究極世界史3 イスラーム 宋代中国 モンゴル
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問題文
(6せいきこうはんおあしすのみちやうみのみちをとおったしょうひんがあらびあはんとうせいぶのめっかをけいゆ)
6世紀後半オアシスの道や海の道からの商品がアラビア半島西部のメッカを経由
(むあーうぃやは661ねんだますくすにうまいやちょうをひらいた)
ムアーウィヤは661年ダマスクスにウマイヤ朝を開いた
(うまいやちょうは732ねんとぅーるぽわてぃえかんのたたかいでやぶれぴれねーさんみゃくみなみにしりぞく)
ウマイヤ朝は732年トゥールポワティエ間の戦いで敗れピレネー山脈南に退く
(だい2だいかりふのまんすーるはいらくへいげんのちゅうしんにえんけいのしゅとばぐだーどをぞうえい)
第2代カリフのマンスールはイラク平原の中心に円形の首都バグダードを造営
(いらんじんのぐんじせいけんぶわいふちょうは946ねんばぐだーどににゅうじょうしだいあみーるに)
イラン人の軍事政権ブワイフ朝は946年バグダードに入城し大アミールに
(ちゅうおうあじあからせいほうにしんしゅつしたとるこじんせるじゅーくちょうはまるむーくをさいよう)
中央アジアから西方に進出したトルコ人セルジューク朝はマルムークを採用
(あいゆーぶちょうするたんもまむるーくをつくったが1250ねん)
アイユーブ朝スルタンもマムルークを作ったが1250年つづく
(あいゆーぶちょうをたおしてえじぷとしりあにまむるーくちょうをじゅりつ)
アイユーブ朝を倒してエジプトシリアにマムルーク朝を樹立
(れきだいのするたんはこうえきのりじゅんをどくせんししゅとかいろはいすらーむのちゅうしんち)
歴代のスルタンは交易の利潤を独占し首都カイロはイスラームの中心地
(いべりあはんとうでさいごのいすらーむおうちょうとなったのはなするちょう)
イベリア半島で最後のイスラーム王朝となったのはナスル朝
(あふがにすたんのとるこけいがずなちょうとどくりつしたいらんけいごーるちょうがいんどにしんこう)
アフガニスタンのトルコ系ガズナ朝と独立したイラン系ゴール朝がインドに侵攻
(どれいおうちょうをふくめでりーをほんきょにしたのをまとめてでりーするたんちょう)
奴隷王朝を含めデリーを本拠にしたのをまとめてデリースルタン朝
(まらっかおうこくはみんが15せいきにはいってていわがいんどよういってからこくさいこうえきとしに)
マラッカ王国は明が15世紀に入って鄭和がインド洋行ってから国際交易都市に
(くしゅおうこくがめろえにみやこをおいたじだいせいてつとしょうぎょうでさかえた)
クシュ王国がメロエに都を置いた時代製鉄と商業で栄えた
(くしゅおうこくは4せいきえちおぴあのあくすむおうこくにほろぼされた)
クシュ王国は4世紀エチオピアのアクスム王国に滅ぼされた
(にしあふりかのがーなおうこくはきんをほうふにさんしゅつ)
西アフリカのガーナ王国は金を豊富に産出
(にしあふりかがーなおうこくのすいたいごのおうごんのくにまりおうこくやそんがいおうこくはいすらーむ)
西アフリカガーナ王国の衰退後の黄金の国マリ王国やソンガイ王国はイスラーム
(そんがいおうこくにじぇーるがわのこうえきとしとんぶくとぅはないりくあふりかのいすらーむ)
ソンガイ王国ニジェール川の交易都市トンブクトゥは内陸アフリカのイスラーム
(ざんべじがわのみなみでは11せいきごろからものもたぱおうこくなどがさかえた)
ザンベジ川の南では11世紀ごろからモノモタパ王国などが栄えた
(そぐどじんはいらんけいしょうぎょうみんぞくでとっけつういぐるやずいとうでとうざいのこうえきねっとわーく)
ソグド人はイラン系商業民族で突厥ウイグルや隋唐で東西の交易ネットワーク
(いらんけいさーまーんちょうがにしとるきすたんにけんこく、とるこじんがいすらむか)
イラン系サーマーン朝が西トルキスタンに建国、トルコ人がイスラム化
(10せいきまつにさいしょのとるこけいいすらむおうちょうからはんちょうがさーまんちょうをほろぼした)
10世紀末に最初のトルコ系イスラム王朝カラハン朝がサーマン朝を滅ぼした
