有島武郎 或る女76
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問題文
(あるよるようこはいもうとたちがしゅうしんしてからくらちのげしゅくをおとずれた。くらちは)
ある夜葉子は妹たちが就寝してから倉地の下宿を訪れた。倉地は
(たったひとりでさびしそうにそうだ・びすけっとをさかなにうぃすきーを)
たった一人でさびしそうにソウダ・ビスケットを肴にウィスキーを
(のんでいた。ちゃぶだいのしゅういにはしょるいやこうわんのちずやがらんぼうにちらけてあって、)
飲んでいた。ちゃぶ台の周囲には書類や港湾の地図やが乱暴に散らけてあって、
(だいのうえからのこっぷからさっするとまさいかだれか、いまきゃくがかえったところらしかった。)
台の上からのコップから察すると正井かだれか、今客が帰った所らしかった。
(ふすまをあけてようこのはいってきたのをみるとくらちはいつもになくちょっと)
襖を明けて葉子のはいって来たのを見ると倉地はいつもになくちょっと
(けわしいめつきをしてしょるいにめをやったが、そこにあるものをえんぴをのばして)
けわしい目つきをして書類に目をやったが、そこにあるものを猿臂を延ばして
(ひきよせてせわしくひとまとめにしてとこのまにうつすと、じぶんのとなりにざぶとんを)
引き寄せてせわしく一まとめにして床の間に移すと、自分の隣に座ぶとんを
(しいて、それにすわれとあごをつきだしてあいずした。そしてはげしくてをならした。)
敷いて、それにすわれと顎を突き出して相図した。そして激しく手を鳴らした。
(「こっぷとたんさんすいをもってこい」ようをききにきたじょちゅうにこういいつけておいて、)
「コップと炭酸水を持って来い」用を聞きに来た女中にこういいつけておいて、
(はげしくようこをまともにみた。「ようちゃん(これはそのころくらちがようこをよぶ)
激しく葉子をまともに見た。「葉ちゃん(これはそのころ倉地が葉子を呼ぶ
(なまえだった。いもうとたちのまえでようことよびすてにもできないのでくらちはしばらくのあいだ)
名前だった。妹たちの前で葉子と呼び捨てにもできないので倉地はしばらくの間
(おようさんおようさんとよんでいたが、ようこがさだよをさあちゃんと)
お葉さんお葉さんと呼んでいたが、葉子が貞世を貞(さあ)ちゃんと
(よぶのからおもいついたとみえて、さんにんをようちゃん、あいちゃん、さあちゃんとよぶ)
呼ぶのから思いついたと見えて、三人を葉ちゃん、愛ちゃん、貞ちゃんと呼ぶ
(ようになった。そしてさしむかいのときにもようこをそうよぶのだった)はきむらに)
ようになった。そして差し向かいの時にも葉子をそう呼ぶのだった)は木村に
(みつがれているな。はくじょうしっちまえ」「それがどうして?」ようこは)
貢がれているな。白状しっちまえ」「それがどうして?」葉子は
(ひだりのかたひじをちゃぶだいについて、そのゆびさきでびんのほつれをかきあげながら、)
左の片肘をちゃぶ台について、その指先で鬢のほつれをかき上げながら、
(へいきなかおでしょうめんからくらちをみかえした。「どうしてがあるか。おれはあかのたにんに)
平気な顔で正面から倉地を見返した。「どうしてがあるか。おれは赤の他人に
(おれのおんなをやしなわすほどふぬけではないんだ」「まあきのちいさい」ようこは)
おれの女を養わすほど腑抜けではないんだ」「まあ気の小さい」葉子は
(なおもどうじなかった。そこにおんながはいってきたのではなしのこしがおられた。)
なおも動じなかった。そこに婢がはいって来たので話の腰が折られた。
(ふたりはしばらくだまっていた。「おれはこれからたけしばへいく。な、いこう」)
二人はしばらく黙っていた。「おれはこれから竹柴へ行く。な、行こう」
(「だってみょうちょうこまりますわ。わたしがるすだといもうとたちががっこうにいけないもの」)
