有島武郎 或る女85

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(ようこにはおかのことばがわかるようでもあり、みょうにからんでもきこえた。)

葉子には岡の言葉がわかるようでもあり、妙にからんでも聞こえた。

(そしてちょっとすかされたようにきせいをそがれたが、どんどんわきあがる)

そしてちょっとすかされたように気勢をそがれたが、どんどんわき上がる

(ようにないぶからおそいたてるちからはすぐようこをりふじんにした。「あいこがそんな)

ように内部から襲い立てる力はすぐ葉子を理不尽にした。「愛子がそんな

(おことばでなきましたって?ふしぎですわねえ。・・・それならそれで)

お言葉で泣きましたって? 不思議ですわねえ。・・・それならそれで

(ようござんす。・・・(ここでようこはじぶんにもたえきれずにさめざめと)

ようござんす。・・・(ここで葉子は自分にも堪え切れずにさめざめと

(なきだした)おかさんわたしもさびしい・・・さびしくって、さびしくって)

泣き出した)岡さんわたしもさびしい・・・さびしくって、さびしくって

(・・・」「おさっしもうします」おかはあんがいしんみりしたことばでそういった。)

・・・」「お察し申します」岡は案外しんみりした言葉でそういった。

(「おわかりになって?」とようこはなきながらとりすがるようにした。)

「おわかりになって?」と葉子は泣きながら取りすがるようにした。

(「わかります。・・・あなたはだらくしたてんしのようなかたです。ごめんください。)

「わかります。・・・あなたは堕落した天使のような方です。御免ください。

(ふねのなかではじめておめにかかってからわたし、ちっともこころもちがかわっては)

船の中で始めてお目にかかってからわたし、ちっとも心持ちが変わっては

(いないんです。あなたがいらっしゃるんでわたし、ようやくさびしさから)

いないんです。あなたがいらっしゃるんでわたし、ようやくさびしさから

(のがれます」「うそ!・・・あなたはもうわたしにあいそをおつかしなのよ。)

のがれます」「うそ!・・・あなたはもうわたしに愛想をおつかしなのよ。

(わたしのようにだらくしたものは・・・」ようこはおかのてをはなして、とうとう)

わたしのように堕落したものは・・・」葉子は岡の手を放して、とうとう

(はんけちをかおにあてた。「そういういみでいったわけじゃないんです)

ハンケチを顔にあてた。「そういう意味でいったわけじゃないんです

(けれども・・・」ややしばらくちんもくしたあとに、とうわくしきったようにさびしく)

けれども・・・」ややしばらく沈黙した後に、当惑しきったようにさびしく

(おかはひとりごちてまただまってしまった。おかはどんなにさびしそうな)

岡は独語(ひとりご)ちてまた黙ってしまった。岡はどんなにさびしそうな

(ときでもなかなかなかなかった。それがかれをいっそうさびしくみせた。)

時でもなかなか泣かなかった。それが彼をいっそうさびしく見せた。

(さんがつまつのゆうがたのそらはなごやかだった。にわさきのひとえざくらのこずえには)

三月末の夕方の空はなごやかだった。庭先の一重桜のこずえには

(みなみにむいたほうにしろいかべんがどこからかとんできてくっついたように)

南に向いたほうに白い花弁がどこからか飛んで来てくっついたように

(ちらほらみえだしていた。そのさきにはあかくしもがれたすぎもりがゆるやかに)

ちらほら見え出していた。その先には赤く霜枯れた杉森がゆるやかに

など

(くれそめて、ひかりをふくんだあおぞらがしずかにながれるようにただよっていた。)

暮れ初(そ)めて、光を含んだ青空が静かに流れるように漂っていた。

(たいこうえんのほうからえんていがまどおにはさみをならすおとがきこえるばかりだった。)

苔香園のほうから園丁が間遠に鋏をならす音が聞こえるばかりだった。

(わかさからおいていかれる・・・そうしたさびしみがしっとにかわって)

若さから置いて行かれる・・・そうしたさびしみが嫉妬にかわって

(ひしひしとようこをおそってきた。ようこはふとははのおやさをおもった。ようこが)

ひしひしと葉子を襲って来た。葉子はふと母の親佐を思った。葉子が

(きべとのこいにふかいりしていったとき、それをみまもっていたときのおやさをおもった。)

