老ハイデルベルビ3
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問題文
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(ありません)ひろげて、さあ、なんぼだ、なんぼだとじちょうのわらいをうかべながら)
ありません)拡げて、さあ、なんぼだ、なんぼだと自嘲の笑を浮かべながら
(ねをはらせていました。たいはいのまちなのであります。まちへでてのみやへ)
値を張らせて居ました。頽廃の町なのであります。町へ出て飲み屋へ
(いっても、むかしのしゅくばのときのままに、のきのひくい、あぶらしょうじをはったきたないいえで)
行っても、昔の宿場のときのままに、軒の低い、油障子を張った汚い家で
(おさけをたのむと、かならずそこのろうしゅじんがみずからおかんをつけるのです。ごじゅうねんかん)
お酒を頼むと、必ずそこの老主人が自らお燗をつけるのです。五十年間
(おきゃくにおかんをつけてやったとじまんしていました。さけがうまいもまずいも、)
お客にお燗をつけてやったと自慢して居ました。酒がうまいもまずいも、
(すべておかんのつけようひとつだといきごんでいました。としよりがそのしまつ)
すべてお燗のつけよう一つだと意気込んで居ました。としよりがその始末
(なので、わかいものはなおのこと、あそびなれてきゃしゃなからだをしています。まいにち)
なので、若い者は尚の事、遊び馴れて華奢な身体をしています。毎日
(あさから、いろいろだいしょうのよたものがさきちさんのいえにあつまります。さきちさんは、)
朝から、いろいろ大小の与太者が佐吉さんの家に集まります。佐吉さんは、
(そんなにみかけはがんじょうではありませんが、それでもけんかはつよいのでしょうか、)
そんなに見掛けは頑丈ではありませんが、それでも喧嘩は強いのでしょうか、
(みんなさきちさんにしんぷくしているようでした。わたしがにかいでしょうせつをかいていると、)
みんな佐吉さんに心服しているようでした。私が二階で小説を書いて居ると、
(したのおみせであさから、みんながわあわあさわいでいて、さきちさんはひときわたかいこえで、)
下のお店で朝から、みんながわあわあ騒いでいて、佐吉さんは一際高い声で、
(「なにせ、にかいのきゃくじんはすごいのだ。とうきょうのぎんざをあるいたって、あれくらいの)
「なにせ、二階の客人はすごいのだ。東京の銀座を歩いたって、あれ位の
(おとこっぷりは、まずないね。けんかもやけにつよくて、ろうにはいったこともある)
男っぷりは、まず無いね。喧嘩もやけに強くて、牢に入ったこともある
(んだよ。からてをしっているんだ。みろ、このはしらを。へこんでいるずら。)
んだよ。唐手を知って居るんだ。見ろ、この柱を。へこんで居るずら。
(これは、にかいのきゃくじんがちょいとぶんなぐってみせたあとだよ。」と、とんでも)
これは、二階の客人がちょいとぶん殴って見せた跡だよ。」と、とんでも
(ないうそをいっています。わたしは、すこぶるおちつきません。にかいからおりていって)
ない嘘を言って居ます。私は、頗る落ちつきません。二階から降りて行って
(はしごだんのあがりぐちからこごえでさきちさんをよび、)
梯子段の上り口から小声で佐吉さんを呼び、
(「あんなでたらめをいってはいけないよ。ぼくがかおをだされなくなるじゃないか。」)
「あんな出鱈目を言ってはいけないよ。僕が顔を出されなくなるじゃないか。」
(そうくちをとがらせてふふくをいうと、さきちさんはにこにこわらい、)
そう口を尖らせて不服を言うと、佐吉さんはにこにこ笑い、
(「だれもほんきにきいちゃいません。はじめからうそだとおもってきいているのですよ。)
「誰も本気に聞いちゃ居ません。始めから嘘だと思って聞いて居るのですよ。
など
(はなしがおもしろければ、きゃつらよろこんでいるんです。」)
話が面白ければ、きゃつら喜んで居るんです。」
(「そうかね。げいじゅつかばかりいるんだね。でもこれからは、あんなうそは)
「そうかね。芸術家ばかり居るんだね。でもこれからは、あんな嘘は
(つくなよ。ぼくはおちつかないんだ。」)
つくなよ。僕は落ちつかないんだ。」
(そういいすててまたにかいへあがり、その「ろまねすく」という、しょうせつをかき)
そう言い捨てて又二階へ上り、其の「ロマネスク」という、小説を書き
