有島武郎 或る女72
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問題文
(あいことしてもすくなくともひとつはどうしてもそのあねにかんしゃしなければ)
愛子としても少なくとも一つはどうしてもその姉に感謝しなければ
(ならないことがあった。それはねんれいのおかげもある。あいこはことしでじゅうろくになって)
ならない事があった。それは年齢のお陰もある。愛子はことしで十六になって
(いた。しかしようこがいなかったら、あいこはこれほどうつくしくはなれなかったに)
いた。しかし葉子がいなかったら、愛子はこれほど美しくはなれなかったに
(ちがいない。にさんしゅうかんのうちにあいこはやまからほりだされたばかりのるびーと)
違いない。二三週間のうちに愛子は山から掘り出されたばかりのルビーと
(みがきをかけあげたるびーとほどにかわっていた。こぶとりでせたけはあねよりも)
磨きをかけ上げたルビーとほどに変わっていた。小肥りで背たけは姉よりも
(はるかにひくいが、ぴちぴちとしまったにくづきと、ぬけあがるほどしろいつやのある)
はるかに低いが、ぴちぴちと締まった肉づきと、抜け上がるほど白い艶のある
(ひふとはいいきんせいをたもって、みじかくはあるがるいのないほどにくかんてきなてあしのゆびの)
皮膚とはいい均整を保って、短くはあるが類のないほど肉感的な手足の指の
(さきぼそなところにりてんをみせていた。むっくりとぎゅうにゅういろのひふにつつまれたじぞうがたのうえに)
先細な所に利点を見せていた。むっくりと牛乳色の皮膚に包まれた地蔵肩の上に
(すえられたそのかおはまたようこのくしんにじゅうにぶんにむくいるものだった。ようこが)
据えられたその顔はまた葉子の苦心に十二分に酬いるものだった。葉子が
(えりぎわをそってやるとそこにあたらしいびがうまれでた。かみをじぶんのいしょうどおりに)
襟ぎわを剃ってやるとそこに新しい美が生まれ出た。髪を自分の意匠どおりに
(たばねてやるとそこにあたらしいこわくがわきあがった。ようこはあいこをうつくしくすることに、)
束ねてやるとそこに新しい蠱惑がわき上がった。葉子は愛子を美しくする事に、
(せいこうしたさくひんにたいするげいじゅつかとどうようのほこりとよろこびとをかんじた。くらいところにいて)
成功した作品に対する芸術家と同様の誇りと喜びとを感じた。暗い所にいて
(あかるいほうにふりむいたときなどのあいこのたまごがたのかおかたちはびのかみびーなすをさえ)
明るいほうに振り向いた時などの愛子の卵形の顔形は美の神ビーナスをさえ
(ねたますことができたろう。かおのりんかくと、ややひたいぎわをせまくするまでにあつく)
妬ます事ができたろう。顔の輪郭と、やや額ぎわを狭くするまでに厚く
(はえそろったこくしつのかみとはやみのなかにとけこむようにぼかされて、まえからのみくる)
生えそろった黒漆の髪とは闇の中に溶けこむようにぼかされて、前からのみ来る
(こうせんのためにはなすじは、ぎりしゃじんのそれにみるような、きそくただしくほそながい)
光線のために鼻筋は、ギリシャ人のそれに見るような、規則正しく細長い
(ぜんめんのへいめんをきわだたせ、うるおいきったおおきなふたつのひとみと、しまってあつい)
前面の平面をきわ立たせ、潤いきった大きな二つのひとみと、締まって厚い
(じょうげのくちびるとは、ひふをきりやぶってあらわれでたについのたましいのようになまなましい)
上下の口びるとは、皮膚を切り破って現われ出た二対の魂のようになまなましい
(かんじでみるひとをうった。あいこはそうしたときにいちばんうつくしいように、)
感じで見る人をうった。愛子はそうした時にいちばん美しいように、
(やみのなかにさびしくひとりでいて、そのたこんなめでじっとあかるみをみつめて)
