有島武郎 或る女64

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(えといわずじといわず、ぶんがくてきのさくもつなどにたいしてもようこのあたまはあわれなほど)

絵といわず字といわず、文学的の作物などに対しても葉子の頭はあわれなほど

(つうぞくてきであるのをようこはじぶんでしっていた。しかしようこはじぶんのまけじだましいから)

通俗的であるのを葉子は自分で知っていた。しかし葉子は自分の負けじ魂から

(じぶんのみかたがぼんぞくだとはおもいたくなかった。げいじゅつかなどいうれんちゅうには、)

自分の見方が凡俗だとは思いたくなかった。芸術家などいう連中には、

(こっとうなどをいじくってふるみというようなものをありがたがるふうりゅうじんと)

骨董などをいじくって古味というようなものをありがたがる風流人と

(きょうつうしたようなきどりがある。そのえせきどりをようこはさいわいにも)

共通したような気取りがある。 その似而非(えせ)気取りを葉子は幸いにも

(もちあわしていないのだときめていた。ようこはこのいえにもちこまれている)

持ち合わしていないのだと決めていた。葉子はこの家に持ち込まれている

(ふくものをみてまわっても、ほんとうのねうちがどれほどのものだか)

幅物(ふくもの)を見て回っても、ほんとうの値打ちがどれほどのものだか

(さらにけんとうがつかなかった。ただあるべきところにそういうもののあることをまんぞくに)

さらに見当がつかなかった。ただあるべき所にそういう物のある事を満足に

(おもった。つやのへやのきちんとてぎわよくかたづいているのや、にさんにちあきやに)

思った。つやの部屋のきちんと手ぎわよく片づいているのや、二三日空家に

(なっていたのにもかかわらず、だいどころがきれいにふきそうじがされていて、ふきんなどが)

なっていたのにも係わらず、台所がきれいにふき掃除がされていて、布巾などが

(すがすがしくからからにかわかしてかけてあったりするのはいちいちようこのめをこころよく)

清々しくからからに乾かしてかけてあったりするのは一々葉子の目を快く

(しげきした。おもったよりすまいがってのいいいえと、はきはきしたせいけつずきなじょちゅうとを)

刺激した。思ったより住まい勝手のいい家と、はきはきした清潔ずきな女中とを

(えたことがまずようこのねおきのこころもちをすがすがしくさせた。ようこはつやの)

得た事がまず葉子の寝起きの心持ちを清々しくさせた。葉子はつやの

(くんでだしたちょうどいいかげんのゆでかおをあらって、かるくけしょうをした。)

くんで出したちょうどいいかげんの湯で顔を洗って、軽く化粧をした。

(さくやのことなどはきにもかからないほどこころはかるかった。ようこはそのかるいこころを)

昨夜の事などは気にもかからないほど心は軽かった。葉子はその軽い心を

(いだきながらしずかににかいにあがっていった。なんとはなしにくらちにあまえたいような、)

抱きながら静かに二階に上がって行った。何とはなしに倉地に甘えたいような、

(わびたいようなきもちでそっとふすまをあけてみると、あのきょうれつなくらちのはだのにおいが)

わびたいような気持ちでそっと襖を明けて見ると、あの強烈な倉地の膚の香いが

(あたたかいくうきにみたされてはなをかすめてきた。ようこはわれにもなくかけよって、)

暖かい空気に満たされて鼻をかすめて来た。葉子はわれにもなく駆けよって、

(あおむけにじゅくすいしているくらちのうえにはがいにのしかかった。くらいなかでくらちは)

仰向けに熟睡している倉地の上に羽がいにのしかかった。暗い中で倉地は

(めざめたらしかった。そしてだまったままようこのかみやきものからかべんのように)

目ざめたらしかった。そして黙ったまま葉子の髪や着物から花べんのように

など

(こぼれおちるなまめかしいかおりをゆめごこちでかいでいるようだったが、やがて)

こぼれ落ちるなまめかしい香りを夢心地でかいでいるようだったが、やがて

(ものたるげに、「もうおきたんか。なんじだな」といった。まるでおおきなこどもの)

物たるげに、「もう起きたんか。何時だな」といった。まるで大きな子供の

(ようなそのむじゃきさ。ようこはおもわずじぶんのほおをくらちのにすりつけると、ねおきの)

ようなその無邪気さ。葉子は思わず自分の頬を倉地のにすりつけると、寝起きの

(くらちのほおはひのようにあつくかんぜられた。「もうはちじ。・・・おおきにならないと)

