有島武郎 或る女74

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(ようこはちょうしょくがおそかったからといって、いもうとたちだけがちゅうしょくのぜんについた。)

葉子は朝食がおそかったからといって、妹たちだけが昼食の膳についた。

(「くらちさんはいま、あるかいしゃをおたてになるのでいろいろごそうだんごとが)

「倉地さんは今、ある会社をお立てになるのでいろいろ御相談事が

(あるのだけれども、げしゅくではまわりがやかましくってこまるとおっしゃるから、)

あるのだけれども、下宿ではまわりがやかましくって困るとおっしゃるから、

(これからいつでもここでごようをなさるようにいったから、きっとこれからも)

これからいつでもここで御用をなさるようにいったから、きっとこれからも

(ちょくちょくいらっしゃるだろうが、さあちゃん、きょうのように)

ちょくちょくいらっしゃるだろうが、貞(さあ)ちゃん、きょうのように

(あそびのおあいてにばかりしていてはだめよ。そのかわりえいごなんぞで)

遊びのお相手にばかりしていてはだめよ。その代わり英語なんぞで

(わからないことがあったらなんでもおききするといい、ねえさんより)

わからない事があったらなんでもお聞きするといい、ねえさんより

(いろいろのことをよくしっていらっしゃるから・・・それからあいさんは、これから)

いろいろの事をよく知っていらっしゃるから・・・それから愛さんは、これから

(くらちさんのおきゃくさまもみえるだろうから、そんなときにはいちいちねえさんのさしずを)

倉地さんのお客様も見えるだろうから、そんな時には一々ねえさんのさしずを

(またないではきはきおせわをしてあげるのよ」とようこはあらかじめふたりに)

待たないではきはきお世話をして上げるのよ」と葉子はあらかじめ二人に

(くぎをさした。)

釘をさした。

(いもうとたちがしょくじをおわってふたりであとしまつをしているとまたげんかんのこうしが)

妹たちが食事を終わって二人であと始末をしているとまた玄関の格子が

(しずかにあくおとがした。さだよはようこのところにとんできた。「おねえさま)

静かにあく音がした。貞世は葉子の所に飛んで来た。「おねえ様

(またおきゃくさまよ。きょうはずいぶんたくさんいらっしゃるわね。だれでしょう」)

またお客様よ。きょうはずいぶんたくさんいらっしゃるわね。だれでしょう」

(とものめずらしそうにげんかんのほうにちゅういのみみをそばだてた。ようこもだれだろうと)

と物珍しそうに玄関のほうに注意の耳をそばだてた。葉子もだれだろうと

(いぶかった。ややしばらくしてしずかにあんないをもとめるおとこのこえがした。それを)

いぶかった。ややしばらくして静かに案内を求める男の声がした。それを

(きくとさだよはあねからはなれてかけだしていった。あいこがたすきをはずしながら)

聞くと貞世は姉から離れて駆け出して行った。愛子が襷をはずしながら

(だいどころからでてきたじぶんには、さだよはもういちまいのめいしをもってようこのところに)

台所から出て来た時分には、貞世はもう一枚の名刺を持って葉子の所に

(とってかえしていた。きんぶちのついたこうからしいめいしのおもてにはおかはじめと)

取って返していた。金縁のついた高価らしい名刺の表には岡 一(はじめ)と

(しるしてあった。「まあめずらしい」ようこはおもわずこえをたててさだよとともにげんかんに)

記してあった。「まあ珍しい」葉子は思わず声を立てて貞世と共に玄関に

など

(はしりでた。そこにはしょじょのようにうつくしくこがらなおかがゆきのかかったかさをつぼめて、)

走り出た。そこには処女のように美しく小柄な岡が雪のかかった傘をつぼめて、

(がいとうのしたたりをべにをさしたようにあからんだゆびのさきではじきながら、)

外套のしたたりを紅をさしたように赤らんだ指の先ではじきながら、

(おんなのようにはにかんでたっていた。)

女のようにはにかんで立っていた。

(「いいところでしょう。おいでにはすこしおさむかったかもしれないけれども、)

「いい所でしょう。おいでには少しお寒かったかもしれないけれども、

(きょうはほんとうにいいおりからでしたわ。となりにみえるのがゆうめいなたいこうえん、)