(つづけていると、またもさきちさんのひときわたかいこえがきこえ、)
続けていると、又も佐吉さんの一際高い声が聞こえ、
(「さけがつよいといったら、なんといったって、にかいのきゃくじんにかなうものは)
「酒が強いと言ったら、何と言ったって、二階の客人にかなう者は
(あるまい。まいばんにごうとくりでさんぼんのんで、ちょっとほっぺたがあかくなるくらいだ。)
あるまい。毎晩二合徳利で三本飲んで、ちょっと頬っぺたが赤くなる位だ。
(それから、きがるにたって、おいさきちさん、せんとうへいこうよといいだすの)
それから、気軽に立って、おい佐吉さん、銭湯へ行こうよと言い出すの
(だから、そうとうだろう。ふろへはいって、ゆうゆうとにほんかみそりでひげをそるんだ。)
だから、相当だろう。風呂へ入って、悠々と日本剃刀で髯を剃るんだ。
(きずひとつつけたことがない。おれのひげまで、ときどきそられるんだ、、)
傷一つつけたことが無い。俺の髯まで、時々剃られるんだ、
(それでかえってきたら、またひとしごとだ。おちついたもんだよ。」)
それで帰って来たら、又一仕事だ。落ちついたもんだよ。」
(これもえき、うそであります。まいばん、わたしがだまっていても、ゆうはんのおぜんにおおきい)
これも亦、嘘であります。毎晩、私が黙って居ても、夕飯のお膳に大きい
(にごうとくりがつけてあって、こういをむにするのもどうかとおもい、わたしはおおいそぎで)
二合徳利がつけてあって、好意を無にするのもどうかと思い、私は大急ぎで
(のむのでありますが、なんせせいぞうもとからちょくせつもってきているおさけなので、)
飲むのでありますが、何せ製造元から直接持って来て居るお酒なので、
(みずなどわってあるはずはなし、すこぶるじゅんすいどたかく、ふつうのおさけのごごうぶんくらいに)
水など割ってある筈は無し、頗る純粋度高く、普通のお酒の五合分位に
(ようのでした。さきちさんはじぶんのいえのおさけはのみません。あにきが)
酔うのでした。佐吉さんは自分の家のお酒は飲みません。兄貴が
(こしらえてふとうのりえきをむさぼっているのを、このめでみてしっていながら、そんな)
造えて不当の利益を貪って居るのを、此の眼で見て知って居ながら、そんな
(さけとてものまれません。げろがでそうだ、といって、おさけをのむときは、)
酒とても飲まれません。げろが出そうだ、と言って、お酒を飲むときは、
(そとへでてよそのさけをのみます。さきちさんがなにものまないのだから、わたしひとりで)
外へ出てよその酒を飲みます。佐吉さんが何も飲まないのだから、私一人で
(よっぱらっているのもていさいがわるく、あたまがぐらぐらしていながらも、にごう)
酔っぱらって居るのも体裁が悪く、頭がぐらぐらして居ながらも、二合
(のみほしてすぐにごはんにとりかかり、ごはんがすんでほっとするまもなく、)
飲みほしてすぐに御飯にとりかかり、御飯がすんでほっとする間もなく、
(さきちさんがふろへいこうとわたしをさそうのです。ことわるのもわがままのようなきがして、)
佐吉さんが風呂へ行こうと私を誘うのです。断るのも我儘のような気がして、
(わたしも、いこうとおうじて、つれだってせんとうへでかけるのです。わたしはふろへ)
私も、行こうと応じて、連れ立って銭湯へ出かけるのです。私は風呂へ
(はいってこきゅうがくるしくしにそうになります。ふらふらしてながしばから)
入って呼吸が苦しく死にそうになります。ふらふらして流し場から
(だついじょへのがれようとすると、さきちさんはわたしをつかまえ、ひげがのびています。)
脱衣所へ逃れようとすると、佐吉さんは私を掴え、髯がのびています。
(そってあげましょう、としんせついってくださるので、わたしはまたもことわりきれず、)
剃ってあげましょう、と親切言って下さるので、私は又も断り切れず、
(ええ、おねがいします、とたのんでしまうのでした。くたくたになり、)
ええ、お願いします、と頼んでしまうのでした。くたくたになり、
(よろめいていえへかえり、ちょっとしごとをしようかな、とつぶやいてにかいへ)
よろめいて家へ帰り、ちょっと仕事をしようかな、と呟いて二階へ
(はいあがり、そのままねころんでねむってしまうのであります。)
這い上がり、そのまま寝ころんで眠ってしまうのであります。
(さきちさんだって、それをしっているにちがいないのに、)
佐吉さんだって、それを知って居るに違いないのに、
