられるし、しゅっぴんのえが、ぜんぶうりきれたそうですし、)
あんなに、ひどくほめられるし、出品の画が、全部売り切れたそうですし、
(ゆうめいなたいかからもてがみがきますし、あんまり、よすぎて、わたしはおそろしいきが)
有名な大家からも手紙が来ますし、あんまり、よすぎて、私は恐ろしい気が
(いたしました。かいじょうへ、みにこいと、あなたにも、たじまさんにも、あれほどつよく)
致しました。会場へ、見に来いと、あなたにも、但馬さんにも、あれほど強く
(いわれましたけれど、わたしは、ぜんしんふるえながら、おへやであみものばかり)
言われましたけれど、私は、全身震えながら、お部屋で編物ばかり
(していました。あなたの、あのえが、にじゅうまいも、さんじゅうまいも、ずらりとならんで、)
していました。あなたの、あの画が、二十枚も、三十枚も、ずらりと並んで、
(それをおおぜいのひとたちが、ながめているありさまを、そうぞうしてさえ、わたしはなきそうに)
それを大勢の人たちが、眺めている有様を、想像してさえ、私は泣きそうに
(なってしまいます。こんなに、いいことが、こんなにはやくきすぎては、きっと、)
なってしまいます。こんなに、いい事が、こんなに早く来すぎては、きっと、
(なにかわるいことがおこるのだとさえ、かんがえました。わたしは、まいや、かみさまに、おわびを)
何か悪い事が起るのだとさえ、考えました。私は、毎夜、神様に、お詫びを
(もうしました。どうか、もう、こうふくは、これだけでたくさんでございますから、)
申しました。どうか、もう、幸福は、これだけでたくさんでございますから、
(これからあと、あのひとがびょうきなどなさらぬよう、わるいことのおこらぬよう、おまもり)
これから後、あの人が病気などなさらぬよう、悪い事の起らぬよう、お守り
(ください、とねんじていました。あなたはまいや、たじまさんにさそわれて、ほうぼうの)
下さい、と念じていました。あなたは毎夜、但馬さんに誘われて、ほうぼうの
(たいかのところへあいさつにまいります。よくあさおかえりのことも、ございましたが、わたしはべつに)
大家のところへ挨拶に参ります。翌朝お帰りの事も、ございましたが、私は別に
(なんともおもっていないのに、あなたは、それはくわしくぜんやのことをわたしにかたって)
何とも思っていないのに、あなたは、それは精しく前夜の事を私に語って
(くださって、なにせんせいは、どうだとか、あれはぐぶつだとか、)
下さって、何先生は、どうだとか、あれは愚物だとか、
(むくちなあなたらしくもなく、ずいぶんつまらぬおしゃべりをはじめます。わたしは、)
無口なあなたらしくもなく、ずいぶんつまらぬお喋りをはじめます。私は、
(それまでにねん、あなたとくらして、あなたがひとのかげぐちをたたいたのをうかがったことが)
それまで二年、あなたと暮して、あなたが人の陰口をたたいたのを伺った事が
(いちどもありませんでした。なにせんせいは、どうだって、あなたはゆいがどくそんのおたいどで)
一度もありませんでした。何先生は、どうだって、あなたは唯我独尊のお態度で
(てんでむかんしんのごようすだったではありませんか。それに、そんなおしゃべりをして、)
てんで無関心の御様子だったではありませんか。それに、そんなお喋りをして、
(ぜんやは、あなたになんのうしろぐらいところもなかったということを、)
前夜は、あなたに何のうしろ暗いところもなかったという事を、
(わたしになっとくさせようと、おつとめになっていられるようなのですが、そんなきよわな)
私に納得させようと、お努めになって居られるようなのですが、そんな気弱な
(とおまわしのべんかいをなさらずとも、わたしだって、まさか、これまでなにもしらずに)
遠廻しの弁解をなさらずとも、私だって、まさか、これまで何も知らずに
(そだってきたわけでもございませんし、はっきりおっしゃってくださったほうが、)
育って来たわけでもございませんし、はっきりおっしゃって下さったほうが、
(いちにちくらいくるしくても、あとはわたしはかえってらくになります。しょせんはしょうがいの、)
一日くらい苦しくても、あとは私はかえって楽になります。所詮は生涯の、
(にょうぼうなのですから。わたしは、そのほうのことでは、おとこのひとを、あまりしんようして)
女房なのですから。私は、そのほうの事では、男の人を、あまり信用して
(おりませんし、また、めちゃにうたがってもおりません。そのほうのことでしたら、)
