有島武郎 或る女88

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(さんじゅうしちてんしんにちかくぽつりとひとつしろくわきでたくものいろにもかたちにも)

【三七】 天心に近くぽつりと一つ白くわき出た雲の色にも形にも

(それとしられるようなたけなわなはるが、ところどころのべっそうのたてもののほかには)

それと知られるようなたけなわな春が、ところどころの別荘の建物のほかには

(みわたすかぎりふるくさびれたかまくらのやとやとにまであふれていた。)

見渡すかぎり古く寂びれた鎌倉の谷々(やとやと)にまであふれていた。

(おもいすなつちのしろばんだみちのうえにはおちつばきがひとえざくらのはなとまじってむざんに)

重い砂土の白ばんだ道の上には落ち椿が一重桜の花とまじって無残に

(おちちっていた。さくらのこずえにはあかみをもったわかばがきらきらとひに)

落ち散っていた。桜のこずえには紅味(あかみ)を持った若葉がきらきらと日に

(かがやいて、あさいかげをちにおとした。なもないぞうきまでがうつくしかった。)

輝いて、浅い影を地に落とした。名もない雑木までが美しかった。

(かわずのこえがねむくたんぼのほうからきこえてきた。きゅうかでないせいか、)

蛙(かわず)の声が眠く田圃のほうから聞こえて来た。休暇でないせいか、

(おもいのほかにひとのざっとうもなく、ときおり、おなじはなかんざしを、おんなはかみにおとこは)

思いのほかに人の雑踏もなく、時おり、同じ花かんざしを、女は髪に男は

(えりにさしてせんだつらしいのがむらさきのこばたをもった、とおいところからはるをおって)

襟にさして先達らしいのが紫の小旗を持った、遠い所から春を逐って

(へめぐってきたらしいいなかのひとたちのむれが、さけのきもからずに)

経(へ)めぐって来たらしい田舎の人たちの群れが、酒の気も借らずに

(しめやかにはなしあいながらとおるのにいきあうくらいのものだった。)

しめやかに話し合いながら通るのに行きあうくらいのものだった。

(くらちもきしゃのなかからしぜんにきぶんがはれたとみえて、いかにもくったくなくなって)

倉地も汽車の中から自然に気分が晴れたと見えて、いかにも屈託なくなって

(みえた。ふたりはていしゃばのふきんにあるあるこぎれいなりょかんをかねたりょうりやで)

見えた。二人は停車場の付近にある或る小ぎれいな旅館を兼ねた料理屋で

(ちゅうじきをしたためた。にっちょうさまともどんぶくさまともいうてらのやねが)

中食(ちゅうじき)をしたためた。日朝様ともどんぶく様ともいう寺の屋根が

(にわさきにみえて、そこからがんびょうのきとうだといううちわだいこのおとがどんぶくどんぶくと)

庭先に見えて、そこから眼病の祈祷だという団扇太鼓の音がどんぶくどんぶくと

(たんちょうにきこえるようなところだった。ひがしのほうはそのなさながらのびょうぶやまが)

単調に聞こえるような所だった。東のほうはその名さながらの屏風山が

(わかばではなよりもうつくしくよそおわれてかすんでいた。みじかくうつくしくかりこまれたしばふの)

若葉で花よりも美しく装われて霞んでいた。短く美しく刈り込まれた芝生の

(しばはまだもえていなかったが、ところまばらにたちつらなったこまつはみどりをふきかけて、)

芝はまだ萌えていなかったが、所まばらに立ち連なった小松は緑をふきかけて、

(やえざくらはのぼせたようにはなでうなだれていた。もうあわせいちまいになって、)

八重桜はのぼせたように花でうなだれていた。もう袷一枚になって、

(そこにたべものをはこんでくるじょちゅうはえりまえをくつろげながらなつがきたようだと)

そこに食べ物を運んで来る女中は襟前をくつろげながら夏が来たようだと

など

(いってわらったりした。「ここはいいわ。きょうはここでとまりましょう」)

いって笑ったりした。「ここはいいわ。きょうはここで宿(とま)りましょう」

(ようこはけいかくからけいかくであたまをいっぱいにしていた。そしてそこにいらないものを)