きょうはほんとうにいいおりからでしたわ。隣に見えるのが有名な苔香園、

(あすこのもりのなかがこうようかん、このすぎのもりがわたしだいすきですの。きょうは)

あすこの森の中が紅葉館、この杉の森がわたし大好きですの。きょうは

(ゆきがつもってなおさらきれいですわ」ようこはおかをにかいにあんないして、そこの)

雪が積もってなおさらきれいですわ」葉子は岡を二階に案内して、そこの

(がらすどごしにあちこちのゆきげしきをほこりがにしこしてみせた。おかは)

ガラス戸越しにあちこちの雪景色を誇りがに指呼して見せた。岡は

(ことばすくなながら、ちかちかとまぶしいいんしょうをめにのこして、ふりおりふりあおる)

言葉少なながら、ちかちかとまぶしい印象を目に残して、降り下り降りあおる

(ゆきのむこうにいんけんするさんないのこだちのすがたをたんしょうした。)

雪の向こうに隠見する山内(さんない)の木立ちの姿を嘆賞した。

(「それにしてもどうしてあなたはここを・・・くらちからてがみでもいきましたか」)

「それにしてもどうしてあなたはここを・・・倉地から手紙でも行きましたか」

(おかはしんぴてきにほほえんでようこをかえりみながら「いいえ」といった。「そりゃ)

岡は神秘的にほほえんで葉子を顧みながら「いいえ」といった。「そりゃ

(おかしいこと・・・それではどうして」えんがわからざしきへもどりながらおもむろに、)

おかしい事・・・それではどうして」縁側から座敷へ戻りながらおもむろに、

(「おしらせがないものであがってはきっといけないとはおもいましたけれども、)

「お知らせがないもので上がってはきっといけないとは思いましたけれども、

(こんなゆきのひならおきゃくもなかろうからひょっとかするとあってくださるかとも)

こんな雪の日ならお客もなかろうからひょっとかすると会ってくださるかとも

(おもって・・・」そういういいだしでおかがかたるところによれば、おかのいとこに)

思って・・・」そういういい出しで岡が語るところによれば、岡の従妹に

(あたるひとがゆうらんじょがっこうにつうがくしていて、しょうがつのがっきからさつきというしまいの)

当たる人が幽蘭女学校に通学していて、正月の学期から早月という姉妹の

(うつくしいせいとがきて、それはしばさんないのうらざかにびじんやしきといってかいわいでゆうめいないえの)

美しい生徒が来て、それは芝山内の裏坂に美人屋敷といって界隈で有名な家の

(さんにんしまいのなかのふたりであるということや、いちばんのあねにあたるひとが「ほうせいしんぽう」で)

三人姉妹の中の二人であるという事や、一番の姉に当たる人が「報正新報」で

(うわさをたてられたすぐれたびぼうのもちぬしだということやが、はやくもくちさがない)

うわさを立てられた優れた美貌の持ち主だという事やが、早くも口さがない

(せいとかんのひょうばんになっているのをなにかのおりにはなしたのですぐおもいあたった)

生徒間の評判になっているのを何かのおりに話したのですぐ思い当った

(けれども、いちにちいちにちとほうもんをちゅうちょしていたのだとのことだった。ようこはいまさらに)

けれども、一日一日と訪問を躊躇していたのだとの事だった。葉子は今さらに

(せけんのあんがいにせまいのをおもった。あいこといわずさだよのうえにも、じぶんのぎょうせきが)

世間の案外に狭いのを思った。愛子といわず貞世の上にも、自分の行跡が

(どんなえいきょうをあたえるかもかんがえずにはいられなかった。)

どんな影響を与えるかも考えずにはいられなかった。

(そこにさだよが、あいこがととのえたちゃきをあぶなっかしいてつきで、)

そこに貞世が、愛子がととのえた茶器をあぶなっかしい手つきで、

(めはちぶにもってきた。さだよはこのひさびしいいえのうちにいくにんもきゃくをむかえる)

目八分に持って来た。貞世はこの日さびしい家の内に幾人も客を迎える

(ものめずらしさにうちょうてんになっていたようだった。まんめんにいつわりのないあいきょうを)

物珍しさに有頂天になっていたようだった。満面に偽りのない愛嬌を

(みせながら、ていねいにぺっちゃんとおじぎをした。そしてかおにたれかかるくろかみを)