居りませんし、また、滅茶に疑っても居りません。そのほうの事でしたら、
(わたしは、ちっともしんぱいしておりませぬし、また、わらってこらえることも)
私は、ちっとも心配して居りませぬし、また、笑って怺える事も
(できるのですけれど、ほかに、もっと、つらいことがございます。)
出来るのですけれど、他に、もっと、つらい事がございます。
(わたしたちは、きゅうにおかねもちになりました。あなたも、ひどくおいそがしく)
私たちは、急にお金持になりました。あなたも、ひどくおいそがしく
(なりました。ふたかかいからむかえられて、かいいんになりました。そうして、あなたは、)
なりました。二科会から迎えられて、会員になりました。そうして、あなたは、
(あぱーとのちいさいへやを、はずかしがるようになりました。たじまさんもしきりに)
アパートの小さい部屋を、恥ずかしがるようになりました。但馬さんもしきりに
(ひっこすようにすすめて、こんなあぱーとにいるのでは、よのなかのしんようも)
引越すようにすすめて、こんなアパートに居るのでは、世の中の信用も
(いかがとおもわれるし、だいいちえのねだんが、いつまでもあがりません。ひとつふんぱつして)
如何と思われるし、だいいち画の値段が、いつまでも上りません。一つ奮発して
(おおきいいえを、おかりなさい、と、いやなひさくをさずけ、あなたまで、そりゃあ)
大きい家を、お借りなさい、と、いやな秘策をさずけ、あなたまで、そりゃあ
(そうだ、こんなあぱーとにいると、ひとがばかにしやがる、などとげひんなことを、)
そうだ、こんなアパートに居ると、人が馬鹿にしやがる、等と下品なことを、
(いきごんでいうので、わたしはなんだか、ぎょっとして、ひどくさびしくなりました。)
意気込んで言うので、私は何だか、ぎょっとして、ひどく淋しくなりました。
(たじまさんはじてんしゃにのってほうぼうばしりまわり、このみたかまちのいえをみつけて)
但馬さんは自転車に乗ってほうぼう走り廻り、この三鷹町の家を見つけて
(くださいました。としのくれにわたしたちは、ほんのわずかなおどうぐをもって、この、)
下さいました。としの暮に私たちは、ほんのわずかなお道具を持って、この、
(いやにおおきいおうちへひっこしてまいりました。あなたは、わたしのしらぬまにでぱーとへ)
いやに大きいお家へ引越して参りました。あなたは、私の知らぬ間にデパートへ
(いってなにやらかやらりっぱなおどうぐを、ほんとうにたくさんかいこんで、そのにもつが、)
行って何やらかやら立派なお道具を、本当にたくさん買い込んで、その荷物が、
(つぎつぎとでぱーとからはいたつされてくるので、わたしはむねがつまって、それからかなしく)
次々とデパートから配達されて来るので、私は胸がつまって、それから悲しく
(なりました。これではまるで、そこらにたくさんあるあたりまえのなりきんとすこしも)
なりました。これではまるで、そこらにたくさんある当り前の成金と少しも
(ちがっていないのですもの。けれどもわたしは、あなたにわるくて、つとめてうれしそうに、)
違っていないのですもの。けれども私は、あなたに悪くて、努めて嬉しそうに、
(はしゃいでいました。いつのまにかわたしは、あの、いやな「おくさま」みたいなかたちに)
はしゃいでいました。いつの間にか私は、あの、いやな「奥様」みたいな形に
(なっていました。あなたは、じょちゅうをおこうとさえいいだしましたけれども、)
なっていました。あなたは、女中を置こうとさえ言い出しましたけれども、
(それだけは、わたしは、なんとしても、いやで、はんたいいたしました。わたしには、ひとを、)
それだけは、私は、何としても、いやで、反対いたしました。私には、人を、
(つかうことができません。ひっこしてきて、すぐにあなたは、ねんがじょうを、)
使うことが出来ません。引越して来て、すぐにあなたは、年賀状を、
(いてんつうちをかねてさんびゃくまいもすらせました。さんびゃくまい。いつのまに、そんなに)
移転通知を兼ねて三百枚も刷らせました。三百枚。いつのまに、そんなに
(おしりあいができたのでしょう。わたしには、あなたが、たいへんなあぶないつなわたりを)
お知合いが出来たのでしょう。私には、あなたが、たいへんな危い綱渡りを
(はじめているようなきがして、おそろしくてなりませんでした。)
はじめているような気がして、恐しくてなりませんでした。