有島武郎 或る女104
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問題文
(ちょうどなにもかもわすれてさだよのことばかりきにしていたようこは、)
ちょうど何もかも忘れて貞世の事ばかり気にしていた葉子は、
(このあんないをきくと、まるでうまれかわったようにそのこころは)
この案内を聞くと、まるで生まれ代わったようにその心は
(くらちでいっぱいになってしまった。)
倉地でいっぱいになってしまった。
(びょうしつのなかからさけびにさけぶさだよのこえがろうかまでひびいてきこえたけれども、)
病室の中から叫びに叫ぶ貞世の声が廊下まで響いて聞こえたけれども、
(ようこはそれにはとんじゃくしていられないほどむきになって)
葉子はそれには頓着(とんじゃく)していられないほどむきになって
(かんごふのあとをおった。あるきながらえもんをととのえて、れいのひだりてをあげて)
看護婦のあとを追った。歩きながら衣紋を整えて、例の左手をあげて
(びんのけをきようにかきあげながら、おうせつしつのところまでくると、そこはさすがに)
鬢の毛を器用にかき上げながら、応接室の所まで来ると、そこはさすがに
(いくぶんかあかるくなっていて、ひらきどのそばのがらすまどのむこうに)
いくぶんか明るくなっていて、開き戸のそばのガラス窓の向こうに
(がんじょうなくらちと、おもいもかけずおかのきゃしゃなすがたとがながめられた。)
頑丈な倉地と、思いもかけず岡の華奢な姿とがながめられた。
(ようこはかんごふのいるのもおかのいるのもわすれたようにいきなりくらちにちかづいて、)
葉子は看護婦のいるのも岡のいるのも忘れたようにいきなり倉地に近づいて、
(そのむねにじぶんのかおをうずめてしまった。なによりもかによりもながいながいあいだ)
その胸に自分の顔を埋めてしまった。何よりもかによりも長い長い間
(あいえずにいたくらちのむねは、かずかぎりもないれんそうにかざられて、すべてのぎわくや)
会い得ずにいた倉地の胸は、数限りもない連想に飾られて、すべての疑惑や
(ふかいをいっそうするにたるほどなつかしかった。くらちのむねからふれなれた)
不快を一掃するに足るほどなつかしかった。倉地の胸から触れ慣れた
(きぬざわりと、きょうれつなはだのにおいとが、ようこのびょうてきにこうじたかんかくを)
衣(きぬ)ざわりと、強烈な膚のにおいとが、葉子の病的に嵩じた感覚を
(らんすいさすほどにつたわってきた。)
乱酔さすほどに伝わって来た。
(「どうだ、ちっとはいいか」)
「どうだ、ちっとはいいか」
(「おおこのこえだ、このこえだ」・・・ようこはかくおもいながらかなしくなった。)
「おおこの声だ、この声だ」・・・葉子はかく思いながら悲しくなった。
(それはながいあいだやみのなかにとじこめられていたものがぐうぜんひのひかりをみたときに)
それは長い間闇の中に閉じこめられていたものが偶然灯の光を見た時に
(むねをついてわきでてくるようなかなしさだった。ようこはじぶんのたちばをことさら)
胸を突いてわき出て来るような悲しさだった。葉子は自分の立場をことさら
(あわれにえがいてみたいしょうどうをかんじた。)
あわれに描いてみたい衝動を感じた。
(「だめです。さだよは、かわいそうにしにます」)
「だめです。貞世は、かわいそうに死にます」
(「ばかな・・・あなたにもにあわん、そうはようらくたんするほうがあるものかい。)
「ばかな・・・あなたにも似合わん、そう早う落胆する法があるものかい。
(どれひとつみまってやろう」そういいながらくらちはせんこくからそこにいた)
どれ一つ見舞ってやろう」そういいながら倉地は先刻からそこにいた
(かんごふのほうにふりむいたようすだった。そこにかんごふもおかもいるということは)
看護婦のほうに振り向いた様子だった。そこに看護婦も岡もいるという事は
(ちゃんとしっていながら、ようこはだれもいないもののようなこころもちで)
ちゃんと知っていながら、葉子はだれもいないもののような心持ちで
(ふるまっていたのをおもうと、じぶんながらこのごろはこころがくるっているのでは)
振る舞っていたのを思うと、自分ながらこのごろは心が狂っているのでは
(ないかとさえうたがった。かんごふはくらちとようことのたいわぶりで、このうつくしい)
ないかとさえ疑った。看護婦は倉地と葉子との対話ぶりで、この美しい
(ふじんのすじょうをのみこんだというようなかおをしていた。おかはさすがに)
婦人の素性をのみ込んだというような顔をしていた。岡はさすがに
(つつましやかにしんつうのいろをかおにあらわしていすのせにてをかけたままたっていた。)