見せながら、丁寧にぺっちゃんとおじぎをした。そして顔にたれかかる黒髪を

(ふりあおいであたまをふってうしろにさばきながら、おかをむじゃきにみやって、あねのほうに)

振り仰いで頭を振って後ろにさばきながら、岡を無邪気に見やって、姉のほうに

(よりそうとおおきなこえで「どなた」ときいた。「いっしょにおひきあわせします)

寄り添うと大きな声で「どなた」と聞いた。「一緒にお引き合わせします

(からね、あいさんにもおいでなさいといっていらっしゃい」)

からね、愛さんにもおいでなさいといっていらっしゃい」

(ふたりだけがざにおちつくとおかはなみだぐましいようなかおをしてじっとてあぶりのなかを)

二人だけが座に落ち付くと岡は涙ぐましいような顔をしてじっと手あぶりの中を

(みこんでいた。ようこのおもいなしかそのかおにもすこしやつれがみえるようだった。)

見込んでいた。葉子の思いなしかその顔にも少しやつれが見えるようだった。

(ふつうのおとこならばたぶんさほどにもおもわないにちがいないいえのなかのいさくさなどに)

普通の男ならばたぶんさほどにも思わないに違いない家の中のいさくさなどに

(せんさいすぎるしんけいをなやまして、それにつけてもようこのいぶをことさらに)

繊細すぎる神経をなやまして、それにつけても葉子の慰撫をことさらに

(あこがれていたらしいようすは、そんなことについてはひとこともいわないが、)

あこがれていたらしい様子は、そんな事については一言もいわないが、

(おかのかおにははっきりとえがかれているようだった。「そんなにせいたって)

岡の顔にははっきりと描かれているようだった。「そんなにせいたって

(いやよさあちゃんは。せっかちなひとねえ」そうおだやかにたしなめるらしい)

いやよ貞(さあ)ちゃんは。せっかちな人ねえ」そう穏やかにたしなめるらしい

(あいこのこえがかいかでした。「でもそんなにおしゃれしなくったっていいわ。)

愛子の声が階下でした。「でもそんなにおしゃれしなくったっていいわ。

(おねえさまがはやくっておっしゃってよ」ぶえんりょにこういうさだよのこえもはっきり)

おねえ様が早くっておっしゃってよ」無遠慮にこういう貞世の声もはっきり

(きこえた。ようこはほほえみながらおかをあたたかくみやった。おかもさすがに)

聞こえた。葉子はほほえみながら岡を暖かく見やった。岡もさすがに

(わらいをやどしたかおをあげたが、ようことみかわすときゅうにほおをぽっとあかくして)

笑いを宿した顔を上げたが、葉子と見かわすと急に頬をぽっと赤くして

(めをしょうじのほうにそらしてしまった。てあぶりのふちにおかれたてのさきが)

目を障子のほうにそらしてしまった。手あぶりの縁に置かれた手の先が

(かすかにふるうのをようこはみのがさなかった。)

かすかに震うのを葉子は見のがさなかった。

(やがていもうとたちふたりがようこのうしろにあらわれた。ようこはすわったままてをうしろに)

やがて妹たち二人が葉子の後ろに現われた。葉子はすわったまま手を後ろに

(まわして、「そんなひとのおしりのところにすわって、もっとこっちにおいでなさいな。)

回して、「そんな人のお尻の所にすわって、もっとこっちにお出でなさいな。

(・・・これがいもうとたちですの。どうかおともだちにしてくださいまし。)

・・・これが妹たちですの。どうかお友だちにしてくださいまし。

(おふねでごいっしょだったおかはじめさま。・・・あいさんあなたおしりもうしていないの)

お船で御一緒だった岡一様。・・・愛さんあなたお知り申していないの

(・・・あのしつれいですがなんとおっしゃいますの、おいとこごさんのおなまえは」)

・・・あの失礼ですがなんとおっしゃいますの、お従妹御さんのお名前は」

(とおかにたずねた。おかはことばどおりにしんけいをてんとうさせていた。それはこのせいねんを)

と岡に尋ねた。岡は言葉どおりに神経を転倒させていた。それはこの青年を

(ひじょうにみにくくかつうつくしくみせた。いそいですわりなおしたいずまいを)

非常に醜くかつ美しく見せた。急いですわり直した居ずまいを

(すぐいみもなくくずして、それをまたひじょうにこうかいしたらしいかおつきを)