木部との恋に深入りして行った時、それを見守っていた時の親佐を思った。

(おやさのそのこころをおもった。じぶんのばんがきた・・・そのこころもちは)

親佐のその心を思った。自分の番が来た・・・その心持ちは

(たまらないものだった。と、とつぜんさだこのすがたがなによりもなつかしいものと)

たまらないものだった。と、突然定子の姿が何よりもなつかしいものと

(なってむねにせまってきた。ようこはじぶんにもそのとつぜんのれんそうのけいろは)

なって胸に逼って来た。葉子は自分にもその突然の連想の経路は

(わからなかった。とつぜんもあまりにとつぜんーーしかしようこにせまるそのこころもちは、)

わからなかった。突然もあまりに突然ーーしかし葉子に逼るその心持ちは、

(さらにようこをたたみにつっぷしてなかせるほどつよいものだった。)

さらに葉子を畳に突っ伏して泣かせるほど強いものだった。

(げんかんからひとのはいってくるけはいがした。ようこはすぐそれがくらちであることを)

玄関から人のはいって来る気配がした。葉子はすぐそれが倉地である事を

(かんじた。ようこはくらちとおもっただけで、ふしぎなぞうおをかんじながら)

感じた。葉子は倉地と思っただけで、不思議な憎悪を感じながら

(そのどうせいにみみをすました。くらちはだいどころのほうにいってあいこをよんだ)

その動静に耳をすました。倉地は台所のほうに行って愛子を呼んだ

(ようだった。ふたりのあしおとがげんかんのとなりのろくじょうのほうにいった。そして)

ようだった。二人の足音が玄関の隣の六畳のほうに行った。そして

(しばらくしずかだった。とおもうと、「いや」とちいさくしりぞけるようにいう)

しばらく静かだった。と思うと、「いや」と小さく退けるようにいう

(あいこのこえがたしかにきこえた。だきすくめられて、もがきながらはなたれた)

愛子の声が確かに聞こえた。抱きすくめられて、もがきながら放たれた

(こえらしかったが、そのこえのなかにはぞうおのかげはあきらかにうすかった。)

声らしかったが、その声の中には憎悪の影は明らかに薄かった。

(ようこはかみなりにうたれたようにとつぜんなきやんであたまをあげた。)

葉子は雷に撃たれたように突然泣きやんで頭をあげた。

(すぐくらちがはしごだんをのぼってくるおとがきこえた。)

すぐ倉地が階子段をのぼって来る音が聞こえた。

(「わたしだいどころにまいりますからね」なにもしらなかったらしいおかに、ようこは)

「わたし台所に参りますからね」何も知らなかったらしい岡に、葉子は

(わずかにそれだけをいって、とつぜんざをたってうらばしごにいそいだ。と、)

わずかにそれだけをいって、突然座を立って裏階子に急いだ。と、

(かけちがいにくらちはざしきにはいってきた。つよいさけのこうがすぐへやのくうきを)

かけ違いに倉地は座敷にはいって来た。強い酒の香がすぐ部屋の空気を

(よごした。「やあはるになりおった。さくらがさいたぜ。おいようこ」いかにも)

よごした。「やあ春になりおった。桜が咲いたぜ。おい葉子」いかにも

(きさくらしくしおがれたこえでこうさけんだくらちにたいして、ようこはへんじも)

気さくらしく塩がれた声でこう叫んだ倉地に対して、葉子は返事も

(できないほどこうふんしていた。ようこはてにもったはんけちをくちにおしこむ)

できないほど興奮していた。葉子は手に持ったハンケチを口に押し込む

(ようにくわえて、ふるえるてでかべをこまかくたたくようにしながら)

ようにくわえて、震える手で壁を細かくたたくようにしながら

(はしごだんをおりた。)

階子段を降りた。

(ようこはあたまのなかにてんちのくずれおちるようなおとをききながら、そのまま)

葉子は頭の中に天地の崩れ落ちるような音を聞きながら、そのまま

(えんにでてにわげたをはこうとあせったけれどもどうしてもはけないので、)

縁に出て庭下駄をはこうとあせったけれどもどうしてもはけないので、

(はだしのままにわにでた。そしてつぎのしゅんかんにじぶんをみいだしたときには)

