哲学と悟りの違いとは
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問題文
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(せいようの「てつがく」ととうようの「さとり」は、どちらも)
西洋の「哲学」と東洋の「悟り」は、どちらも
(「せかいやにんげんのしんりをしりたい」というこんぽんのもくてきはおなじですが)
「世界や人間の真理を知りたい」という根本の目的は同じですが
(あぷろーちのほうこうせいとごーるちてんがたいしょうてきです。)
アプローチの方向性とゴール地点が対照的です。
(りょうしゃのちがいをわかりやすくせいりするといかのようになります。)
両者の違いを分かりやすく整理すると以下のようになります。
(せいようのてつがく:ことばとろんりで「そと・こうぞう」へむかう)
西洋の哲学:言葉と論理で「外・構造」へ向かう
(せいようてつがくは、しこうのげんごかとろんりをげんかいまでつきつめるさぎょうです。)
西洋哲学は、思考の言語化と論理を限界まで突き詰める作業です。
(あぷろーち:「うたがう」「ぶんせきする」「ろんぎする」)
アプローチ:「疑う」「分析する」「論議する」
(とくちょう:じぶんのあたま(しゅかん)と、かんさつするたいしょう(きゃっかん)をきりはなし)
特徴:自分の頭(主観)と、観察する対象(客観)を切り離し
(「せかいはどういうしくみになっているのか?」「ただしいろんりとはなにか?」)
「世界はどういう仕組みになっているのか?」「正しい論理とは何か?」
(をそとにむかってろじかるにこうちくしていきます。)
を外に向かってロジカルに構築していきます。
(ごーる:だれにとってもなっとくできる「ただしいがいねんやりくつ(ことば)」)
ゴール:誰にとっても納得できる「正しい概念や理屈(言葉)」
(にとうたつすること。)
に到達すること。
(とうようのさとり:かんかくとたいけんで「うち・とうごう」へむかう)
東洋の悟り:感覚と体験で「内・統合」へ向かう
(ぶっきょうやどうきょうなどにだいひょうされるとうようの「さとり」は、げんごやしこうそのものを)
仏教や道教などに代表される東洋の「悟り」は、言語や思考そのものを
(てばなしていくさぎょうです。)
手放していく作業です。
(あぷろーち:「てばなす」「かんさつする(めいそう)」「からだでかんじる」)
アプローチ:「手放す」「観察する(瞑想)」「身体で感じる」
(とくちょう:ことばやがいねん(「じぶん」「たにん」「ぜん」「あく」などのぶんべつ)は)
特徴:言葉や概念(「自分」「他人」「善」「悪」などの分別)は
(にんげんがかってにつくったげんえいであるとかんがえます。あたまでこねくりまわすしこうを)
人間が勝手に作った幻影であると考えます。頭で捏ねくり回す思考を
(すとっぷさせ、ないめんをふかくふかくほりさげていきます。)
ストップさせ、内面を深く深く掘り下げていきます。
(ごーる:じぶんとせかいのきょうかいせんがきえ、すべてがひとつであるとじっかんする)
ゴール:自分と世界の境界線が消え、全てが一つであると実感する
など
(「たいけん・きょうち(ことばをこえたかんかく)」にとうたつすること。)
「体験・境地(言葉を超えた感覚)」に到達すること。
(2つのちがいをひとことでたとえると?)
2つの違いを一言で例えると?
(せいようのてつがく:「ちずをせいみつにえがくこと」)
西洋の哲学:「地図を精密に描くこと」
(ことばをつかって、せかいやこころのこうぞうをどこまでもせいかくなずめん(りろん)に)
言葉を使って、世界や心の構造をどこまでも正確な図面(理論)に
(しようとします。)
しようとします。
(とうようのさとり:「もくてきちにたつこと(またはたいかんすること)」)
東洋の悟り:「目的地に立つこと(または体感すること)」
(「ちず(ことば)をながめていてもおなかはふくらまない」とかんがえ、ことばをすてて)
「地図(言葉)を眺めていてもお腹は膨らまない」と考え、言葉を捨てて
(そのばしょのくうきやかんかくをちょくせつあじわおうとします。)
その場所の空気や感覚を直接味わおうとします。
(きんだい~げんだいではりょうしゃがせっきんしている)
近代〜現代では両者が接近している
(じつは、20せいきいこうのきんだいせいようてつがく(とくにはいでがーのそんざいろんや)
実は、20世紀以降の近代西洋哲学(特にハイデガーの存在論や
(げんしょうがくなど)では「ことばやろんりだけでつきつめることにはげんかいが)
現象学など)では「言葉や論理だけで突き詰める事には限界が
(あるのでは?」というかべにぶつかり、とうようの「さとり」や「ぜん」のかんがえかたに)
あるのでは?」という壁にぶつかり、東洋の「悟り」や「禅」の考え方に
(つよくえいきょうをうけるてつがくしゃがたくさんあらわれました。したがって)
強く影響を受ける哲学者がたくさん現れました。したがって
(「あたまとろんりをきょくげんまでつかう=せいようのてつがく」「あたまをやすめてかんかく・たいけんを)
「頭と論理を極限まで使う=西洋の哲学」「頭を休めて感覚・体験を
(きょくげんまでふかめる=とうようのさとり」といういめーじでとらえておくと)
極限まで深める=東洋の悟り」というイメージで捉えておくと
(りょうしゃのちがいがとてもくりあにみえてきます。)
両者の違いがとてもクリアに見えてきます。