「だって明朝困りますわ。わたしが留守だと妹たちが学校に行けないもの」
(「いっぴつかいてがっこうなんざあやすんでるすをしろといってやれい」ようこはもちろん)
「一筆書いて学校なんざあ休んで留守をしろといってやれい」葉子はもちろん
(ちょっとそんなことをいってみただけだった。いもうとたちのがっこうにいったあとでも、)
ちょっとそんな事をいって見ただけだった。妹たちの学校に行ったあとでも、
(たいこうえんのばあさんにことばをかけておいていえをあけることはつねしじゅうだった。ことに)
苔香園の婆さんに言葉をかけておいて家を明ける事は常始終だった。ことに
(そのよるはきむらのことについてくらちにがてんさせておくのがひつようだとおもったので)
その夜は木村の事について倉地に合点させておくのが必要だと思ったので
(いいだされたときからいっしょするしたごころではあったのだ。ようこはそこにあったぺんを)
いい出された時から一緒する下心ではあったのだ。葉子はそこにあったペンを
(とりあげてかみきれにはしりがきをした。くらちがきゅうびょうになったのでかいほうのために)
取り上げて紙切れに走り書きをした。倉地が急病になったので介抱のために
(こんやはここでとまる。あすのあさがっこうのじこくまでにかえってこなかったら、)
今夜はここで泊まる。あすの朝学校の時刻までに帰って来なかったら、
(とじまりをしてでかけていい。そういういみをかいた。そのあいだにくらちは)
戸締まりをして出かけていい。そういう意味を書いた。その間に倉地は
(てばやくきがえをして、しょるいをおおきなしなかばんにつっこんでじょうをおろしてから、)
手早く着がえをして、書類を大きなシナ鞄に突っ込んで錠をおろしてから、
(めんみつにあくかあかないかをしらべた。そしてかんがえこむようにうつむいて)
綿密にあくかあかないかを調べた。そして考えこむようにうつむいて
(うわめをしながら、りょうてをふところにさしこんでかぎをはらおびらしいところに)
上目をしながら、両手をふところにさし込んで鍵を腹帯らしい所に
(しまいこんだ。)
しまい込んだ。
(くじすぎじゅうじちかくなってからふたりはつれだってげしゅくをでた。)
九時すぎ十時近くなってから二人は連れ立って下宿を出た。
(ぞうじょうじまえにきてからくるまをやとった。まんげつにちかいつきがもうだいぶさむぞらたかく)
増上寺前に来てから車を傭った。満月に近い月がもうだいぶ寒空高く
(こうこうとかかっていた。)
こうこうとかかっていた。
(ふたりをむかえたたけしばかんのじょちゅうはくらちをこころえていて、すぐにわさきにはなれになっている)
二人を迎えた竹柴館の女中は倉地を心得ていて、すぐ庭先に離れになっている
(ふたまばかりのいっけんにあんないした。かぜはないけれどもつきのしろさで)
二間(ふたま)ばかりの一軒に案内した。風はないけれども月の白さで
(ひどくひえこんだようなばんだった。ようこはあしのさきがこおりでつつまれたほど)
ひどく冷え込んだような晩だった。葉子は足の先が氷で包まれたほど
(かんかくをうしなっているのをおぼえた。くらちのよくしたあとで、あつめなしおゆにゆっくり)
感覚を失っているのを覚えた。倉地の浴したあとで、熱めな塩湯にゆっくり
(つかったのでようやくひとごこちがついてもどってきたときには、すばやいじょちゅうのはたらきで)
浸ったのでようやく人心地がついて戻って来た時には、素早い女中の働きで
(しゅこうがととのえられていた。ようこがくらちととおでらしいことをしたのはこれが)
酒肴がととのえられていた。葉子が倉地と遠出らしい事をしたのはこれが
(はじめてなので、たびさきにいるようなきぶんがみょうにふたりをしたしみあわせた。ましてや)
始めてなので、旅先にいるような気分が妙に二人を親しみ合わせた。ましてや