闇の中にさびしくひとりでいて、その多恨な目でじっと明るみを見つめて
(いるようなしょうじょだった。)
いるような少女だった。
(ようこはくらちがようこのためにしてみせたおおきなえいだんにむくいるために、さだこを)
葉子は倉地が葉子のためにして見せた大きな英断に酬いるために、定子を
(じぶんのあいぶのむねからさいてすてようとおもいきわめながらも、どうしてもそれが)
自分の愛撫の胸から裂いて捨てようと思いきわめながらも、どうしてもそれが
(できないでいた。あれからいちどもおとずれこそしないが、ときおりかねをおくってやる)
できないでいた。あれから一度も訪れこそしないが、時おり金を送ってやる
(ことと、うばからあんぴをしらさせることだけはつづけていた。うばのてがみはいつでも)
事と、乳母から安否を知らさせる事だけは続けていた。乳母の手紙はいつでも
(うらみつらみでみたされていた。にほんにかえってきてくださったかいがどこにある。)
恨みつらみで満たされていた。日本に帰って来てくださったかいがどこにある。
(おやがなくてこがこらしくそだつものかそだたぬものかちょっとでもかんがえてみて)
親がなくて子が子らしく育つものか育たぬものかちょっとでも考えてみて
(もらいたい。うばもだんだんとしをとっていくみだ。はしかにかかってさだこは)
もらいたい。乳母もだんだん年を取って行く身だ。麻疹にかかって定子は
(まいにちまいにちままのなをよびつづけている、そのこえがようこのみみにきこえないのが)
毎日毎日ママの名を呼び続けている、その声が葉子の耳に聞こえないのが
(ふしぎだ。こんなことがしょうそくのたびごとにたどたどしくかきつらねてあった。)
不思議だ。こんな事が消息のたびごとにたどたどしく書き連ねてあった。
(ようこはいてもたってもたまらないようなことがあった。けれどもそんなときには)
葉子はいても立ってもたまらないような事があった。けれどもそんな時には
(くらちのことをおもった。ちょっとくらちのことをおもっただけで、はをくいしばり)
倉地の事を思った。ちょっと倉地の事を思っただけで、歯をくいしばり
(ながらも、たいこうえんのおもてもんからそっといえをぬけでるゆうわくにうちかった。)
ながらも、苔香園の表門からそっと家を抜け出る誘惑に打ち勝った。
(くらちのほうからてがみをだすのはわすれたとみえて、おかはまだおとずれてはこなかった。)
倉地のほうから手紙を出すのは忘れたと見えて、岡はまだ訪れては来なかった。
(きむらにあれほどせつなこころもちをかきおくったくらいだから、ようこのじゅうしょさえわかれば)
木村にあれほど切な心持ちを書き送ったくらいだから、葉子の住所さえわかれば
(たずねてこないはずはないのだが、くらちにはそんなことはもうねんとうになくなって)
尋ねて来ないはずはないのだが、倉地にはそんな事はもう念頭になくなって
(しまったらしい。だれもくるなとねがっていたようこもこのごろになってみると、)
しまったらしい。だれも来るなと願っていた葉子もこのごろになってみると、
(ふとおかのことなどをおもいだすことがあった。よこはまをたつときにようこにかじりついて)
ふと岡の事などを思い出す事があった。横浜を立つ時に葉子にかじり付いて
(はなれなかったせいねんをおもいだすことなどもあった。しかしこういうことがあるたび)
離れなかった青年を思い出す事などもあった。しかしこういう事があるたび
(ごとにくらちのこころのうごきかたをもきっとすいさつした。そしてはいつでもがんをかける)
ごとに倉地の心の動きかたをもきっと推察した。そしてはいつでも願をかける
(ようにそんなことはゆめにもおもいだすまいとこころにちかった。)
ようにそんな事は夢にも思い出すまいと心に誓った。