葉子は計画から計画で頭をいっぱいにしていた。そしてそこに要らないものを

(あずけて、えのしまのほうまでくるまをはしらした。)

預けて、江の島のほうまで車を走らした。

(かえりにはごくらくじざかのしたでふたりともくるまをすててかいがんにでた。もうひは)

帰りには極楽寺坂の下で二人とも車を捨てて海岸に出た。もう日は

(いなむらがさきのほうにかたむいてすなはまはややくれそめていた。こつぼのはなのがけのうえに)

稲村ヶ崎のほうに傾いて砂浜はやや暮れ初(そ)めていた。小坪の鼻の崕の上に

(わかばにつつまれてたったいっけんたてられたせいようじんのしろぺんきぬりのべっそうが、)

若葉に包まれてたった一軒建てられた西洋人の白ペンキ塗りの別荘が、

(ゆうひをうけてみどりいろにそめたこけっとの、かみのなかのだいやもんどのように)

夕日を受けて緑色に染めたコケットの、髪の中のダイヤモンドのように

(かがやいていた。そのがけしたのみんかからはすいえんがゆうもやといっしょになってうみのほうに)

輝いていた。その崕下の民家からは炊煙が夕靄と一緒になって海のほうに

(たなびいていた。なみうちぎわのすなはいいほどにしめってようこのあずまげたの)

たなびいていた。波打ちぎわの砂はいいほどに湿って葉子の吾妻下駄の

(はをすった。ふたりはべっそうからさんぽにでてきたらしいいくくみかのじょうひんなだんじょの)

歯を吸った。二人は別荘から散歩に出て来たらしい幾組かの上品な男女の

(むれとであったが、ようこはじぶんのようぼうなりふくそうなりが、そのどのむれの)

群れと出あったが、葉子は自分の容貌なり服装なりが、そのどの群れの

(どのひとにもたちまさっているのをいしきして、かるいほこりとおちつきをかんじていた。)

どの人にも立ちまさっているのを意識して、軽い誇りと落ち着きを感じていた。

(くらちもそういうおんなをじぶんのはんりょとするのをあながちむとんじゃくには)

倉地もそういう女を自分の伴侶とするのをあながち無頓着(むとんじゃく)には

(おもわぬらしかった。「だれかひょんなひとにあうだろうとおもっていましたが)

思わぬらしかった。「だれかひょんな人にあうだろうと思っていましたが

(うまくだれにもあわなかってね。むこうのこつぼのじんかのみえるところまで)

うまくだれにもあわなかってね。向こうの小坪の人家の見える所まで

(いきましょうね。そうしてこうみょうじのさくらをみてかえりましょう。そうすると)

行きましょうね。そうして光明寺の桜を見て帰りましょう。そうすると

(ちょうどおなかがいいすきぐあいになるわ」くらちはなんともこたえなかったが、)

ちょうどお腹がいい空き具合になるわ」倉地はなんとも答えなかったが、

(むろんしょうちでいるらしかった。ようこはふとうみのほうをみてくらちにまたくちを)

無論承知でいるらしかった。葉子はふと海のほうを見て倉地にまた口を

(きった。「あれはうみね」「おおせのとおり」くらちはようこがときどきとてつもなく)

きった。「あれは海ね」「仰せのとおり」倉地は葉子が時々途轍もなく

(わかりきったことをしょうじょみたいなむじゃきさでいう、またそれがはじまったと)

わかりきった事を少女みたいな無邪気さでいう、またそれが始まったと

(いうようにしぶそうなわらいをかたほにうかべてみせた。「わたし)

いうように渋そうな笑いを片頬(かたほ)に浮かべて見せた。「わたし

(もういちどあのまっただなかにのりだしてみたい」「してどうするのだい」)

もう一度あのまっただなかに乗り出してみたい」「してどうするのだい」

(くらちもさすがながかったうみのうえのせいかつをとおくおもいやるようなかおをしながら)

倉地もさすが長かった海の上の生活を遠く思いやるような顔をしながら

(いった。「ただのりだしてみたいの。どーっとみさかいもなくふきまく)

いった。「ただ乗り出してみたいの。どーっと見さかいもなく吹きまく

(かぜのなかを、おおなみにおもいぞんぶんゆられながら、ひっくりかえりそうになっては)