(ざしきにつづくしばふのはずれのいしがきにはうみのなみがきてしずかにおとをたてていた。)
座敷に続く芝生のはずれの石垣には海の波が来て静かに音を立てていた。
(そらにはつきがさえていた。いもうとたちにとりまかれたり、げしゅくにんのめをかねたり)
空には月がさえていた。妹たちに取り巻かれたり、下宿人の目をかねたり
(していなければならなかったふたりはくつろいだすがたとこころとでひばちによりそった。)
していなければならなかった二人はくつろいだ姿と心とで火鉢により添った。
(よのなかはふたりきりのようだった。いつのまにかおっととばかりくらちを)
世の中は二人きりのようだった。いつのまにか良人とばかり倉地を
(かんがえなれてしまったようこは、ここにふたたびじょうじんをみいだしたようにおもった。)
考え慣れてしまった葉子は、ここに再び情人を見いだしたように思った。
(そしてなにとはなくくらちをじらしてじらしてじらしぬいたあげくに、)
そして何とはなく倉地をじらしてじらしてじらし抜いたあげくに、
(そのはんどうからくるみつのようなかんごをおもいきりあじわいたいしょうどうにかられていた。)
その反動から来る蜜のような歓語を思いきり味わいたい衝動に駆られていた。
(そしてそれがまたくらちのようきゅうでもあることをほんのうてきにかんじていた。「いいわねえ。)
そしてそれがまた倉地の要求でもある事を本能的に感じていた。「いいわねえ。
(なぜもっとはやくこんなところにこなかったでしょう。すっかりくろうもなにもわすれて)
なぜもっと早くこんな所に来なかったでしょう。すっかり苦労も何も忘れて
(しまいましたわ」ようこはすべすべとほてってすこしこわばるようなほおを)
しまいましたわ」葉子はすべすべとほてって少しこわばるような頬を
(なでながら、とろけるようにくらちをみた。だいぶさけのきのまわったくらちは、)
なでながら、とろけるように倉地を見た。だいぶ酒の気のまわった倉地は、
(おんなのにくかんをそそりたてるようなにおいをへやじゅうにまきちらすはまきを)
女の肉感をそそり立てるようなにおいを部屋じゅうにまき散らす葉巻を
(ふかしながら、ようこをしりめにかけた。「それはけっこう。だがおれには)
ふかしながら、葉子を尻目にかけた。「それは結構。だがおれには
(さっきのはなしがのどにつかえてのこっとるて。むなくそがわるいぞ」ようこはあきれたように)
さっきの話が喉につかえて残っとるて。胸くそが悪いぞ」葉子はあきれたように
(くらちをみた。「きむらのこと?」「おまえはおれのかねをこころまかせにつかうきには)
倉地を見た。「木村の事?」「お前はおれの金を心まかせに使う気には
(なれないんか」「たりませんもの」「たりなきゃなぜいわん」)
なれないんか」「足りませんもの」「足りなきゃなぜいわん」
(「いわなくったってきむらがよこすんだからいいじゃありませんか」「ばか!」)
「いわなくったって木村がよこすんだからいいじゃありませんか」「ばか!」
(くらちはみぎのかたをこやまのようにそびやかして、じょうたいをしゃにかまえながら)
倉地は右の肩を小山のようにそびやかして、上体を斜(しゃ)に構えながら
(ようこをにらみつけた。ようこはそのめのまえでうみからでるなつのつきのように)
葉子をにらみつけた。葉子はその目の前で海から出る夏の月のように
(ほほえんでみせた。「きむらはようちゃんにほれとるんだよ」「そしてようちゃんは)
ほほえんで見せた。「木村は葉ちゃんに惚れとるんだよ」「そして葉ちゃんは
(きらってるんですわね」「じょうだんはおいてくれ。・・・おりゃしんけんで)
きらってるんですわね」「冗談は措いてくれ。・・・おりゃ真剣で
(いっとるんだ。おれたちはきむらにようはないはずだ。おれはようのないものは)
いっとるんだ。おれたちは木村に用はないはずだ。おれは用のないものは