(くらちがいっこうにむとんじゃくなので、ようこはまだせきをうつしては)
倉地がいっこうに無頓着(むとんじゃく)なので、葉子はまだ籍を移しては
(いなかった。もっともくらちのせんさいがはたしてせきをぬいているかどうかも)
いなかった。もっとも倉地の先妻がはたして籍を抜いているかどうかも
(しらなかった。それをしろうともとめるのはようこのほこりがゆるさなかった。すべて)
知らなかった。それを知ろうと求めるのは葉子の誇りが許さなかった。すべて
(そういうしゅうかんをてんからかんがえのなかにいれていないくらちにたいしていまさらそんな)
そういう習慣を天から考えの中に入れていない倉地に対して今さらそんな
(けいしきごとをせまるのは、じぶんのどきょうをみすかされるといううえからもつらかった。)
形式事を迫るのは、自分の度胸を見すかされるという上からもつらかった。
(そのほこりというこころもちも、どきょうをみすかされるというおそれも、ほんとうをいうと)
その誇りという心持ちも、度胸を見すかされるという恐れも、ほんとうをいうと
(ようこがどこまでもくらちにたいしてひけめになっているのをかたるにすぎないとは)
葉子がどこまでも倉地に対してひけ目になっているのを語るに過ぎないとは
(ようこじしんぞんぶんにしりきっているくせに、それをかってにふみにじって、じぶんの)
葉子自身存分に知りきっているくせに、それを勝手に踏みにじって、自分の
(おもうとおりをくらちにしてのけさすふてきさをもつことはどうしてもできなかった。)
思うとおりを倉地にしてのけさす不敵さを持つ事はどうしてもできなかった。
(それなのにようこはややともするとくらちのせんさいのことがきになった。くらちの)
それなのに葉子はややともすると倉地の先妻の事が気になった。倉地の
(げしゅくのほうにあそびにいくときでも、そのきんじょでひとづまらしいひとのおうらいするのを)
下宿のほうに遊びに行く時でも、その近所で人妻らしい人の往来するのを
(みかけるとようこのめはしらずしらずじゅくしのためにかがやいた。いちどもかおを)
見かけると葉子の目は知らず知らず熟視のためにかがやいた。一度も顔を
(あわせないが、わずかなじかんのしゃしんのきおくから、きっとそのひとをみわけて)
合わせないが、わずかな時間の写真の記憶から、きっとその人を見分けて
(みせるとようこはじしんしていた。ようこはどこをあるいてもかつてそんなひとを)
みせると葉子は自信していた。葉子はどこを歩いてもかつてそんな人を
(みかけたことはなかった。それがまたみょうにうらぎられているようなかんじをあたえる)
見かけた事はなかった。それがまた妙に裏切られているような感じを与える
(こともあった。)
事もあった。
(こうかいのしょきにおけるひてんのうちどころのないようなけんこうのいしきはそのごようこには)
航海の初期における批点の打ちどころのないような健康の意識はその後葉子には
(もうかえってこなかった。さむけがつのるにつれてかふくぶがどんつうをおぼえる)
もう帰って来なかった。寒気が募るにつれて下腹ぶが鈍痛を覚える
(ばかりでなく、こしのうしろのほうにつめたいいしでもつりさげてあるような、)
ばかりでなく、腰の後ろのほうに冷たい石でも釣り下げてあるような、
(おもくるしいきぶんをかんずるようになった。にほんにかえってからあしのひえだすのも)
重苦しい気分を感ずるようになった。日本に帰ってから足の冷え出すのも
(しった。けっかんのなかにはちのかわりにとろびでもながれているのでは)
知った。血管の中には血の代わりに文火(とろび)でも流れているのでは
(ないかとおもうくらいさむけにたいしてへいきだったようこが、とこのなかでくらちに)
ないかと思うくらい寒気に対して平気だった葉子が、床の中で倉地に