倉地の頬は火のように熱く感ぜられた。「もう八時。・・・お起きにならないと

(よこはまのほうがおそくなるわ」くらちはやはりものたるげに、そでぐちからにょきんと)

横浜のほうがおそくなるわ」倉地はやはり物たるげに、袖口からにょきんと

(あらわれでたふというでをのべて、みじかいざんぎりあたまをごしごしとかきまわしながら、)

現われ出た太い腕を延べて、短い散切り頭をごしごしとかき回しながら、

(「よこはま?・・・よこはまにはもうようはないわい。いつくびになるかしれないおれが)

「横浜?・・・横浜にはもう用はないわい。いつ首になるか知れないおれが

(このうえのごほうこうをしてたまるか。これもみんなおまえのおかげだぞ。ごうつくばりめ」)

この上の御奉公をしてたまるか。これもみんなお前のお陰だぞ。業つくばりめ」

(といっていきなりようこのくびすじをうでにまいてじぶんのむねにおしつけた。しばらくして)

といっていきなり葉子の首筋を腕にまいて自分の胸に押しつけた。しばらくして

(くらちはねどこをでたが、さくやのことなどはけろりとわすれてしまったようにへいきで)

倉地は寝床を出たが、昨夜の事などはけろりと忘れてしまったように平気で

(いた。ふたりがはじめてはなればなれにねたのにもひとこともいわないのがかすかにようこを)

いた。二人が始めて離れ離れに寝たのにも一言もいわないのがかすかに葉子を

(ものたらなくおもわせたけれども、ようこはむねがひろびろとしてなんということもなく)

物足らなく思わせたけれども、葉子は胸が広々としてなんという事もなく

(よろこばしくってたまらなかった。で、くらちをのこしてだいどころにおりた。じぶんでじぶんの)

喜ばしくってたまらなかった。で、倉地を残して台所におりた。自分で自分の

(たべるものをりょうりするということにもかつてないものめずらしさとうれしさとをかんじた。)

食べるものを料理するという事にもかつてない物珍しさとうれしさとを感じた。

(たたみいちじょうがたひのさしこむちゃのまのろくじょうでふたりはあさげのぜんにむかった。かつては)

畳一畳がた日のさしこむ茶の間の六畳で二人は朝餉の膳に向かった。かつては

(はやまできべとふたりでこうしたたのしいぜんにむかったこともあったが、そのときの)

葉山で木部と二人でこうした楽しい膳に向かった事もあったが、その時の

(こころもちといまのこころもちとをひかくすることもできないとようこはおもった。きべはじぶんで)

心持ちと今の心持ちとを比較する事もできないと葉子は思った。木部は自分で

(のこのことだいどころまででかけてきて、ながいじすいのけいけんなどをとくいげにはなしてきかせ)

のこのこと台所まで出かけて来て、長い自炊の経験などを得意げに話して聞かせ

(ながら、じぶんでこめをといだり、ひをたきつけたりした。そのとうざはようこもそれを)

ながら、自分で米をといだり、火をたきつけたりした。その当座は葉子もそれを

(たのしいとおもわないではなかった。しかししばらくのうちにそんなことをするきべの)

楽しいと思わないではなかった。しかししばらくの内にそんな事をする木部の

(こころもちがさもしくもおもわれてきた。おまけにきべはいちにちいちにちとものぐさに)

心持ちがさもしくも思われて来た。おまけに木部は一日一日とものぐさに

(なって、じぶんではてをくだしもせずに、じゃまになるところにつったったまま)

なって、自分では手を下しもせずに、邪魔になる所に突っ立ったまま

(さしずがましいことをいったり、ようこにはなんらのかんきょうもおこさせないちょうしをれいの)

さしずがましい事をいったり、葉子には何らの感興も起こさせない長詩を例の

(ごじまんのうつくしいこえでろうろうとぎんじたりした。ようこはそんなめにあうとけいべつしきった)

御自慢の美しい声で朗々と吟じたりした。葉子はそんな目にあうと軽蔑しきった

(ひややかなひとみでじろりとみかえしてやりたいようなきになった。くらちははじめから)

冷ややかな瞳でじろりと見返してやりたいような気になった。倉地は始めから

(そんなことはてんでしなかった。おおきなだだっこのように、かおをあらうといきなり)

そんな事はてんでしなかった。大きな駄々っ児のように、顔を洗うといきなり

(ぜんのまえにあぐらをかいて、ようこがつくってだしたものをかたはしからむしゃむしゃと)

膳の前にあぐらをかいて、葉子が作って出したものを片はしからむしゃむしゃと

(きれいにかたづけていった。これがきべだったら、だすもののひとつひとつに)