はだしのまま庭に出た。そして次の瞬間に自分を見いだした時には

(いつとをあけたともしらずものおきごやのなかにはいっていた。)

いつ戸をあけたとも知らず物置き小屋の中にはいっていた。

(さんじゅうろくそこのないゆううつがともするとはげしくようこをおそうようになった。)

【三六】 底のない悒鬱がともするとはげしく葉子を襲うようになった。

(いわれのないげきどがつまらないことにもふとあたまをもたげて、ようこはそれを)

いわれのない激怒がつまらない事にもふと頭をもたげて、葉子はそれを

(おししずめることができなくなった。はるがきて、きのめからたたみのとこにいたるまで)

押ししずめる事ができなくなった。春が来て、木の芽から畳の床に至るまで

(すべてのものがふくらんできた。あいこもさだよもみちがえるようにうつくしくなった。)

すべてのものが膨らんで来た。愛子も貞世も見違えるように美しくなった。

(そのにくたいはさいぼうのひとつひとつまですばやくはるをかぎつけ、きゅうしゅうし、ほうまんする)

その肉体は細胞の一つ一つまで素早く春をかぎつけ、吸収し、飽満する

(ようにみえた。あいこはそのあっぱくにたえないではるのきたのをうらむような)

ように見えた。愛子はその圧迫に堪えないで春の来たのを恨むような

(けだるさとさびしさとをみせた。さだよはせいめいそのものだった。あきからふゆに)

けだるさとさびしさとを見せた。貞世は生命そのものだった。秋から冬に

(かけてにょきにょきとのびあがったほそぼそしたからだには、はるのせいのような)

かけてにょきにょきと延び上がった細々したからだには、春の精のような

(ほうれいなしぼうがしめやかにしみわたっていくのがめにみえた。ようこだけは)

豊麗な脂肪がしめやかにしみわたって行くのが目に見えた。葉子だけは

(はるがきてもやせた。くるにつけてやせた。ごむまりのこせんのようなかたは)

春が来てもやせた。来るにつけてやせた。ゴム毬の弧線のような肩は

(ほねばったりんかくを、うすぎになったきもののしたからのぞかせて、じゅんたくなかみのけの)

骨ばった輪郭を、薄着になった着物の下からのぞかせて、潤沢な髪の毛の

(おもみにたえないようにくびすじもほそぼそとなった。やせてゆううつになったことから)

重みに堪えないように首筋も細々となった。やせて悒鬱になった事から

(しょうじたべっしゅのびーーそうおもってようこがたよりにしていたびもそれはだんだん)

生じた別種の美ーーそう思って葉子がたよりにしていた美もそれはだんだん

(さえまさっていくしゅるいのびではないことをきづかねばならなくなった。そのびは)

冴え増さって行く種類の美ではない事を気づかねばならなくなった。その美は

(そのゆくてにはなつがなかった。さむいふゆのみがまちかまえていた。)

その行く手には夏がなかった。寒い冬のみが待ち構えていた。

(かんらくももうかんらくじしんのかんらくはもたなくなった。かんらくのあとにはかならずびょうりてきな)

歓楽ももう歓楽自身の歓楽は持たなくなった。歓楽の後には必ず病理的な

(くつうがともなうようになった。あるときにはそれをおもうことすらがしつぼうだった。)

苦痛が伴うようになった。ある時にはそれを思う事すらが失望だった。

(それでもようこはすべてのふしぜんなほうほうによって、いまはふりかえってみる)

それでも葉子はすべての不自然な方法によって、今は振り返って見る

(かこにばかりながめられるかんらくのぜっちょうをげんえいとしてでもげんざいにえがこうとした。)

過去にばかりながめられる歓楽の絶頂を幻影としてでも現在に描こうとした。

(そしてくらちをじぶんのちからのしはいのもとにつなごうとした。けんこうがおとろえて)

そして倉地を自分の力の支配の下(もと)につなごうとした。健康が衰えて

(いけばいくほどこのしょうそうのためにようこのこころはやすまなかった。ぜんせいきをすぎた)

行けば行くほどこの焦燥のために葉子の心は休まなかった。全盛期を過ぎた

(ぎげいのおんなにのみみられるような、いたましくはいたいした、ふきんのりんこうを)

