有島武郎 或る女66

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(さすがのようこもいきをつめて、なきやんで、あきれてくらちのかおをみた。)

さすがの葉子も息をつめて、泣きやんで、あきれて倉地の顔を見た。

(「ようこ、おれがきむらいじょうにおまえにふかぼれしているといつかふねのなかでいって)

「葉子、おれが木村以上にお前に深惚れしているといつか船の中でいって

(きかせたことがあったな。おれはこれでいざとなるとこころにもないことはいわない)

聞かせた事があったな。おれはこれでいざとなると心にもない事はいわない

(つもりだよ。そうかくかんにいるあいだもおれはいくにちもはまにはいきはしなんだのだ。)

つもりだよ。双鶴館にいる間もおれは幾日も浜には行きはしなんだのだ。

(たいていはかないのしんるいたちとのだんぱんであたまをなやませられていたんだ。だがたいてい)

たいていは家内の親類たちとの談判で頭を悩ませられていたんだ。だがたいてい

(けりがついたから、おれはすこしばかりてまわりのにもつだけもってひとあしさきにここに)

けりがついたから、おれは少しばかり手回りの荷物だけ持って一足先にここに

(こしてきたのだ。・・・もうこれでええや。きがすっぱりしたわ。これには)

越して来たのだ。・・・もうこれでええや。気がすっぱりしたわ。これには

(そうかくかんのおかみもおどろきくさるだろうて・・・」)

双鶴館のお内儀(かみ)も驚きくさるだろうて・・・」

(かいしゃのじれいですっかりくらちのこころもちをどんぞこからかんじえたようこは、このうえくらちの)

会社の辞令ですっかり倉地の心持ちをどん底から感じ得た葉子は、この上倉地の

(つまのことをうたがうべきちからはきえはてていた。ようこのかおはなみだにぬれひたりながらそれを)

妻の事を疑うべき力は消え果てていた。葉子の顔は涙にぬれひたりながらそれを

(ふきとりもせず、くらちにすりよって、そのりょうかたにてをかけて、ぴったりとよこがおを)

ふき取りもせず、倉地にすり寄って、その両肩に手をかけて、ぴったりと横顔を

(むねにあてた。よるとなくひるとなくおもいなやみぬいたことがすでにかいけつされたので、)

胸にあてた。夜となく昼となく思い悩みぬいた事がすでに解決されたので、

(ようこはよろこんでもよろこんでもよろこびたりないようにおもった。じぶんもくらちとどうように)

葉子は喜んでも喜んでも喜び足りないように思った。自分も倉地と同様に

(むねのなかがすっきりすべきはずだった。けれどもそうはいかなかった。ようこは)

胸の中がすっきりすべきはずだった。けれどもそうは行かなかった。葉子は

(いつのまにかさられたくらちのつまそのひとのようなさびしいかなしいじぶんになって)

いつのまにか去られた倉地の妻その人のようなさびしい悲しい自分になって

(いるのをはっけんした。)

いるのを発見した。

(くらちはいとしくってならぬようにえぼにーいろのくものようにまっくろに)

倉地はいとしくってならぬようにエボニー色の雲のようにまっ黒に

(ふっくりとみだれたようこのかみのけをやさしくなでまわした。そしていつもににず)

ふっくりと乱れた葉子の髪の毛をやさしくなで回した。そしていつもに似ず

(しんみりしたちょうしになって、「とうとうおれもうもれぎになってしまった。)

しんみりした調子になって、「とうとうおれも埋れ木になってしまった。

(これからじめんのしたでしっけをくいながらいきていくよりほかにはない。ーーおれは)

これから地面の下で湿気を食いながら生きて行くよりほかにはない。ーーおれは

など

(まけおしみをいうはきらいだ。こうしているいまでもおれはかないやむすめたちのことを)

負け惜しみをいうはきらいだ。こうしているいまでもおれは家内や娘たちの事を

(おもうとふびんにおもうさ。それがないことならおれはにんげんじゃないからな。・・・だが)

思うと不憫に思うさ。それがない事ならおれは人間じゃないからな。・・・だが

(おれはこれでいい。まんぞくこのうえなしだ。・・・じぶんながらおれはばかに)

おれはこれでいい。満足この上なしだ。・・・自分ながらおれはばかに

(なりくさったらしいて」そういってようこのくびをかたくかきいだいた。ようこはくらちの)