風の中を、大波に思い存分揺られながら、ひっくりかえりそうになっては

(たちなおってきりぬけていくあのふねのうえのことをおもうと、むねがどきどきするほど)

立ち直って切り抜けて行くあの船の上の事を思うと、胸がどきどきするほど

(もういちどのってみたくなりますわ。こんなところいやねえ、すんでみると」)

もう一度乗ってみたくなりますわ。こんな所いやねえ、住んでみると」

(そういってようこはぱらそるをひらいたままえのさきでしろいすなをざくざくと)

そういって葉子はパラソルを開いたまま柄の先で白い砂をざくざくと

(さしとおした。「あのさむいばんのこと、わたしがかんぱんのうえでかんがえこんでいたとき、)

刺し通した。「あの寒い晩の事、わたしが甲板の上で考え込んでいた時、

(あなたがひをぶらさげておかさんをつれて、やっていらしったあのときのことなどを)

あなたが灯をぶら下げて岡さんを連れて、やっていらしったあの時の事などを

(わたしはわけもなくおもいだしますわ。あのときわたしはうみでなければ)

わたしはわけもなく思い出しますわ。あの時わたしは海でなければ

(きけないようなおんがくをきいていましたわ。おかのうえにはあんなおんがくは)

聞けないような音楽を聞いていましたわ。 陸(おか)の上にはあんな音楽は

(きこうといったってありゃしない。おーい、おーい、おい、おい、)

聞こうといったってありゃしない。おーい、おーい、おい、おい、

(おい、おーい、・・・あれはなに?」「なんだそれは」くらちはけげんなかおをして)

おい、おーい、・・・あれは何?」「なんだそれは」倉地は怪訝な顔をして

(ようこをふりかえった。「あのこえ」「どの」「うみのこえ・・・ひとをよぶような・・・)

葉子を振り返った。「あの声」「どの」「海の声・・・人を呼ぶような・・・

(おたがいでよびあうような」「なんにもきこえやせんじゃないか」「そのとき)

お互いで呼び合うような」「なんにも聞こえやせんじゃないか」「その時

(きいたのよ・・・こんなあさいところではなにがきこえますものか」「おれはながねん)

聞いたのよ・・・こんな浅い所では何が聞こえますものか」「おれは長年

(うみのうえでくらしたが、そんなこえはいちどだってきいたことはないわ」「そうお。)

海の上で暮らしたが、そんな声は一度だって聞いた事はないわ」「そうお。

(ふしぎね。おんがくのみみのないひとにはきこえないのかしら。・・・たしかに)

不思議ね。音楽の耳のない人には聞こえないのかしら。・・・確かに

(きこえましたよ、あのばんに・・・それはきみのわるいようなものすごいような・・・)

聞こえましたよ、あの晩に・・・それは気味の悪いような物すごいような・・・

(いわばね、いっしょになるべきはずなのにいっしょになれなかった・・・そのひとたちが)

いわばね、一緒になるべきはずなのに一緒になれなかった・・・その人たちが

(いくおくまんとうみのそこにあつまっていて、めいめいしにかけたようなひくいおとで、)

幾億万と海の底に集まっていて、銘々死にかけたような低い音で、

(おーい、おーいとよびたてる、それがいっしょになってあんなぼんやりした)

おーい、おーいと呼び立てる、それが一緒になってあんなぼんやりした

(おおきなこえになるかとおもうようなそんなきみのわるいこえなの・・・どこかで)

大きな声になるかと思うようなそんな気味の悪い声なの・・・どこかで

(いまでもそのこえがきこえるようよ」「きむらがやっているのだろう」そういって)

今でもその声が聞こえるようよ」「木村がやっているのだろう」そういって

(くらちはたかだかとわらった。ようこはみょうにわらえなかった。そしてもういちどうみのほうを)

倉地は高々と笑った。葉子は妙に笑えなかった。そしてもう一度海のほうを

(ながめやった。めもとどかないようなとおくのほうに、おおしまがやまのこしから)

ながめやった。目も届かないような遠くのほうに、大島が山の腰から

(ゆうもやにぼかされてなくなって、うえのほうだけがへのじをえがいてぼんやりと)