きれいに片づけて行った。これが木部だったら、出す物の一つ一つに

(しったかぶりのこうしゃくをつけて、ようこのうでまえをかんしょうてきにほめちぎって、)

知ったかぶりの講釈をつけて、葉子の腕前を感傷的にほめちぎって、

(かなりたくさんをくわずにのこしてしまうだろう。そうおもいながらようこは)

かなりたくさんを食わずに残してしまうだろう。そう思いながら葉子は

(めでなでさするようにしてくらちがいっしんにはしをうごかすのをみまもらずにはいられ)

目でなでさするようにして倉地が一心に箸を動かすのを見守らずにはいられ

(なかった。やがてはしとちゃわんとをからりとなげすてると、くらちはしょざいなさそうに)

なかった。やがて箸と茶わんとをからりとなげ捨てると、倉地は所在なさそうに

(はまきをふかしてしばらくそこらをながめまわしていたが、いきなりたちあがって)

葉巻をふかしてしばらくそこらをながめ回していたが、いきなり立ち上がって

(しりっぱしょりをしながらはだしのままにわにとんでおりた。そしてはーきゅりーずが)

尻っぱしょりをしながら裸足のまま庭に飛んで降りた。そしてハーキュリーズが

(はりしごとでもするようなぶきっちょうなようすで、せまいにわをあるきまわりながら)

針仕事でもするようなぶきっちょうな様子で、狭い庭を歩き回りながら

(かたすみからかたづけだした。まだびしゃびしゃするようなつちのうえにおおきなあしあとが)

片すみから片づけ出した。まだびしゃびしゃするような土の上に大きな足跡が

(じゅうおうにしるされた。まだかれはてないきくやはぎなどがざっそうといっしょくたに)

縦横にしるされた。まだ枯れ果てない菊や萩などが雑草と一緒くたに

(なさけもようしゃもなくねこぎにされるのをみるとさすがのようこもはらはらした。)

情けも容赦もなく根こぎにされるのを見るとさすがの葉子もはらはらした。

(そしてえんぎわにしゃがんではしらにもたれながら、ときにはあまりのおかしさに)

そして縁ぎわにしゃがんで柱にもたれながら、時にはあまりのおかしさに

(たかくこえをあげてわらいこけずにはいられなかった。くらちはすこしはたらきつかれると)

高く声をあげて笑いこけずにはいられなかった。倉地は少し働き疲れると

(たいこうえんのほうをうかがったり、だいどころのほうにきをくばったりしておいて、)

苔香園のほうをうかがったり、台所のほうに気を配ったりしておいて、

(おおいそぎでようこのいるところによってきた。そしてどろになったてをうしろにまわして、)

大急ぎで葉子のいる所に寄って来た。そして泥になった手を後ろに回して、

(じょうたいをまえにおりまげて、ようこのはなのさきにじぶんのかおをつきだしておつぼぐちをした。)

上体を前に折り曲げて、葉子の鼻の先に自分の顔を突き出してお壺口をした。

(ようこもいたずららしくしゅういにめをくばってそのかおをりょうてにはさみながら)

葉子もいたずららしく周囲に目を配ってその顔を両手にはさみながら

(じぶんのくちびるをあたえてやった。くらちはいさみたつようにしてまたつちのうえに)

自分の口びるを与えてやった。倉地は勇み立つようにしてまた土の上に

(しゃがみこんだ。くらちはこうしていちにちはたらきつづけた。ひがかげるころになって)

しゃがみこんだ。倉地はこうして一日働き続けた。日がかげるころになって

(ようこもいっしょににわにでてみた。ただらんぼうな、しょうことなしのいたずらしごととのみ)

葉子も一緒に庭に出てみた。ただ乱暴な、しょう事なしのいたずら仕事とのみ

(おもわれたものが、かたづいてみるとどこからどこまでようりょうをえているのを)

思われたものが、片づいてみるとどこからどこまで要領を得ているのを

(はっけんするのだった。ようこがきにしていたべんじょのやねのまえには、にわのすみにあった)

発見するのだった。葉子が気にしていた便所の屋根の前には、庭のすみにあった

(しいのきがうつしてあったりした。げんかんまえのりょうがわのかだんのぼたんには、わらできように)

椎の木が移してあったりした。玄関前の両側の花壇の牡丹には、藁で器用に

(しもがこいさえしつらえてあった。こんなさびしいすぎもりのなかのいえにも、ときどきこうようかんの)

霜囲いさえしつらえてあった。こんなさびしい杉森の中の家にも、時々紅葉館の

(ほうからおんぎょくのおとがくぐもるようにきこえてきたり、たいこうえんからばらのかおりが)

