白痴 31
坂口安吾の小説。
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(そのうなずきはちせつであったが、)
その頷きは稚拙であったが、
(いざわはかんどうのためにくるいそうになるのであった。)
伊沢は感動のために狂いそうになるのであった。
(ああ、ながいながいいくたびかのきょうふのじかん、)
ああ、長い長い幾たびかの恐怖の時間、
(よるひるのばくげきのもとにおいて、おんながあらわしたはじめてのいしであり、)
夜昼の爆撃の下に於て、女が表した始めての意志であり、
(ただいちどのこたえであった。そのいじらしさにいざわはぎゃくじょうしそうであった。)
ただ一度の答えであった。そのいじらしさに伊沢は逆上しそうであった。
(いまこそにんげんをだきしめており、)
今こそ人間を抱きしめており、
(そのだきしめているにんげんに、むげんのほこりをもつのであった。)
その抱きしめている人間に、無限の誇りをもつのであった。
(ふたりはもうかをくぐってはしった。)
二人は猛火をくぐって走った。
(ねっぷうのかたまりのしたをぬけでると、)
熱風のかたまりの下をぬけでると、
(みちのりょうがわはまだもえているひのうみだったが、)
道の両側はまだ燃えている火の海だったが、
(すでにむねはやけおちたあとでかせいはおとろえねっきはすくなくなっていた。)
すでに棟は焼け落ちたあとで火勢は衰え熱気は少くなっていた。
(そこにもみぞがあふれていた。)
そこにも溝があふれていた。
(おんなのあしからかたのうえまでみずをあびせ、)
女の足から肩の上まで水を浴せ、
(もういちどふとんをみずにひたしてかぶりなおした。)
もう一度蒲団を水に浸してかぶり直した。
(みちのうえにやけたにもつやふとんがとびちり、)
道の上に焼けた荷物や蒲団が飛び散り、
(にんげんがふたりしんでいた。よんじゅうぐらいのおんなとおとこのようだった。)
人間が二人死んでいた。四十ぐらいの女と男のようだった。
(ふたりはふたたびかたをくみ、ひのうみをはしった。)
二人は再び肩を組み、火の海を走った。
(ふたりはようやくおがわのふちへでた。)
二人はようやく小川のふちへでた。
(ところがここはおがわのりょうがわのこうじょうがもうかをふきあげてもえくるっており、)
ところが此処は小川の両側の工場が猛火を吹きあげて燃え狂っており、
(すすむこともしりぞくこともたちどまることもできなくなったが、)
進むことも退くことも立止ることも出来なくなったが、
など
(ふとみるとおがわにはしごがかけられているので、)
ふと見ると小川に梯子はしごがかけられているので、
(ふとんをかぶせておんなをおろし、いざわはいっきにとびおりた。)
蒲団をかぶせて女を下し、伊沢は一気に飛び降りた。
(けつべつしたにんげんたちがさんさんごごかわのなかをあるいている。)
訣別した人間達が三々五々川の中を歩いている。
(おんなはときどきじはつてきにからだをみずにひたしている。)
女は時々自発的に身体を水に浸している。
(いぬですらそうせざるをえぬじょうきょうだったが、)
犬ですらそうせざるを得ぬ状況だったが、
(ひとりのあらたなかわいいおんながうまれでたしんせんさにいざわはめをみひらいて)
一人の新たな可愛い女が生れでた新鮮さに伊沢は目をみひらいて
(みずをあびるおんなのしたいをむさぼりみた。)
水を浴びる女の姿態をむさぼり見た。