技芸の女にのみ見られるような、いたましく廃頽した、腐菌の燐光を

(おもわせるせいさんなこわくりょくをわずかなちからとしてようこはどこまでもくらちを)

思わせる凄惨な蠱惑力をわずかな力として葉子はどこまでも倉地を

(とりこにしようとあせりにあせった。)

とりこにしようとあせりにあせった。

(しかしそれはようこのいたましいじかくだった。びとけんこうとのすべてを)

しかしそれは葉子のいたましい自覚だった。美と健康とのすべてを

(そなえていたようこにはいまのじぶんがそうじかくされたのだけれども、はじめてようこを)

備えていた葉子には今の自分がそう自覚されたのだけれども、始めて葉子を

(みるだいさんしゃは、ものすごいほどさえきってみえるおんなざかりのようこのわくりょくに、)

見る第三者は、物すごいほど冴えきって見える女盛りの葉子の惑力に、

(にほんにはみられないようなこけっとのてんけいをみいだしたろう。おまけに)

日本には見られないようなコケットの典型を見いだしたろう。おまけに

(ようこはにくたいのふそくをきょくたんにひとめをひくいふくでおぎなうようになっていた。)

葉子は肉体の不足を極端に人目をひく衣服で補うようになっていた。

(そのとうじはにちろのかんけいもにちべいのかんけいもあらしのまえのようなくらいちょうこうを)

その当時は日露の関係も日米の関係もあらしの前のような暗い徴候を

(あらわしだして、こくじんぜんたいはいっしゅのあっぱくをかんじだしていた。)

現わし出して、国人全体は一種の圧迫を感じ出していた。

(がしんしょうたんというようなあいことばがしきりとげんろんかいにはとかれていた。しかし)

臥薪嘗胆というような合い言葉がしきりと言論界には説かれていた。しかし

(それとどうじににっしんせんそうをそうとうにとおいかことしてながめうるまでに、)

それと同時に日清戦争を相当に遠い過去としてながめうるまでに、

(そのせんえきのおもいふたんからきのゆるんだひとびとは、ようやくちょうせいされはじめた)

その戦役の重い負担から気のゆるんだ人々は、ようやく調整され始めた

(けいざいじょうたいのもとで、せいかつのびそうということにかたむいていた。しぜんしゅぎは)

経済状態の下(もと)で、生活の美装という事に傾いていた。自然主義は

(しそうせいかつのこんていとなり、とうじびょうてんさいのなをほしいままにしたたかやまちょぎゅうらの)

思想生活の根底となり、当時病天才の名をほしいままにした高山樗牛らの

(いちだんはにいちぇのしそうをひょうぼうして「びてきせいかつ」とか「きよもりろん」というような)

一団はニイチェの思想を標榜して「美的生活」とか「清盛論」というような

(だいたんほんぽうなげんせつをもってしそうのいしんをさけんでいた。ふうぞくもんだいとかじょしの)

大胆奔放な言説をもって思想の維新を叫んでいた。風ゾク問題とか女子の

(ふくそうもんだいとかいうぎろんがしゅきゅうはのひとびとのあいだにはかまびすしくもちだされて)

服装問題とかいう議論が守旧派の人々の間にはかまびすしく持ち出されて

(いるあいだに、そのはんたいのけいこうは、からをやぶったけしのたねのようにしほうはっぽうに)

いる間に、その反対の傾向は、殻を破った芥子の種のように四方八方に

(とびちった。こうしてなにかいままでのにほんにはなかったようなもののしゅつげんを)

飛び散った。こうして何か今までの日本にはなかったようなものの出現を

(まちもうけみまもっていたわかいひとびとのめには、ようこのすがたはひとつのてんけいのように)

待ち設け見守っていた若い人々の目には、葉子の姿は一つの天啓のように

(うつったにちがいない。じょゆうらしいじょゆうをもたず、かふぇーらしいかふぇーを)

映ったに違いない。女優らしい女優を持たず、カフェーらしいカフェーを

(もたないとうじのろじょうにようこのすがたはまぶしいもののひとつだ。ようこをみたひとは)

持たない当時の路上に葉子の姿はまぶしいものの一つだ。葉子を見た人は

(だんじょをとわずめをそばだてた。)

男女を問わず目をそばだてた。

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