つつましやかに心痛の色を顔に現わして椅子の背に手をかけたまま立っていた。
(「ああ、おかさんあなたもわざわざおみまいくださってありがとうございました」)
「ああ、岡さんあなたもわざわざお見舞いくださってありがとうございました」
(ようこはすこしあいさつのきかいをおくらしたとおもいながらもやさしくこういった。)
葉子は少し挨拶の機会をおくらしたと思いながらもやさしくこういった。
(おかはほおをあからめたままだまってうなずいた。)
岡は頬を紅らめたまま黙ってうなずいた。
(「ちょうどいまみえたもんだでごいっしょしたが、おかさんはここで)
「ちょうど今見えたもんだで御一緒したが、岡さんはここで
(おかえりをねがったがいいとおもうが・・・(そういってくらちはおかのほうをみた))
お帰りを願ったがいいと思うが・・・(そういって倉地は岡のほうを見た)
(なにしろびょうきがびょうきですから・・・」)
何しろ病気が病気ですから・・・」
(「わたし、さだよさんにぜひおあいしたいとおもいますから)
「わたし、貞世さんにぜひお会いしたいと思いますから
(どうかおゆるしください」)
どうかお許しください」
(おかはおもいいったようにこういって、ちょうどそこにかんごふがもってきた)
岡は思い入ったようにこういって、ちょうどそこに看護婦が持って来た
(にまいのしろいうわっぱりのうちすこしふるくみえるいちまいをとってくらちよりもさきに)
二枚の白い上っ張りのうち少し古く見える一枚を取って倉地よりも先に
(きはじめた。ようこはおかをみるともうひとつのたくらみをこころのなかであんじだしていた。)
着始めた。葉子は岡を見るともう一つのたくらみを心の中で案じ出していた。
(おかをできるだけたびたびさんないのいえのほうにあそびにいかせて)
岡をできるだけたびたび山内(さんない)の家のほうに遊びに行かせて
(やろう。それはくらちとあいことがせっしょくするきかいをいくらかでもさまたげるけっかに)
やろう。それは倉地と愛子とが接触する機会をいくらかでも妨げる結果に
(なるにちがいない。おかとあいことがたがいにあいしあうようになったら・・・)
なるに違いない。岡と愛子とが互いに愛し合うようになったら・・・
(なったとしてもそれはわるいけっかということはできない。おかはびょうしんでは)
なったとしてもそれは悪い結果という事はできない。岡は病身では
(あるけれどもちいもあればかねもある。それはあいこのみならず、じぶんの)
あるけれども地位もあれば金もある。それは愛子のみならず、自分の
(しょうらいにとってもやくにたつにそういない。・・・とそうおもうすぐそのしたから、)
将来に取っても役に立つに相違ない。・・・とそう思うすぐその下から、
(どうしてもむしのすかないあいこが、ようこのいしのもとにすっかり)
どうしても虫の好かない愛子が、葉子の意志の下(もと)にすっかり
(つなぎつけられているようなおかをぬすんでいくのをみなければならないのが)
つなぎつけられているような岡をぬすんで行くのを見なければならないのが
(つらにくくもねたましくもあった。)
面憎くも妬ましくもあった。
(ようこはふたりのおとこをあんないしながらさきにたった。)
葉子は二人の男を案内しながら先に立った。
(くらいながいろうかのりょうがわにたちならんだびょうしつのなかからは、こきゅうこんなんのなかから)
暗い長い廊下の両側に立ちならんだ病室の中からは、呼吸困難の中から
(かすれたようなこえででぃふてりやらしいようじのなきさけぶのがきこえたりした。)
かすれたような声でディフテリヤらしい幼児の泣き叫ぶのが聞こえたりした。
(さだよのびょうしつからはひとりのかんごふがなかばみをのりだして、へやのなかにむいて)
貞世の病室からは一人の看護婦が半ば身を乗り出して、部屋の中に向いて
(なにかいいながら、しきりとこっちをながめていた。さだよのなにかいいつのる)
何かいいながら、しきりとこっちをながめていた。貞世の何かいい募る
(ことばさえがようこのみみにとどいてきた。そのしゅんかんにもうようこはそこにくらちの)
言葉さえが葉子の耳に届いて来た。その瞬間にもう葉子はそこに倉地の
(いることなどもわすれて、いそぎあしでそのほうにはしりちかづいた。)
いる事なども忘れて、急ぎ足でそのほうに走り近づいた。
(「そらもうかえっていらっしゃいましたよ」といいながらかおをひっこめた)
「そらもう帰っていらっしゃいましたよ」といいながら顔を引っ込めた
(かんごふにつづいて、とびこむようにびょうしつにはいってみると、さだよはらんぼうにも)