(あしのひどくひえるのをちゅういされたりするとふしぎにおもった。かたのこるのは)
足のひどく冷えるのを注意されたりすると不思議に思った。肩の凝るのは
(ようしょうのときからのこしつだったがそれがちかごろになってことさらはげしくなった。)
幼少の時からの痼疾だったがそれが近ごろになってことさら激しくなった。
(ようこはちょいちょいあんまをよんだりした。ふくぶのいたみがげっけいとかんけいがあるのを)
葉子はちょいちょい按摩を呼んだりした。腹部の痛みが月経と関係があるのを
(きづいて、ようこはふじんびょうであるにそういないとはおもった。しかしそうでもないと)
気づいて、葉子は婦人病であるに相違ないとは思った。しかしそうでもないと
(おもうようなことがようこのむねのなかにはあった。もしやかいにんでは・・・ようこはよろこびに)
思うような事が葉子の胸の中にはあった。もしや懐妊では・・・葉子は喜びに
(むねをおどらせてそうおもってもみた。めぶたのようにいくにんもこを)
胸をおどらせてそう思ってもみた。牝豚(めぶた)のように幾人も子を
(うむのはとてもたえられない。しかしひとりはどうあってもうみたいものだと)
生むのはとても耐えられない。しかし一人はどうあっても生みたいものだと
(ようこはいのるようにねがっていたのだ。さだこのことからかんがえるとじぶんにはあんがいこうんが)
葉子は祈るように願っていたのだ。定子の事から考えると自分には案外子運が
(あるのかもしれないともおもった。しかしまえのかいにんのけいけんとこんどのちょうこうとは)
あるのかもしれないとも思った。しかし前の懐妊の経験と今度の徴候とは
(いろいろなてんでまったくちがったものだった。)
いろいろな点で全く違ったものだった。
(いちがつのすえになってきむらからははたしてかねをおくってきた。ようこはくらちが)
一月の末になって木村からははたして金を送って来た。葉子は倉地が
(じゅんたくにつけとどけするかねよりもこのかねをつかうことにむしろこころやすさをおぼえた。)
潤沢につけ届けする金よりもこの金を使う事にむしろ心安さを覚えた。
(ようこはすぐおもいきったさんざいをしてみたいゆうわくにかりたてられた。)
葉子はすぐ思いきった散財をしてみたい誘惑に駆り立てられた。
(あるひあたりのいいひにくらちとさしむかいでさけをのんでいるとたいこうえんのほうから)
ある日当たりのいい日に倉地とさし向かいで酒を飲んでいると苔香園のほうから
(やぶうぐいすのなくこえがきこえた。ようこはかるくさけほてりのしたかおをあげて)
藪うぐいすのなく声が聞こえた。葉子は軽く酒ほてりのした顔を上げて
(くらちをみやりながら、みみではうぐいすのなきつづけるのをちゅういした。)
倉地を見やりながら、耳ではうぐいすのなき続けるのを注意した。
(「はるがきますわ」「はやいもんだな」)
「春が来ますわ」「早いもんだな」
(「どこかへいきましょうか」「まださむいよ」)
「どこかへ行きましょうか」「まだ寒いよ」
(「そうねえ・・・くみあいのほうは」「うむあれがかたづいたらでかけようわい。)
「そうねえ・・・組合のほうは」「うむ あれが片づいたら出かけようわい。
(いいかげんくさくさしおった」そういってくらちはさもめんどうそうに)
いいかげんくさくさしおった」そういって倉地はさもめんどうそうに
(さかずきのさけをひとあおりにあおりつけた。)
杯の酒を一煽りにあおりつけた。
(ようこはすぐそのしごとがうまくはこんでいないのをかんづいた。それにしても)
葉子はすぐその仕事がうまく運んでいないのを感づいた。それにしても
(あのまいつきのたがくなかねはどこからくるのだろう。そうちらっとおもいながら)
あの毎月の多額な金はどこから来るのだろう。そうちらっと思いながら
(すばやくはなしをほかにそらした。)
素早く話を他にそらした。