(9せいきなかばにういぐるがきるぎすにほろぼされた)
9世紀半ばにウイグルがキルギスに滅ぼされた
(とるこけいはにしへ、ひがしあじあのしゅやくはもんごるけいのきったんにうつった)
トルコ系は西へ、東アジアの主役はモンゴル系の契丹に移った
(10せいきぜんはんとうのめつぼう、ぼっかいはきったんにこうふく)
10世紀前半唐の滅亡、渤海は契丹に降伏
(しらぎにかわっておうけんがかいじょうをみやことしてこうらいをたてうんなんではなんしょうからだいりへ)
新羅に変わって王建が開城を都として高麗を建て雲南では南詔から大理へ
(せんねんいじょうちゅうごくしはいされたべとなむは10せいきこうはんどくりつこっかができる)
千年以上中国支配されたベトナムは10世紀後半独立国家ができる
(11せいきはじめにりしがべとなむたいえつこくをたてた)
11世紀初めに李氏がベトナム大越国を建てた
(こうらいでは11せいきどくとくのこうらいせいじがつくられた)
高麗では11世紀独特の高麗青磁が作られた
(そうじだいちょうこうはおとろえたがこうしゅうせんしゅうみんしゅうなどでみんかんこうえき)
宋時代朝貢は衰えたが広州泉州明州などで民間交易
(きったんのせいりょくはんいとうぶのつんぐーすけいじょしんはしはいかにいた)
契丹の勢力範囲東部のツングース系女真は支配下にいた
(12せいきはじめじょしんのわんやんあぐだがどくりつこくめいをきんとした)
12世紀初め女真の完顔阿骨打が独立国名を金とした
(1125ねんりょうはほろんだがこうぞくやりつたいせきはちゅうおうあじあにのがれせいりょうをけんこく)
1125年遼は滅んだが皇族耶律大石は中央アジアに逃れ西遼を建国
(きんはぶぞくせいにもとづくもうあんぼうこくというぐんじしゃかいそしき)
金は部族制に基づく猛安謀克という軍事社会組織
(ちょうきょういんは960ねんほくそうをけんこく)
趙匡胤は960年北宋を建国
(そうのじだいにかきょがかんりとうようほうのちゅうしんとしてせいびされた)
宋の時代に科挙が管理登用法の中心として整備された
(きんはかほくをせんりょうきょうとのかいほうをかんらくさせじょうこうをとらえせいこうのへん1126)
金は華北を占領京都の解放を陥落させ上皇を捕え靖康の変1126
(こうていきんそうのおとうとこうそうがこうなんで1127ねんなんそうをたてりんあんをしゅととした)
皇帝欽宗の弟高宗が江南で1127年南宋を建て臨安を首都とした
(こうがとだいうんがのせってんかいほうにみやこをおいたのはしゅぜんちゅうのたてたこうりょうがさいしょ)
黄河と大運河の接点開封に都を置いたのは朱全忠のたてた後梁が最初
(じゅがくできょうてんをじゅうしするくんこがくにかわりきょうてんぜんたいからしんりをみちびくそうがくがおこった)
儒学で経典を重視する訓詁学に変わり経典全体から心理を導く宋学が起こった
(しゅしがくのきょうてんではとくにししょがだいじ)
朱子学の経典では特に四書が大事
(そうだいのれきしがくしばこう)
宋代の歴史学司馬光1019~1086
(もんごるはにしとるきすたんいらんのほらずむしゃーちょう、またせいかをたおした)
モンゴルは西トルキスタンイランのホラズムシャー朝、また西夏を倒した
(ちんぎすはんのしごそくいしたおごたいはきんをほろぼした)
チンギスハンの死後即位したオゴタイは金を滅ぼした
(ろーまきょうこうはぷらのかるぴに、ふらんすおうるい9せいはるぶるっくをもんごるこうげん)
ローマ教皇はプラノカルピニ、フランス王ルイ9世はルブルックをモンゴル高原
(いるはんこくではもんてこるヴぃのがはけんされだいとのだいしきょうに)
イルハン国ではモンテコルヴィノが派遣され大都の大司教に
(14せいきもんごるしはいかではこうきんのらんなどがおきみんぐんにだいとをうばわれた)
14世紀モンゴル支配下では紅巾の乱などが起き明軍に大都を奪われた
(ばとぅはゆーらしあのそうげんをせいあつしとうおうにしんにゅうわーるしゅたっとのたたかい)
バトゥはユーラシアの草原を制圧し東欧に侵入ワールシュタットの戦い1241