ほうから音曲の音がくぐもるように聞こえて来たり、苔香園から薔薇の香りが

(かぜのぐあいでほんのりとにおってきたりした。ここにこうしてくらちとすみつづける)

風の具合でほんのりとにおって来たりした。ここにこうして倉地と住み続ける

(よろこばしいきたいはひとむきにようこのこころをうばってしまった。へいぼんなひとづまとなり、)

喜ばしい期待はひと向きに葉子の心を奪ってしまった。平凡な人妻となり、

(こをうみ、ようこのすがたをまものかなにかのようにあざわらおうとする、ようこのきゅうゆうたちに)

子を生み、葉子の姿を魔物か何かのように嘲笑おうとする、葉子の旧友たちに

(たいして、かつてようこがいだいていたひのようないきどおりのこころ、くさってもしんでも)

対して、かつて葉子が抱いていた火のような憤りの心、腐っても死んでも

(あんなまねはしてみせるものかとちかうようにこころであざけったそのようこは、)

あんなまねはして見せるものかと誓うように心であざけったその葉子は、

(ようこうまえのじぶんというものをどこかにおきわすれたように、そんなことはおもいも)

洋行前の自分というものをどこかに置き忘れたように、そんな事は思いも

(ださないで、きゅうゆうたちのとおってきたみちすじにひたはしりにはしりこもうとしていた。)

出さないで、旧友たちの通って来た道筋にひた走りに走り込もうとしていた。

(にじゅうはちこんなゆめのようなたのしさがたわいもなくいっしゅうかんほどはなんのこしょうも)

【二八】 こんな夢のような楽しさがたわいもなく一週間ほどはなんの故障も

(ひきおこさずにつづいた。かんらくにたんできしやすい、したがっていつでもげんざいをいちばん)

ひき起こさずに続いた。歓楽に耽溺しやすい、従っていつでも現在をいちばん

(たのしくすごすのをうまれながらほんのうとしているようこは、こんなうちょうてんな)

楽しく過ごすのを生まれながら本能としている葉子は、こんな有頂天な

(きょうがいからいっぽでもふみだすことをきょくたんににくんだ。ようこがかえってから)

境界(きょうがい)から一歩でも踏み出す事を極端に憎んだ。葉子が帰ってから

(いちどしかあうことのできないいもうとたちが、きゅうじつにかけてしきりにあそびにきたいと)

一度しか会う事のできない妹たちが、休日にかけてしきりに遊びに来たいと

(うったえくるのを、びょうきだとか、いえのなかがかたづかないとか、こうじつをもうけてこばんで)

訴え来るのを、病気だとか、家の中が片づかないとか、口実を設けて拒んで

(しまった。きむらからもことうのところかいそがわじょしのところかにあててたよりがきているには)

しまった。木村からも古藤の所か五十川女史の所かに宛てて便りが来ているには

(そういないとおもったけれども、いそがわじょしはもとよりことうのところにさえじゅうしょが)

相違ないと思ったけれども、五十川女史はもとより古藤の所にさえ住所が

(しらしてないので、それをかいそうしてよこすこともできないのをようこはしっていた。)

知らしてないので、それを回送してよこす事もできないのを葉子は知っていた。

(さだこーーこのなはときどきようこのこころをみれんがましくさせないではなかった。しかし)

定子ーーこの名は時々葉子の心を未練がましくさせないではなかった。しかし

(ようこはいつでもおもいすてるようにそのなをこころのなかからふりおとそうとつとめた。)

葉子はいつでも思い捨てるようにその名を心の中から振り落とそうと努めた。

(くらちのつまのことはなにかのひょうしにつけてこころをうった。このしゅんかんだけはようこのむねは)

倉地の妻の事は何かの拍子につけて心を打った。この瞬間だけは葉子の胸は

(こきゅうもできないくらいひきしめられた。それでもようこはげんざいもくぜんのかんらくをそんな)

呼吸もできないくらい引き締められた。それでも葉子は現在目前の歓楽をそんな

(しんつうでやぶらせまいとした。そしてそのためにはくらちにあらんかぎりのこびとしんせつと)

心痛で破らせまいとした。そしてそのためには倉地にあらん限りの媚びと親切と

(をささげて、くらちからおなじていどのあいぶをむさぼろうとした。そうすることがしぜんに)

をささげて、倉地から同じ程度の愛撫をむさぼろうとした。そうする事が自然に

(このなんだいにかいけつをつけるみちびにもなるとおもった。)

この難題に解決をつける導火線(みちび)にもなると思った。

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