看護婦に続いて、飛び込むように病室にはいって見ると、貞世は乱暴にも
(しんだいのうえにおきあがって、ひざこぞうもあらわになるほどとりみだしたすがたで、)
寝台の上に起き上がって、膝小僧もあらわになるほど取り乱した姿で、
(てをかおにあてたままおいおいとないていた。ようこはおどろいてしんだいにちかよった。)
手を顔にあてたままおいおいと泣いていた。葉子は驚いて寝台に近寄った。
(「なんというあなたはききわけのない・・・さあちゃんそのびょうきで、)
「なんというあなたは聞きわけのない・・・貞(さあ)ちゃんその病気で、
(あなた、しんだいからおきあがったりするといつまでもなおりはしませんよ。)
あなた、寝台から起き上がったりするといつまでもなおりはしませんよ。
(あなたのすきなくらちのおじさんとおかさんがおみまいにきてくださったのですよ。)
あなたの好きな倉地のおじさんと岡さんがお見舞いに来てくださったのですよ。
(はっきりわかりますか、そら、そこをごらん、よこになってから」)
はっきりわかりますか、そら、そこを御覧、横になってから」
(そういいいいようこはいかにもあいじょうにみちたきようなてつきでかるくさだよを)
そう言い言い葉子はいかにも愛情に満ちた器用な手つきで軽く貞世を
(かかえてとこのうえにねかしつけた。さだよのかおはいままでさかんなうんどうでも)
かかえて床の上に臥かしつけた。貞世の顔は今まで盛んな運動でも
(していたようにうつくしくいきいきとあかみがさして、ふさふさしたかみのけは)
していたように美しく活き活きと紅味がさして、ふさふさした髪の毛は
(すこしもつれてあせばんでひたいぎわにねばりついていた。それはびょうきをおもわせるよりも)
少しもつれて汗ばんで額ぎわに粘りついていた。それは病気を思わせるよりも
(かじょうのけんこうとでもいうべきものをおもわせた。ただそのりょうがんとくちびるだけは)
過剰の健康とでもいうべきものを思わせた。ただその両眼と口びるだけは
(あきらかにじんじょうでなかった。すっかりじゅうけつしたそのめはふだんよりも)
明らかに尋常でなかった。すっかり充血したその目はふだんよりも
(おおきくなって、ふたえまぶたになっていた。そのひとみはねつのためにもえて、)
大きくなって、二重まぶたになっていた。そのひとみは熱のために燃えて、
(おどおどとなにものかをみつめているようにも、なにかをみいだそうとして)
おどおどと何者かを見つめているようにも、何かを見いだそうとして
(たずねあぐんでいるようにもみえた。そのようすはたとえばようこを)
尋ねあぐんでいるようにも見えた。その様子はたとえば葉子を
(みいっているときでも、ようこをつらぬいてようこのうしろのかたはるかのところにある)
見入っている時でも、葉子を貫いて葉子の後ろの方(かた)はるかの所にある
(あるものをみきわめようとあらんかぎりのちからをつくしているようだった。)
或る者を見きわめようとあらん限りの力を尽くしているようだった。
(くちびるはじょうげともからからになってうちむらさきというかんるいのみをむいて)
口びるは上下ともからからになって内紫という柑類の実をむいて
(てんぴにほしたようにかわいていた。それはみるもいたいたしかった。)
天日に干したようにかわいていた。それは見るも痛々しかった。
(そのくちびるのなかからこうねつのためにいっしゅのしゅうきがこきゅうのたびごとに)
その口びるの中から高熱のために一種の臭気が呼吸のたびごとに
(はきだされる、そのしゅうきがくちびるのいちじるしいゆがめかたのために、)
吐き出される、その臭気が口びるの著しいゆがめかたのために、
(めにみえるようだった。さだよはようこにちゅういされてものうげにすこしめをそらして)
目に見えるようだった。貞世は葉子に注意されて物惰げに少し目をそらして
(くらちとおかとのいるほうをみたが、それがどうしたんだというように、)
倉地と岡とのいるほうを見たが、それがどうしたんだというように、
(すこしのきょうみもみせずにまたようこをみいりながらせっせとかたをゆすって)
少しの興味も見せずにまた葉子を見入りながらせっせと肩をゆすって
(くるしげなこきゅうをつづけた。)
苦しげな呼吸を続けた。
(「おねえさま・・・みず・・・こおり・・・もういっちゃいや・・・」)
「おねえさま・・・水・・・氷・・・もういっちゃいや・・・」
(これだけかすかにいうともうくるしそうにめをつぶってほろほろと)
これだけかすかにいうともう苦しそうに目をつぶってほろほろと
(おおつぶのなみだをこぼすのだった。)
大粒の涙をこぼすのだった。