なり腐ったらしいて」そういって葉子の首を固くかきいだいた。葉子は倉地の

(ことばをさけのようによいごこちにのみこみながら「あなただけにそうはさせて)

言葉を酒のように酔い心地にのみ込みながら「あなただけにそうはさせて

(おきませんよ。わたしだってさだこをみごとにすててみせますからね」とこころのなかで)

おきませんよ。わたしだって定子をみごとに捨てて見せますからね」と心の中で

(あたまをさげつついくどもわびるようにくりかえしていた。それがまたじぶんでじぶんを)

頭を下げつつ幾度もわびるように繰り返していた。それがまた自分で自分を

(なかせるあんじとなった。くらちのむねによこたえられたようこのかおは、わたいれとじゅばんとを)

泣かせる暗示となった。倉地の胸に横たえられた葉子の顔は、綿入れと襦袢とを

(とおしてくらちのむねをあたたかくおかすほどねっしていた。くらちのめもめずらしくくもっていた。)

通して倉地の胸を暖かく侵すほど熱していた。倉地の目も珍しく曇っていた。

(そうしてなきいるようこをだいじそうにかかえたまま、くらちはじょうたいをぜんごに)

そうして泣き入る葉子を大事そうにかかえたまま、倉地は上体を前後に

(ゆすぶって、あかごでもねかしつけるようにした。こがいではまたとうきょうのはつゆきに)

揺すぶって、赤子でも寝かしつけるようにした。戸外ではまた東京の初雪に

(とくゆうなかぜがふきでたらしく、すぎもりがごうごうとなりをたてて、かれはが)

特有な風が吹き出たらしく、杉森がごうごうと鳴りを立てて、枯れ葉が

(あかるいしょうじにあすかのようなかげをみせながら、からからとおとをたててかわいたかみに)

明るい障子に飛鳥のような影を見せながら、からからと音を立ててかわいた紙に

(ぶつかった。それはほこりだった、さむいとうきょうのがいろをおもわせた。けれどもへやのなかは)

ぶつかった。それは埃立った、寒い東京の街路を思わせた。けれども部屋の中は

(あたたかだった。ようこはへやのなかがあたたかなのかさむいのかさえわからなかった。)

暖かだった。葉子は部屋の中が暖かなのか寒いのかさえわからなかった。

(ただじぶんのこころがこうふくにさびしさにもえただれているのをしっていた。)

ただ自分の心が幸福にさびしさに燃えただれているのを知っていた。

(ただこのままでえいえんはすぎよかし。ただこのままでねむりのようなしのふちに)

ただこのままで永遠はすぎよかし。ただこのままで眠りのような死の淵に

(おちいれよかし。とうとうくらちのこころとまったくとけあったじぶんのこころをみいだしたとき、)

陥れよかし。とうとう倉地の心と全く融け合った自分の心を見いだした時、

(ようこのたましいのねがいはいきようということよりもしのうということだった。ようこはその)

葉子の魂の願いは生きようという事よりも死のうという事だった。葉子はその

(かなしいねがいのなかにいさみあまんじておぼれていった。)

悲しい願いの中に勇み甘んじておぼれて行った。

(にじゅうくこのことがあってからまたしばらくのあいだ、くらちはようこと)

【二九】 この事があってからまたしばらくの間、倉地は葉子と

(ただふたりのこどくにぼっとうするきょうみをあたらしくしたようにみえた。そしてようこが)

ただ二人の孤独に没頭する興味を新しくしたように見えた。そして葉子が

(いえのなかをいやがうえにもせいとんして、くらちのためにすみごこちのいいすをつくるあいだに、)

家の中をいやが上にも整頓して、倉地のために住み心地のいい巣を造る間に、

(くらちはてんきさえよければにわにでて、ようこのしょうようをたのしませるためにせいこんを)

倉地は天気さえよければ庭に出て、葉子の逍遥を楽しませるために精魂を

(つくした。いつたいこうえんとのはなしをつけたものか、にわのすみにちいさなきどをつくって、)

尽した。いつ苔香園との話をつけたものか、庭のすみに小さな木戸を作って、

(そのはなぞののおもやからずっとはなれたこみちにかよいうるしかけをしたりした。ふたりは)

その花園の母屋からずっと離れた小逕に通いうる仕掛けをしたりした。二人は

(ときどきそのきどをぬけてめだたないように、ひろびろとしたたいこうえんのにわのなかを)

