恥 太宰治(2/3)
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問題文
(ほんとうに、このたびは、おどろきました。ちゃんとわたしのなまえまで、おしりに)
本当に、このたびは、おどろきました。ちゃんと私の名前まで、お知りに
(なっているのですもの。きっと、きかは、あのわたしのてがみにこうふんしておおさわぎして)
なっているのですもの。きっと、貴下は、あの私の手紙に興奮して大騒ぎして
(おともだちみんなにみせて、そうしててがみのけしいんなどをてがかりに、しんぶんしゃの)
お友達みんなに見せて、そうして手紙の消印などを手がかりに、新聞社の
(おともだちあたりにたのんで、とうとう、わたしのなまえをつきとめたというような)
お友達あたりにたのんで、とうとう、私の名前を突きとめたというような
(ところだろうとおもっていますが、ちがいますか?おとこのかたは、おんなからのてがみだと)
ところだろうと思っていますが、違いますか?男のかたは、女からの手紙だと
(すぐおおさわぎをするんだから、いやだわ。どうしてわたしのなまえや、それから)
直ぐ大騒ぎをするんだから、いやだわ。どうして私の名前や、それから
(にじゅうさんさいだということまでしったか、てがみでおしらせください。)
二十三歳だという事まで知ったか、手紙でお知らせ下さい。
(すえながくぶんつういたしましょう。このつぎからは、もっとやさしいてがみを)
末永く文通いたしましょう。この次からは、もっと優しい手紙を
(さしあげましょうね。ごじちょうください。」)
差し上げましょうね。御自重下さい。」
(きくこさん、わたしはいまこのてがみをかきうつしながらなんどもなんどもなきべそを)
菊子さん、私はいま此の手紙を書き写しながら何度も何度も泣きべそを
(かきました。ぜんしんにあぶらあせがにじみでるかんじ。おさっしください。)
かきました。全身に油汗がにじみ出る感じ。お察し下さい。
(わたし、まちがっていたのよ。わたしのことなんかかいたんじゃなかったのよ。)
私、間違っていたのよ。私の事なんか書いたんじゃ無かったのよ。
(てんでもんだいにされていなかったのよ。ああはずかしい、はずかしい。)
てんで問題にされていなかったのよ。ああ恥ずかしい、恥ずかしい。
(きくこさん、どうじょうしてね。おしまいまでおはなしするわ。)
菊子さん、同情してね。おしまいまでお話しするわ。
(とださんがこんげつの「ぶんがくせかい」にはっぴょうした「ななくさ」というたんぺんしょうせつ、)
戸田さんが今月の『文学世界』に発表した『七草』という短篇小説、
(およみになりましたか。にじゅうさんのむすめが、あんまりこいをおそれ、こうこつをにくんで、)
お読みになりましたか。二十三の娘が、あんまり恋を恐れ、恍惚を憎んで、
(とうとうおかねもちのろくじゅうのじいさんとけっこんしてしまって、それでもやっぱり、)
とうとうお金持ちの六十の爺さんと結婚してしまって、それでもやっぱり、
(いやになり、じさつするというすじのしょうせつ。すこしろこつでくらいけれど、とださんの)
いやになり、自殺するという筋の小説。すこし露骨で暗いけれど、戸田さんの
(もちあじはでていました。わたしはそのしょうせつをよんで、てっきりわたしをもでるにして)
持味は出ていました。私はその小説を読んで、てっきり私をモデルにして
(かいたのだとおもいこんでしまったの。なぜだか、に、さんぎょうよんだとたんに)
書いたのだと思い込んでしまったの。なぜだか、二、三行読んだとたんに
(そうおもいこんで、さっとあおざめました。だって、そのおんなのこのなまえはわたしとおなじ、)
そう思い込んで、さっと蒼ざめました。だって、その女の子の名前は私と同じ、
(かずこじゃないの。としもおなじ、にじゅうさんじゃないの。ちちがだいがくのせんせいをしている)
和子じゃないの。としも同じ、二十三じゃないの。父が大学の先生をしている
(ところまで、そっくりじゃないの。あとはわたしのみのうえと、てんでちがうけれど、)
ところまで、そっくりじゃないの。あとは私の身の上と、てんで違うけれど、
(でも、これはわたしのてがみからひんとをえてそうさくしたのにちがいないと、)
でも、之《これ》は私の手紙からヒントを得て創作したのにちがいないと、
(なぜだかそうおもいこんでしまったのよ。それがおおはじのもとでした。)
なぜだかそう思い込んでしまったのよ。それが大恥のもとでした。