(かたっぱしからすてるのがたてまえだ。かかあだろうがこだろうが・・・みろ)
片っ端から捨てるのが立てまえだ。嬶だろうが子だろうが・・・見ろ
(おれを・・・よくみろ。おまえはまだこのおれをうたがっとるんだな。あとがまには)
おれを・・・よく見ろ。お前はまだこのおれを疑っとるんだな。あとがまには
(きむらをいつでもなおせるようにくいのこしをしとるんだな」「そんなことは)
木村をいつでもなおせるように食い残しをしとるんだな」「そんな事は
(ありませんわ」「ではなんでてがみのやりとりなどしおるんだ」「おかねが)
ありませんわ」「ではなんで手紙のやり取りなどしおるんだ」「お金が
(ほしいからなの」ようこはへいきなかおをしてまたはなしをあとにもどした。そして)
ほしいからなの」葉子は平気な顔をしてまた話をあとに戻した。そして
(どくしゃくでさかずきをかたむけた。くらちはすこしどもるほどいかりがつのっていた。「それがわるいと)
独酌で杯を傾けた。倉地は少しどもるほど怒りが募っていた。「それが悪いと
(いっとるのがわからないか・・・おれのつらにどろをぬりこくっとる・・・)
いっとるのがわからないか・・・おれの面に泥を塗りこくっとる・・・
(こっちにこい(そういいながらくらちはようこのてをとってじぶんのひざのうえに)
こっちに来い(そういいながら倉地は葉子の手を取って自分の膝の上に
(ようこのじょうたいをたくしこんだ)。いえ、かくさずに。いまになってきむらにみれんが)
葉子の上体をたくし込んだ)。いえ、隠さずに。今になって木村に未練が
(でてきおったんだろう。おんなというはそうしたもんだ。きむらにいきたくばいけ、)
出て来おったんだろう。女というはそうしたもんだ。木村に行きたくば行け、
(いまいけ。おれのようなやくざをかまっとるとめはでやせんから。・・・おまえには)
今行け。おれのようなやくざを構っとると芽は出やせんから。・・・お前には
(ふてくされがいっちよくにあっとるよ・・・ただしおれをだましにかかると)
ふて腐れがいっちよく似合っとるよ・・・ただしおれをだましにかかると
(けんとうちがいだぞ」そういいながらくらちはようこをつきはなすようにした。ようこは)
見当違いだぞ」そういいながら倉地は葉子を突き放すようにした。葉子は
(それでもすこしもへいせいをうしなってはいなかった。あでやかにほほえみながら、)
それでも少しも平静を失ってはいなかった。あでやかにほほえみながら、
(「あなたもあんまりわからない・・・」といいながらこんどはようこのほうから)
「あなたもあんまりわからない・・・」といいながら今度は葉子のほうから
(くらちのひざにうしろむきにもたれかかった。くらちはそれをしりぞけようとはしなかった。)
倉地の膝に後ろ向きにもたれかかった。倉地はそれを退けようとはしなかった。
(「なにがわからんかい」しばらくしてから、くらちはようこのかたごしにさかずきを)
「何がわからんかい」しばらくしてから、倉地は葉子の肩越しに杯を
(とりあげながらこうたずねた。ようこにはへんじがなかった。またしばらくの)
取り上げながらこう尋ねた。葉子には返事がなかった。またしばらくの
(ちんもくのじかんがすぎた。くらちがもういちどなにかいおうとしたとき、ようこは)
沈黙の時間が過ぎた。倉地がもう一度何かいおうとした時、葉子は
(いつのまにかしくしくとないていた。くらちはこのふいうちにおもわず)
いつのまにかしくしくと泣いていた。倉地はこの不意打ちに思わず
(はっとしたようだった。「なぜきむらからおくらせるのがわるいんです」ようこは)
はっとしたようだった。「なぜ木村から送らせるのが悪いんです」葉子は
(なみだをけどらせまいとするように、しかしうちしずんだちょうしでこう)
涙を気(け)取らせまいとするように、しかし打ち沈んだ調子でこう
(いいだした。)
いい出した。