夕靄にぼかされてなくなって、上のほうだけがへの字を描いてぼんやりと

(そらにうかんでいた。)

空に浮かんでいた。

(ふたりはいつかなめりがわのかわぐちのところまできついていた。いなせがわをわたるとき、)

二人はいつか滑川の川口の所まで来着いていた。稲瀬川を渡る時、

(くらちは、よこはまふとうでようこにまつわるわかものにしたように、ようこのじょうたいを)

倉地は、横浜埠頭で葉子にまつわる若者にしたように、葉子の上体を

(みぎてにかるがるとかかえて、くもなくほそいながれをおどりこしてしまったが、)

右手に軽々とかかえて、苦もなく細い流れを 跳(おど)り越してしまったが、

(なめりがわのほうはそうはいかなかった。ふたりはかわはばのせまそうなところをたずねて)

滑川のほうはそうは行かなかった。二人は川幅の狭そうな所を尋ねて

(だんだんじょうりゅうのほうにながれにそうてのぼっていったが、かわはばはひろくなって)

だんだん上流のほうに流れに沿うてのぼって行ったが、川幅は広くなって

(いくばかりだった。「めんどうくさい、かえりましょうか」おおきなことを)

行くばかりだった。「めんどうくさい、帰りましょうか」大きな事を

(いいながら、こうみょうじまでにははんぶんみちもこないうちに、げたぜんたいがめいりこむ)

いいながら、光明寺までには半分道も来ないうちに、下駄全体がめいりこむ

(ようなすなみちでつかれはててしまったようこはこういいだした。「あすこにはしが)

ような砂道で疲れ果ててしまった葉子はこういい出した。「あすこに橋が

(みえる。とにかくあすこまでいってみようや」くらちはそういってかいがんせんに)

見える。とにかくあすこまで行ってみようや」倉地はそういって海岸線に

(そうてむっくりもれあがったさきゅうのほうにつづくすなみちをのぼりはじめた。)

沿うてむっくり盛れ上がった砂丘のほうに続く砂道をのぼり始めた。

(ようこはくらちにてをひかれていきをせいせいいわせながら、きんにくがきょうちょくするように)

葉子は倉地に手を引かれて息をせいせいいわせながら、筋肉が強直するように

(つかれたあしをはこんだ。じぶんのけんこうのすいたいがいまさらにはっきりおもわせられるような)

疲れた足を運んだ。自分の健康の衰退が今さらにはっきり思わせられるような

(それはつかれかただった。いまにもはれつするようにしんぞうがこどうした。)

それは疲れかただった。今にも破裂するように心臓が鼓動した。

(「ちょっとまってべんけいがにをふみつけそうであるけやしませんわ」そうようこは)

「ちょっと待って弁慶蟹を踏みつけそうで歩けやしませんわ」そう葉子は

(もうしわけらしくいっていくどかあしをとめた。じっさいそのへんにはあかいこうらを)

申しわけらしくいって幾度か足をとめた。実際そのへんには紅い甲羅を

(せおったちいさなかにがいかめしいはさみをあげて、ざわざわとおとをたてるほど)

背負った小さな蟹がいかめしい鋏を上げて、ざわざわと音を立てるほど

(おびただしくおうこうしていた。それがいかにもばんしゅんのゆうぐれらしかった。)

おびただしく横行していた。それがいかにも晩春の夕暮れらしかった。

(さきゅうをのぼりきるとざいもくざのほうにつづくどうろにでた。ようこはどうも)

砂丘をのぼりきると材木座のほうに続く道路に出た。葉子はどうも

(ふしぎなこころもちで、はまからみえていたみだればしのほうにいくきに)

不思議な心持ちで、浜から見えていた 乱橋(みだればし)のほうに行く気に

(なれなかった。しかしくらちがどんどんそっちにむいてあるきだすので、)

なれなかった。しかし倉地がどんどんそっちに向いて歩き出すので、

(すこしすねたようにそのてにとりすがりながらもつれあってひとけのない)

少しすねたようにその手に取りすがりながらもつれ合って人気(ひとけ)のない

(そのはしのうえまできてしまった。)

その橋の上まで来てしまった。

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