(し、ごにちしてとださんからはがきをいただきましたが、それにはこうかかれて)
四、五日して戸田さんから葉書をいただきましたが、それにはこう書かれて
(おりました。「はいふく、おてがみをいただきました。ごしじをありがたくぞんじます。)
居りました。「拝復、お手紙をいただきました。御支持をありがたく存じます。
(また、このまえのおてがみも、たしかにはいしょういたしました。)
また、この前のお手紙も、たしかに拝誦《はいしょう》いたしました。
(わたしはきょうまでひとのおてがみをいえのものにみせてわらうなどというしつれいなことはいちども)
私は今日まで人のお手紙を家の者に見せて笑うなどという失礼な事は一度も
(いたしませんでした。またともだちにみせてさわいだこともございません。そのてんは、)
致しませんでした。また友達に見せて騒いだ事もございません。その点は、
(ごほうねんください。なおまた、わたしのじんかくがかんせいしてからあってくださるのだそうですが)
御放念下さい。なおまた、私の人格が完成してから逢って下さるのだそうですが
(いったい、にんげんは、じぶんでじぶんをかんせいできるものでしょうか。ふいつ。」)
いったい、人間は、自分で自分を完成できるものでしょうか。不一。」
(やっぱりしょうせつかというものは、うまいことをいうものだとおもいました。)
やっぱり小説家というものは、うまい事を言うものだと思いました。
(いっぽんやられたと、くやしくおもいました。わたしはいちにちぼんやりして、あくる)
一本やられたと、くやしく思いました。私は一日ぼんやりして、翌《あく》る
(あさ、きゅうにとださんにあいたくなったのです。あってあげなければいけない。)
朝、急に戸田さんに逢いたくなったのです。逢ってあげなければいけない。
(あのひとは、いまきっとおくるしいのだ。わたしがいまあってあげなければ、あのひとは)
あの人は、いまきっとお苦しいのだ。私がいま逢ってあげなければ、あの人は
(だらくしてしまうかもしれない。あのひとはわたしのいくのをまっているのだ。)
堕落してしまうかも知れない。あの人は私の行くのを待っているのだ。
(おあいいたしましょう。わたしはさっそく、みじたくをはじめました。きくこさん、ながやの)
お逢い致しましょう。私は早速、身仕度をはじめました。菊子さん、長屋の
(びんぼうさっかをほうもんするのに、ぜいたくなみなりでいけるとおもって?)
貧乏作家を訪問するのに、ぜいたくな身なりで行けると思って?
(とてもできない。あるふじんだんたいのかんじさんたちがきつねのえりまきをして、ひんみんくつの)
とても出来ない。或る婦人団体の幹事さんたちが狐の襟巻をして、貧民窟の
(しさつにいってもんだいをおこしたことがあったでしょう?きをつけなければいけません。)
視察に行って問題を起した事があったでしょう?気を附けなければいけません。
(しょうせつによるととださんは、きるきものさえなくてわたのはみでたどてらいちまいきり)
小説に依ると戸田さんは、着る着物さえ無くて綿のはみ出たドテラ一枚きり
(なのです。そうしていえのたたみはやぶれて、しんぶんしをへやいっぱいにしきつめてそのうえに)
なのです。そうして家の畳は破れて、新聞紙を部屋一ぱいに敷き詰めてその上に
(すわっていられるのです。そんなにおこまりのいえへ、わたしがこないだしんちょうしたぴんくの)
坐って居られるのです。そんなにお困りの家へ、私がこないだ新調したピンクの
(どれすなどきていったら、いたずらにとださんのごかぞくをさびしがらせ、)
ドレスなど着て行ったら、いたずらに戸田さんの御家族を淋しがらせ、
(きょうしゅくさせるばかりでしつれいなことだとおもったのです。わたしはじょがっこうじだいのつぎはぎ)
恐縮させるばかりで失礼な事だと思ったのです。私は女学校時代のつぎはぎ
(だらけのすかーとに、それからやはりむかしすきーのときにきたきいろいじゃけつ。)
だらけのスカートに、それからやはり昔スキーの時に着た黄色いジャケツ。
(このじゃけつは、もうすっかりちいさくなって、りょううでがひじちかくまでによっきり)
此のジャケツは、もうすっかり小さくなって、両腕が肘ちかく迄によっきり
(でるのです。そでぐちはほころびて、けいとがたれさがって、まずもうしぶんのない)
出るのです。袖口はほころびて、毛糸が垂れさがって、まず申し分のない
(しろものなのです。とださんはまいとし、あきになるとかっけがたって)