時々その木戸をぬけて目立たないように、広々とした苔香園の庭の中を

(さまよった。みせのひとたちはふたりのこころをさっするように、なるべくふたりから)

さまよった。店の人たちは二人の心を察するように、なるべく二人から

(とおざかるようにつとめてくれた。じゅうにがつのばらのはなぞのはさびしいはいえんのすがたを)

遠ざかるようにつとめてくれた。十二月の薔薇の花園はさびしい廃園の姿を

(めのまえにひろげていた。かれんなはなをひらいてかれんなにおいをはなつくせにこのかんぼくは)

目の前に広げていた。可憐な花を開いて可憐な匂いを放つくせにこの灌木は

(どこかつよいしゅうちゃくをもつうえきだった。さむさにもしもにもめげず、そのえださきにはまだ)

どこか強い執着を持つ植木だった。寒さにも霜にもめげず、その枝先にはまだ

(うらざきのちいさなはなをさかせようともがいているらしかった。しゅじゅないろのつぼみが)

裏咲きの小さな花を咲かせようともがいているらしかった。種々な色のつぼみが

(おおかたはのちりつくしたこずえにまでのこっていた。しかしそのかべんはぞんぶんに)

おおかた葉の散り尽くしたこずえにまで残っていた。しかしその花べんは存分に

(しもにしいたげられて、きいろにへんしょくしてたがいにこうちゃくして、めぐみぶかいひのめに)

霜にしいたげられて、黄色に変色して互いに膠着して、恵み深い日の目に

(あってもひらきようがなくなっていた。そんなあいだをふたりはしずかなゆたかなこころで)

あっても開きようがなくなっていた。そんな間を二人は静かな豊かな心で

(さまよった。かぜのないゆうぐれなどにはたいこうえんのおもてもんをぬけて、こうようかんまえの)

さまよった。風のない夕暮れなどには苔香園の表門を抜けて、紅葉館前の

(だらだらざかをとうしょうぐうのほうまでさんぽするようなこともあった。ふゆのゆうがたのこととて)

だらだら坂を東照宮のほうまで散歩するような事もあった。冬の夕方の事とて

(ひとどおりはまれでふたりがさまようみちとしてはこのうえもなかった。ようこはたまたま)

人通りはまれで二人がさまよう道としてはこの上もなかった。葉子はたまたま

(いきあうおんなのひとたちのいしょうをものめずらしくながめやった。それがどんなにそまつな)

行きあう女の人たちの衣装を物珍しくながめやった。それがどんなに粗末な

(ぶかっこうな、いでたちであろうとも、おんなはじぶんいがいのおんなのふくそうをながめなければ)

不格好な、いでたちであろうとも、女は自分以外の女の服装をながめなければ

(まんぞくできないものだとようこはおもいながらそれをくらちにいってみたりした。)

満足できないものだと葉子は思いながらそれを倉地にいってみたりした。

(つやのかみからいふくまでもまいにちのようにかえてよそおわしていたじぶんのこころもちにも)

つやの髪から衣服までも毎日のように変えて装わしていた自分の心持ちにも

(ようこはあたらしいはっけんをしたようにおもった。ほんとうはふたりだけのこどくに)

葉子は新しい発見をしたように思った。ほんとうは二人だけの孤独に

(くるしみはじめたのはくらちだけではなかったのか。あるときにはそのさびしいさかみちの)

苦しみ始めたのは倉地だけではなかったのか。ある時にはそのさびしい坂道の

(じょうげから、りっぱなばしゃやかかえぐるまがぞくぞくさかのちゅうだんをめざしてあつまるのにあうことが)

上下から、立派な馬車や抱え車が続々坂の中段を目ざして集まるのにあう事が

(あった。さかのちゅうだんからこうようかんのしたにあたるあたりにみちびかれたひろいみちのおくからは、)

あった。坂の中段から紅葉館の下に当たる辺に導かれた広い道の奥からは、

(のうがくのはやしのおとがゆかしげにもれてきた。ふたりはのうがくどうでののうのもよおしが)

能楽のはやしの音がゆかしげにもれて来た。二人は能楽堂での能の催しが

(おわりにちかづいているのをしった。どうじにそんなことをみたのでそのひがにちようびで)