すぐ意味もなくくずして、それをまた非常に後悔したらしい顔つきを

(みせたりした。「は?」「あのわたしどものうわさをさなったそのおじょうさまの)

見せたりした。「は?」「あのわたしどものうわさをさなったそのお嬢様の

(おなまえは」「あのやはりおかといいます」「おかさんならおかおはぞんじあげて)

お名前は」「あのやはり岡といいます」「岡さんならお顔は存じ上げて

(おりますわ。ひとつうえのきゅうにいらっしゃいます」あいこはすこしもさわがずに、)

おりますわ。一つ上の級にいらっしゃいます」愛子は少しも騒がずに、

(くらちにたいしたときとおなじちょうしでじっとおかをみやりながらそくざにこうこたえた。)

倉地に対した時と同じ調子でじっと岡を見やりながら即座にこう答えた。

(そのめはあいかわらずいんとうとみえるほどきょくたんにじゅんけつだった。じゅんけつとみえるほど)

その目は相変らずイン蕩と見えるほど極端に純潔だった。純潔と見えるほど

(きょくたんにいんとうだった。おかはおじながらもそのめからじぶんのめをそらすことが)

極端にイン蕩だった。岡は怖じながらもその目から自分の目をそらす事が

(できないようにまともにあいこをみてみるみるみみたぶまでをまっかにしていた。)

できないようにまともに愛子を見て 見る見る耳たぶまでをまっ赤にしていた。

(ようこはそれをけどるとあいこにたいしていちだんのにくしみをかんぜずには)

葉子はそれを気(け)取ると愛子に対していちだんの憎しみを感ぜずには

(いられなかった。「くらちさんは・・・」おかはいちろのにげみちをようやく)

いられなかった。「倉地さんは・・・」岡は一路の逃げ道をようやく

(もとめだしたようにようこにめをてんじた。「くらちさん?たったいまおかえりになった)

求め出したように葉子に目を転じた。「倉地さん? たった今お帰りになった

(ばかりおしいことをしましてねえ。でもあなたこれからはちょくちょく)

ばかり惜しい事をしましてねえ。でもあなたこれからはちょくちょく

(いらしってくださいますわね。くらちさんもすぐおきんじょにおすまいですから)

いらしってくださいますわね。倉地さんもすぐお近所にお住まいですから

(いつかごいっしょにごはんでもいただきましょう。わたしにほんにかえってから)

いつか御いっしょに御飯でもいただきましょう。わたし日本に帰ってから

(このいえにおきゃくさまをおあげするのはきょうがはじめてですのよ。)

この家にお客様をお上げするのはきょうが始めてですのよ。

(ねえさあちゃん。・・・ほんとうによくきてくださいましたこと。)

ねえ貞(さあ)ちゃん。・・・ほんとうによく来てくださいました事。

(わたしとうからきていただきたくってしようがなかったんですけれども、)

わたしとうから来ていただきたくってしようがなかったんですけれども、

(くらちさんからなんとかいってあげてくださるだろうと、そればかりを)

倉地さんからなんとかいって上げてくださるだろうと、そればかりを

(まっていたのですよ。わたしからおてがみをあげるのはいけませんもの(そこで)

待っていたのですよ。わたしからお手紙を上げるのはいけませんもの(そこで

(ようこはわかってくださるでしょうというようなやさしいめつきをつよいひょうじょうをそえて)

葉子はわかってくださるでしょうというような優しい目つきを強い表情を添えて

(おかにおくった)。きむらからのてがみであなたのことはくわしくうかがっていましたわ。)

岡に送った)。木村からの手紙であなたの事はくわしく伺っていましたわ。

(いろいろおくるしいことがおありになるんですってね」おかはそのころになって)

いろいろお苦しい事がおありになるんですってね」岡はそのころになって

(ようやくじぶんをかいふくしたようだった。しどろもどろになったかんがえやことばも)

ようやく自分を回復したようだった。しどろもどろになった考えや言葉も

(ややととのってみえた。あいこはいちどしげしげとおかをみてしまってからは、けっして)

やや整って見えた。愛子は一度しげしげと岡を見てしまってからは、決して

(にどはそのほうをむかずに、めをたたみのうえにふせてじっとせんりもはなれたことでも)

二度はそのほうを向かずに、目を畳の上に伏せてじっと千里も離れた事でも

(かんがえているようすだった。)

考えている様子だった。

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