代物なのです。戸田さんは毎年、秋になると脚気《かっけ》が起って
(くるしむということもしょうせつでしっていましたので、わたしのべっどのもうふをいちまい、)
苦しむという事も小説で知っていましたので、私のベッドの毛布を一枚、
(ふろしきにつつんでもっていくことにいたしました。もうふであしをくるんでしごとを)
風呂敷に包んで持って行く事に致しました。毛布で脚をくるんで仕事を
(なさるようにちゅうこくしたかったのです。わたしは、ままにかくれてうらぐちから、こっそり)
なさるように忠告したかったのです。私は、ママにかくれて裏口から、こっそり
(でました。きくこさんもごぞんじでしょうが、わたしのまえばがいちまいだけぎしで)
出ました。菊子さんもご存じでしょうが、私の前歯が一枚だけ義歯で
(とりはずしできるので、わたしはでんしゃのなかでそれをそっととりはずして、わざと)
取りはずし出来るので、私は電車の中でそれをそっと取りはずして、わざと
(みにくいかおにつくりました。とださんは、たしかはがぼろぼろにかけているはずですから)
醜い顔に作りました。戸田さんは、たしか歯がぼろぼろに欠けている筈ですから
(とださんにはじをかかせないように、あんしんさせるように、わたしもはのわるいところを)
戸田さんに恥をかかせないように、安心させるように、私も歯の悪いところを
(みせてあげるつもりだったのです。かみもくしゃくしゃにみだして、ずいぶんみにくい)
見せてあげるつもりだったのです。髪もくしゃくしゃに乱して、ずいぶん醜い
(まずしいおんなになりました。よわいむちなびんぼうにんをなぐさめるのには、たいへんこまかい)
まずしい女になりました。弱い無智な貧乏人を慰めるのには、たいへんこまかい
(こころづかいがなければいけないものです。)
心使いがなければいけないものです。
(とださんのいえはこうがいです。しょうせんでんしゃからおりて、こうばんできいて、わりにかんたんに)
戸田さんの家は郊外です。省線電車から降りて、交番で聞いて、わりに簡単に
(とださんのいえをみつけました。きくこさん、とださんのおうちは、ながやでは)
戸田さんの家を見つけました。菊子さん、戸田さんのお家は、長屋では
(ありませんでした。ちいさいけれども、せいけつなかんじの、ちゃんとしたいっこかまえの)
ありませんでした。小さいけれども、清潔な感じの、ちゃんとした一戸構えの
(いえでした。おにわもきれいにていれされて、あきのばらがさきそろっていました。)
家でした。お庭も綺麗に手入れされて、秋の薔薇が咲きそろっていました。
(すべていがいのことばかりでした。げんかんをあけると、げたばこのうえにきくのはなをいけた)
すべて意外の事ばかりでした。玄関をあけると、下駄箱の上に菊の花を活けた
(すいばんがおかれていました。おちついて、とてもじょうひんなおくさまがでてこられて、)
水盤が置かれていました。落ちついて、とても上品な奥様が出て来られて、
(わたしにおじぎをいたしました。わたしはいえをまちがったのではないかとおもいました。)
私にお辞儀を致しました。私は家を間違ったのではないかと思いました。
(「あの、しょうせつをかいておられるとださんは、こちらさまでございますか。」)
「あの、小説を書いて居られる戸田さんは、こちらさまでございますか。」
(と、おそるおそるたずねてみました。「はあ。」とやさしくこたえるおくさまのえがおは、)
と、恐る恐るたずねてみました。「はあ。」と優しく答える奥様の笑顔は、
(わたしにはまぶしかった。「せんせいは、」おもわずせんせいということばがでました。)
私にはまぶしかった。「先生は、」思わず先生という言葉が出ました。
(「せんせいは、おいででしょうか。」わたしはせんせいのしょさいにとおされました。まじめな)
「先生は、おいででしょうか。」私は先生の書斎にとおされました。まじめな
(かおのおとこが、きちんとつくえのまえにすわっていました。どてらでは、ありませんでした。)
顔の男が、きちんと机の前に坐っていました。ドテラでは、ありませんでした。
(なんというぬのじか、わたしにはわかりませんけれど、こいあおいろのあついぬのじのあわせに、)
なんという布地か、私にはわかりませんけれど、濃い青色の厚い布地の袷に、
(くろじにしろいしまがいっぽんはいっているかくおびをしめていました。しょさいは、おちゃしつの)
黒地に白い縞が一本はいっている角帯をしめていました。書斎は、お茶室の