終わりに近づいているのを知った。同時にそんな事を見たのでその日が日曜日で

(あることにもきがついたくらいふたりのせいかつはせけんからかけはなれていた。)

ある事にも気がついたくらい二人の生活は世間からかけ離れていた。

(こうしたたのしいこどくもしかしながらえいえんにはつづきえないことを、)

こうした楽しい孤独もしかしながら永遠には続き得ない事を、

(つづかしていてはならないことをするどいようこのしんけいはめざとくさとっていった。)

続かしていてはならない事を鋭い葉子の神経は目ざとくさとって行った。

(あるひくらちがれいのようににわにでてつちいじりにせいをだしているあいだに、ようこは)

ある日倉地が例のように庭に出て土いじりに精を出している間に、葉子は

(あくじでもはたらくようなこころもちで、つやにいいつけてほごがみをあつめたはこをじぶんの)

悪事でも働くような心持ちで、つやにいいつけて反古紙を集めた箱を自分の

(へやにもってこさして、いつかよみもしないでやぶってしまったきむらからのてがみを)

部屋に持って来さして、いつか読みもしないで破ってしまった木村からの手紙を

(えりだそうとするじぶんをみいだしていた。いろいろなかたちにすんだんされたあつい)

選り出そうとする自分を見いだしていた。いろいろな形に寸断された厚い

(せいようがみのだんぺんがきむらのかいたもんくのだんぺんをいくつもいくつもようこのめに)

西洋紙の断片が木村の書いた文句の断片をいくつもいくつも葉子の目に

(さらしだした。しばらくのあいだようこはひきつけられるようにそういうしへんを)

さらし出した。しばらくの間葉子は引きつけられるようにそういう紙片を

(てあたりしだいにてにとりあげてよみふけった。はんせいのえがうつくしいようにだんかんには)

手当たり次第に手に取り上げて読みふけった。半成の画が美しいように断簡には

(いいしれぬじょうちょがみいだされた。そのなかにただしくおりこまれたようこのかこが)

いい知れぬ情緒が見いだされた。その中に正しく織り込まれた葉子の過去が

(たしょうのちからをあつめてようこにせまってくるようにさえおもえだした。ようこはわれにもなく)

多少の力を集めて葉子に逼って来るようにさえ思え出した。葉子はわれにもなく

(そのおもいでにひたっていった。しかしそれはながいときがすぎるまえにくずれて)

その思い出に浸って行った。しかしそれは長い時が過ぎる前にくずれて

(しまった。ようこはすぐげんじつにとってかえしていた。そしてすべてのかこに)

しまった。葉子はすぐ現実に取って返していた。そしてすべての過去に

(はきけのようなふかいをかんじてはこごとだいどころにもっていくとつやにめいじてうらにわで)

嘔き気のような不快を感じて箱ごと台所に持って行くとつやに命じて裏庭で

(そのぜんぶをやきすてさせてしまった。)

その全部を焼き捨てさせてしまった。

(しかしこのときもようこはじぶんのこころでくらちのこころをおもいやった。そしてそれが)

しかしこの時も葉子は自分の心で倉地の心を思いやった。そしてそれが

(どうしてもいいちょうこうでないことをしった。そればかりではない。ふたりはかすみをくって)

どうしてもいい徴候でない事を知った。そればかりではない。二人は霞を食って

(いきるせんにんのようにしてはいきていられないのだ。しょくぎょうをうしなったくらちには、)

生きる仙人のようにしては生きていられないのだ。職業を失った倉地には、

(くちにこそださないが、このもんだいはとおからずおおきなもんだいとしてむねにしのばせて)

口にこそ出さないが、この問題は遠からず大きな問題として胸に忍ばせて

(あるのにちがいない。じむちょうぐらいのきゅうりょうでよざいができているとはかんがえられない。)

あるのに違いない。事務長ぐらいの給料で余財ができているとは考えられない。

(ましてくらちのようにみぶんふそうおうなかねづかいをしていたおとこにはなおのことだ。)

まして倉地のように身分不相応な金づかいをしていた男にはなおの事だ。

(そのてんだけからみてもこのこどくはやぶられなければならぬ。そしてそれはけっきょく)

その点だけから見てもこの孤独は破られなければならぬ。そしてそれは結局

(ふたりのためにいいことであるにそういない。ようこはそうおもった。)

二人のためにいい事であるに相違ない。葉子はそう思った。

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