(かんじがしました。とこのまには、かんしのじく、わたしには、いちじもよめませんでした。)
感じがしました。床の間には、漢詩の軸、私には、一字も読めませんでした。
(たけのかごには、つたがうつくしくいけられていました。つくえのそばには、とても)
竹の籠には、蔦《つた》が美しく活けられていました。机の傍には、とても
(たくさんのほんがうずたかくつまれていました。)
たくさんの本がうず高く積まれていました。
(まるでちがうのです。はもかけていません。あたまもはげていません。きりっとした)
まるで違うのです。歯も欠けていません。頭も禿げていません。きりっとした
(かおをしていました。ふけつなかんじは、どこにもありません。このひとがしょうちゅうをのんで)
顔をしていました。不潔な感じは、どこにもありません。この人が焼酎を飲んで
(じべたにねるのかとふしぎでなりませんでした。「しょうせつのかんじと、おあいした)
地べたに寝るのかと不思議でなりませんでした。「小説の感じと、お逢いした
(かんじとまるでちがいます。」わたしはきをとりなおしていいました。)
感じとまるでちがいます。」私は気を取り直して言いました。
(「そうですか。」かるくこたえました。あまりわたしにかんしんをもっていないようすです。)
「そうですか。」軽く答えました。あまり私に関心を持っていない様子です。
(「どうしてわたしのことをごぞんじになったのでしょう。それをうかがいに)
「どうして私の事をご存じになったのでしょう。それを伺いに
(まいりましたの。」わたしは、そんなことをいって、ていさいをとりつくろって)
まいりましたの。」私は、そんな事を言って、体裁を取りつくろって
(みました。「なんですか?」ちっともはんのうがありません。)
みました。「なんですか?」ちっとも反応がありません。
(「わたしがなまえもじゅうしょもかくしていたのに、せんせいは、みやぶったじゃありませんか。)
「私が名前も住所もかくしていたのに、先生は、見破ったじゃありませんか。
(せんじつおてがみをさしあげて、そのことをだいいちにおたずねしたはずですけど。」)
先日お手紙を差し上げて、その事を第一におたずねした筈ですけど。」
(「ぼくはあなたのことなんかしっていませんよ。へんですね。」すんだめで)
「僕はあなたの事なんか知っていませんよ。へんですね。」澄んだ眼で
(わたしのかおを、まっすぐにみてうすくわらいました。「まあ!」わたしはろうばい)
私の顔を、まっすぐに見て薄く笑いました。「まあ!」私は狼狽《ろうばい》
(しはじめました。「だって、そんなら、わたしのあのてがみのいみが、まるで)
しはじめました。「だって、そんなら、私のあの手紙の意味が、まるで
(わからなかったでしょうに、それを、だまっているなんて、ひどいわ。)
わからなかったでしょうに、それを、黙っているなんて、ひどいわ。
(わたしをばかだとおもったでしょうね。」わたしはなきたくなりました。わたしはなんという)
私を馬鹿だと思ったでしょうね。」私は泣きたくなりました。私は何という
(ひどいひとりがってんをしていたのでしょう。めっちゃ、めちゃ。きくこさん。かおから)
ひどい独り合点をしていたのでしょう。滅っ茶、滅茶。菊子さん。顔から
(ひがでる、なんてけいようはなまぬるい。そうげんをころげまわって、わあっとさけびたい、)
火が出る、なんて形容はなまぬるい。草原をころげ廻って、わあっと叫びたい、
(といってもまだたりない。「それでは、あのてがみをかえしてください。はずかしくて)
と言っても未だ足りない。「それでは、あの手紙を返して下さい。恥ずかしくて
(いけません。かえしてください。」とださんは、まじめなかおをしてうなずきました。)
いけません。返して下さい。」戸田さんは、まじめな顔をしてうなずきました。
(おこったのかもしれません。ひどいやつだ、とあきれたのでしょう。)
怒ったのかも知れません。ひどい奴だ、と呆れたのでしょう。
(「さがしてみましょう。まいにちのてがみをいちいちほぞんしておくわけにも)
「捜してみましょう。毎日の手紙をいちいち保存して置くわけにも
(いきませんから、もう、なくなっているかもしれませんが、あとで、いえのものに)
いきませんから、もう、なくなっているかも知れませんが、あとで、家の者に
(さがさせてみます。もし、みつかったら、おおくりしましょう。につうでしたか?」)
捜させてみます。もし、見つかったら、お送りしましょう。二通でしたか?」